麻生発言についてのポリティカル・コンパス

まだ幾つか並行してるけど、今回の麻生発言を系統別にまとめ。

  1. 改憲について政権与党ナチスの手法に学んで、喧噪(熱狂)のどさくさに紛れて静かに(密かに)進めてしまえばよい」と理解して批判
  2. 改憲について政権与党ナチスの手法に学んで、喧噪(闊達な議論)を封じ込めて静かに(異論を排除して)進めてしまえばよい」と理解して批判
  3. 改憲についてマスコミナチスの手法という失敗*1に学んで、喧噪(熱狂)の中で事が進まないように静かに(落ちついた議論を)すべき」と理解して擁護
  4. 改憲についてナチスの手法の失敗に学んで、という例示は【誤解する人がいることを避けられない】のだから、そもそも出すべきではなかった」と理解した上で批判
  5. 「麻生はバカなんだから、どうせ言ってることは間違いだらけ、漢字も読めない奴だから日本語もちゃんと扱えない。そんな奴を壇上に上げるのが間違い」という罵倒を孕んだ批判(割と見かける論調(^^;)

(1)……この場合の「ナチスの手法という失敗」というのは「喧噪のどさくさに紛れて事態を進行させてしまうことを許した」であり、それは結果的にドイツ国民にとっての「失敗だった」。つまり「ナチスの手法は、ドイツ国民にとって失敗であった」から、【その手法を繰り返さないよう、ドイツ国民が何を間違えたかという失敗に学ぶべき】になるんだが、「失敗したナチスに学ぶ」「ナチスにとって失敗だった」と解釈すると、これがまた意味が違ってくる。批判の解釈が何通りも発生した(しかもまったく逆の解釈なのに、どちらも批判に結論した)のは、そこらへんの主語が省略された結果だと思われる。


結局のところ、「どう受け取るか」「どう理解したか」というよりも、「どう理解を【したい】か」で導き出される結論が左右されるところはままあるかも。
そして、(5)を除けば比較的冷静に考えた結果、それぞれ(1)-(4)の結論を出している様子。


(3)のみ主語が「マスコミ」になって、他の批判とは対象がぐるりと変わるのはなぜかというと、元の発言では直前の段落で「靖国神社中韓を交えた喧噪の対象にしてしまい、静かに熟考する余地を奪ったのは、狂騒を焚きつけて煽り立てたマスコミである」としているところから。
靖国神社が置かれた喧噪を作り出したのは「ナチスのように振る舞ったマスコミ」なので、「(歴史に)学んだらどうかね」という皮肉たっぷりの言葉が出てくる。
文脈を辿れば、その皮肉を向けられているのがマスコミである、という理解をするかしないかで、全体の解釈が変わってしまう。


それぞれの結論を別の答えを出した人に、全員が「俺の解釈こそ正解」と互いに強い合っているのが、その後の議論の残照*2だと思う。
(5)については、(1)(2)の意見の人は割と安易に飛びついて組み込みたがるし、庇いきれないと考える(4)の人も潜在的に意識してるように見える人がちらほら。


麻生議員の釈明、麻生議員の発言を【音声で】最初に聞いた人々、要約された誤解釈記事が出た後の全文書き起こしと音声を合わせて確認した人々の認識は、等しく(3)で、その上で「マスコミの理解力を過大に期待するからこうなるんだ」という主旨での(4)に至った人もいる。


そんなわけで僕は一連の問題について「麻生議員の脇が甘い」「誤認と理解できる引用がある」という批判について一定の理解を示す一方で、「文章は、音声と映像(ライブ)のニュアンスを伝える力がない。まして、要約や整理によってニュアンスが変わる」という点を特に重大視してる。
インターネットは確かに映像情報(動画)の共有も簡単に行えるようにしたけど、「未編集の映像をフルタイム、逐一確かめる」のは暇人か専門家かマニアだけで、大多数の人はそういうことはしない。
つまり、「一次ソースを見た誰かが要約したもの」を報道や伝聞、さらにそれを翻案した誰かのツイートという形で見ることになるわけで、無加工の一次ソースにいつでもアクセスできたとしても、それを逐一確かめるのは、よほどのディレッタントだけだろう、ということを、考えておかないといけない。

  • (´∇`)「人の嫌がることを進んでやります」
  • <丶`Д´>「人の嫌がることを進んでやります」

とかは、この点の「ニュアンスの相違」を理解するうえで、わかりやすい例文だとは思う(^^;)


民主主義は「情報の種類、事前選別、選択肢の充足、読み解き方・読み砕き方、選択者自身の損得の立場」とかを勘案しながら得た情報に基づいて判断を下すことを、個々の問題の専門家ではない【大多数の門外漢】に委ねる仕組み。
とはいえ、有権者全員が個々の問題の万能の専門家になることはできないから、専門家が上げた情報に基づき、それを理解しなきゃいけない。
そこで上げられる情報、選択肢、課題点についての説明が十分であれば、同じ地域にあって権益を共有している人が選ぶ選択肢はだいたい同じになる。
細かいポジションの違い、権益を共有できない話題では、そこらへんは違ってくるから、権益を共有できる人同士が党派を組んで、優先順位をあげようとする。
ここらへんも情報が正確なら健全に働くと思う。


その意味で、「マスコミが健全なら、民主主義は健全に働く」。そうじゃないから、マスコミしっかりしろ、という話になるんだと思う。

【分業社会】 高度に分業が進んだ社会の光と影 【妬みと蔑み】
http://togetter.com/li/133801
【有能】 民主主義に則ると有能な人材は輩出されにくいらしい 【無能】
http://togetter.com/li/401562


ご唱和下さいヽ(´∇`)ノ



一連の麻生発言について、擁護者と批判者に割れた(実は冒頭にもあるように批判者の間でも批判の理由が真逆に割れている)のはなぜか?
また、「講演をその場で耳で聞いた人達」と「文章で後から読んだ人達」、「文章で後から読んだときには疑問を感じたが、映像で(音声で)聞いたら誤解が氷解した人達」の間に何が起きたのか? についての考察はこちら。

【耳で聞く】 麻生発言〜情報を耳目のどちらで処理したかで解釈が変わるのはなぜか 【目で読む】
http://togetter.com/li/545180


しかし問題は、この「初手の【マスコミによる誤解釈】を、後々リレーする記事・記者・翻訳者の全てが、訂正しないままに誤解釈をニュースとして拡散している」ということ。間違いに基づいた論評を、誰も指摘しないままに拡散し続けているけれども、右から左にリレーしただけの人々はそれを「自分は伝えただけ」「翻訳しただけ」として責任を負わない、という点かと思う。
関わった人達は全員が、「自分は悪くない」と口を拭う。
訳しただけ、元記事に基づいただけ、元記事の作成者は誤解に気付いても「語解するような言い方をする奴が悪い」という。
例えばこれが、どんどん話がこじれていって断交や宣戦布告を受けるような流れになっていったとしても、悪いのはリレーした者達ではなく、「語解されるようなことを言った奴」ということになる。

民主主義は正しい情報、正しい報道に基づいて初めて正しく機能する。
政府間の情報よりも報道のほうが遙かに早く広く事態を伝達し拡散する昨今では、外交上の判断が報道に基づいて行われるケースもある。
トップ同士の外交であれば、直接の確認が行われたりもするのだろうが、与党の閣僚ではない議員などは民間の報道から取った情報に基づいて各種の政治的判断を行うケースも珍しくないわけで、「報道の誤解釈」「報道の誤訳」がその後の政治的な過ちの温床になっていくケースは繰り返されるのだろうと思う。

教科書問題、靖国神社問題、従軍慰安婦問題などなどと、今回の麻生発言の「訂正できないマスコミ報道の世界規模の拡散」には、今後も我々が【騙され続ける】ことに対する絶望的な示唆が含まれている。

やれやれだぜ。

*1:この場合の「ナチスの手法という失敗」というのは「喧噪のどさくさに紛れて事態を進行させてしまうことを許した」であり、それは結果的にドイツ国民にとっての「失敗だった」。つまり「ナチスの手法は、ドイツ国民にとって失敗であった」から、【その手法を繰り返さないよう、ドイツ国民が何を間違えたかという失敗に学ぶべき】になるんだが、「失敗したナチスに学ぶ」「ナチスにとって失敗だった」と解釈すると、これがまた意味が違ってくる。批判の解釈が何通りも発生した(しかもまったく逆の解釈なのに、どちらも批判に結論した)のは、そこらへんの主語が省略された結果だと思われる。

*2:まだ続けてる人、の意

麻生発言の朝日の全文書き起こし(私家版)

文章のニュアンスの錯誤が若干気になるので、自主トレも兼ねてパラグラフを整理してみた。

朝日新聞による全文*1書きだし(オリジナル版)

http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201307310772.html


 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。


 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。


 私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。


 この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。


 しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。


 そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。


 ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。


 靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。


 何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。


 僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。


 昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。


 わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。


パラグラフの位置が気になるので、文脈を考えつつ直してみた。
文面は変えてません。

朝日新聞の書き出しを元にパラグラフを整理してみる


ヒトラーはドイツの国民に合法的に選ばれた
 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。
 ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。
 全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。
 ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
 そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。


憲法の善し悪しではなく、有権者の意志がナチスを選ぶことは可能だった
 常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。
 ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。


若い世代は好況を経験していないのに前向き、50〜60代はダメ
 私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。
 一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が。
 ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。
 この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。
 50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。
 おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。
 しかし、そうじゃない。
 しつこく言いますけど*2、そういった意味で、憲法改正は静かに*3、みんなでもう一度考えてください。


狂騒の中でなく、冷静な議論で改憲案は練られた
 どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。
 そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。
 30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。
『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。
『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。
 何回か参加してそう思いました。ぜひ、そういう中で作られた。
 ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。


靖国神社参拝を狂騒する問題にしてしまったのはマスコミ
 靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。
 騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。
 何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。
 日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。
 僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。
 昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。
 いつから騒ぎにした。
 マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。
 騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。
 だから、静かにやろうやと。

ワイマール憲法と全権委任法*4

 憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。
 *5あの手口学んだらどうかね*6。わーわー騒がないで。
 本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。

「マスコミが作り出す狂騒状態」の中での憲法改正強行は好ましくない

 ぜひ、そういった意味で*7、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが*8、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。

改めて読み直してみると、前後の文脈から「あの手口学んだらどうかね」というのは、実は【マスコミに向けられた嫌味】のようだ。


さて。
パラグラフを整理した理由について補足。
「本来分割すべきではない、文脈として連続しているセンテンスが、別のパラグラフに分割されたことで【何に掛かる言葉なのか】が変わってしまって分かりにくくなっているのではないか?」という疑問から。
例えば、こんな例文があるとする。

「リンゴがある。それはまるまるとしている。美味そうな子豚である」

これを、「リンゴがある。それはまるまるとしている」で区切ってパラグラフにまとめたら、「まるまるとしている【それ】」とはリンゴを指すことになる。
しかし、リンゴの下りを別のパラグラフに分けて、「それはまるまるとしている。美味そうな子豚である」のほうでまとめたら、「まるまるとしている【それ】は子豚を指すことになる。
つまり、パラグラフをどこで分けるかによって、「それ」「あの」といった文章が何を指すつもりで使われたのかが、がらっと変わってしまう可能性がある。


朝日書き起こしは元が「演者の主張にある程度共感していて、主張の骨子を理解しており、主語や目的語を省略したり対象を明示しなくても意図が理解できる」という聴衆集団に向けられた口頭の発言を文字に起こしたものなので、どうしてもわかりにくいところは出てくる。
原稿を読み上げ、ディレクターのカンペに従って進行するニュース番組の語りと、ライブで曲と曲の合間に即興でするMCと、それぞれを文章起こししてみたら、後者の「読み上げないトーク」のわかりにくさったらない、と思う。
こうした講演のトークはライブのMCに近いわけで、「わかりにくい」のは当たり前とも思う。


また、整理した私家版に入っている小見出しはAZUKIによるもの。
「書き起こしに小見出しを入れるのは反則」という批判は正しい。が、朝日が提示したパラグラフを整理し直した結果、それぞれのパラグラフはどんな趣旨の発言群になったか?について、改めて個別に理解を促すと「読解能力の差によって意図する通りに理解されなくなるだろう」と思ったので、ここは「AZUKI私家版は、朝日書き起こしと比較したときに、どのような意味を見出すように整理されたか?」を分かりやすくするために付けた。
……というような付記も、はてブコメントを見ると、「言わなくてもその意図がわかる人」と、「言われなければ誤解する人」にぱっくりと分かれる。つまりこれが、「理解に必要な情報量は、人によって個別に異なる」ということの証左であり、今回の麻生発言が「主語や目的語を省略したことで、分かりやすい人と分かりにくい人を分けてしまった」というところに繋がる。




仕事の文章整理でもそうなんだけど、「どこで改行するか」「どこで段落を分けるか」で、実は文章はそのまま同じでもニュアンスが結構変わってしまう。
助詞一つこっそり変えただけで意味が逆になることだってある。
「あの」とか「それ」といった言葉が何を指しているのか、それだけでやはり意味は変わってくる。


まして、整理された原稿を読み上げるのではない、アドリブ混じりの即興の講演・演説などでは、発言者の脳内で繋がっていて、連続して聞いている聴衆にもなんとなく繋がっているものであっても、それを文章に起こしたものだと印象も変わるし、やはりニュアンスも変わる。


新聞記事などではこうした発言者の全文を掲載せずに、「文章を整理する」「ニュアンスを要約する」といった作業が行われる。
取材者が現場で聞いた内容を整理要約したものを、さらに「現場に立ち会わなかったデスクや上司」が要約し、整理部が見出しを作る。
二重三重に「削ぎ落とされる」ことで、削ぎ落とされた中に入っていたニュアンスが伝わらなくなったり、逆の意味になったりする。
それが意図したミスリードである場合もあれば、錯誤や伝言ゲームのミスによる誤報になる場合もある。


現代人の多くは処理すべき情報が多すぎる。
仕事、日常、趣味、娯楽などなど。
そうすると、特に興味のない情報は見出しだけですませたい、となる。
車内吊りであったり、スポーツ新聞の数文字の見出しであったり、ネットニュースのスレタイであったり、140字のツイートに含まれる誰かの感想であったり。
それによって元のニュアンスが損なわれたり、逆の意味になったり、ということは日常茶飯に起きているのではないだろうか。


「腹が立つ記事」或いは「義憤に駆られることが許された記事」、見出しなどを見かけることがあったら、できるだけ原典に近いものに当たってみないと、「あっ、ナニコレ! 騙された!」というようなことがないとも限らない。というか日常茶飯。
我々は読む能力をもっと鍛えないといけないかもしれない。
「そんなつもりじゃなかった」「騙された」と騒いでも、どこからも賠償はされないんだし。

*1:どうも【全文】ではなく、講演全体の該当箇所(と朝日が判断した下り)の抽出らしいので

*2:朝日の書き起こしでは、「憲法改正は静かに」という文脈はここで初めて出てくる。つまり「全文書き起こし」ではなく、一番最初のパラグラフ以前に、別の主張があったはず。そこも検証すべきかも

*3:後でも出て来るけど、「静かに」は「注目を集めず」という意味ではなく「狂奔・狂騒状態ではなく、冷静な議論を」という比喩と思われる

*4:ナチス憲法、というのは全権委任法のことかと思う

*5:問題の発言は「マスコミは」という感じで「狂騒を控え静かにするべき対象=既に騒いでいる者」に向けられている。

*6:「学んだらどうかね」という言い回しには、「窘めるニュアンス」と「唆すニュアンス」の双方があるが、前段の流れで出てきたことを考えると、これは「騒ぐマスコミ」に向けられている。

*7:ここの「そういった意味」が、どこに掛かってるのかがわかりにくい

*8:ここは前述の「全権委任法を肯定しないの意

煙管の作法とパイプのメソッド(書き下ろし)

ここ何年か、怪談本ばっかり書いてたけど、久々に怪談とあんまり関係のない本を、盟友である須藤安寿先生と共著で書き下ろした。


紙巻き煙草の禁煙……に失敗しがちな人のための、「少なくとも紙巻き煙草の禁煙には成功できる」本。
その代わり、煙管かパイプにハマりますよ、というようなコンセプトになっております(^^;)
紙で出す予定は今の所ないので、電子書籍のみのご提供です。



モノカキ・エカキはヘビースモーカーが多く、咥え煙草でチェーンスモーカーも昔から珍しくない。
が、近年、健康志向&煙草の価格高騰、喫煙可能な場所の減少もあって、喫煙者は減少傾向にある。
そのこと自体はともかく、これに伴う弊害がちょっと起こり始めている。

煙草を吸わない作者による、「煙草を吸うキャラの描写」問題、というか。
映画、漫画、小説に拘わらず、悪役だったり渋め・ワルめの登場人物が煙草をくわえている描写というのは珍しいものではない。
のだが、吸わない人が増えているせいもあってか、喫煙描写が間違ってるものがちらほら目に付き始めた。

紙巻き煙草はまだいい。「咥えてライターで火を点けて、大きく吸い込んで【ふー】」みたいな描写で、概ね間違ってない。
減ったとはいえ、周囲には喫煙者もまだまだ多い。

ところが、煙管やパイプになると、描写が根本的に間違ってるものが案外目に付く。

例えば煙管。
雁首(煙草を入れるとこ)は熱くなるので必ず羅宇を持つ。咥え煙草のイメージなのか、咥え煙管をしてる描写も目に付くが、煙管は必ず手に持って吸うものだ。(吸い口が丸いので、咥えているとくるんと回ってしまうのだ)煙管の一服は、多くて3服程度。咥えっぱなしでいたら、すぐにタネが終わってしまう。また、煙管は原則として火種があるところで吸うものだ。(火種を持ち歩く場合もあるので)不可能ではないけど、路上喫煙というのはあまりない。

例えばパイプ。
ライターだけではパイプは吸えない。必ずタンパー、ピック(合わせてコンパニオン)が必要で、吸っている最中は割と小まめにタンピングをし、灰を捨てる。持つところはボウルで、シャンクやマウスピースは持たない。パイプレスト(パイプを置く台)は必須(そうでなければ机に直置きできるパイプでないと出先で吸えません)などなど。

記憶にある限り、パイプで喫煙する様子を非常に正確に描いていたのは旧作のムーミン(のパパや、スナフキン)と、あらいぐまラスカル(の主人公スターリングのパパ)で、ムーミンパパはタンピング、コルクで灰を捨てる、ピックでチャンバーの中のタバコ屑を浚う、といったかなり細かい描写がされてた。今思えば「なんでそこまで細かく描写する必要があったのか」と思わなくもないんだけど、最近のムーミンパパは帽子とステッキになってて、昔のトレードマークだったパイプはもう咥えてないんだよね……。


というわけで本書は。
タバコ代が嵩んで禁煙を考えている人には、「もっと安くてうまいタバコがあるぞ」と教え、タバコは吸わないけど「煙草を吸うキャラの描写」に不安がある人には、「描写に必要な程度には十分実用的な説明を」というような、色々な意味で実用的な一冊になっています。

パイプの説明本って要るよなー、と思ってたところに、「煙管を始めてからブログに来る人のかなりの割合が、【煙管】というキーワードで流れて来るようになった」という須藤先生からお声掛かりがあり、
「やりますか?」
「やりますか!」
と相成って、それぞれの本業の合間を縫っての執筆、上梓と相成った。

4月頃から始めて二人がかりで、文庫本に直すとだいたい150〜60頁分くらい。須藤先生といえば、僕など足下にも及ばないほどの「文字の壁が超速筆で押し寄せてくる」系の速筆作家さん。最近はブログほったらかしてTwitterゴゴゴ三昧の僕ですが、久々にゴゴゴじゃない文章書いたヽ(´∇`)ノ
原稿完成直後くらいに、たまたま「最近やっと手が空きました!」という絵本作家よしはるKさんを捕まえることができたので、ナイスな表紙も書き下ろしていただいた。
まずは、表紙原稿料を支払えるくらいは売れるといいなあ、と(ry



それはそれとして、夏に向けて電子書籍でのみ読めるものをあともう幾つかリリースしたい。
可能なら、毎月1冊くらいは出したいなあと思ってるんだけど、電子書籍特有の課題点もあって、なかなか思うに任せずといったところ。
できれば7月くらいに、実話怪談本(電子書籍のみリリース)を出せるといいなー、というところで、AZUKIさん、生きてます。


生存報告でしたヽ(´∇`)ノ

超-1/2013始まりました


http://www.kyofubako.com/cho-1/2013/


というわけで、今年もやってきた超-1。
今回で8回目です。
昨年は初の選抜者なし。
数量も十分と判断できず、怪コレもなし。
どうしようかだいぶ検討を重ねたけど、やはりQOSを大切にしたい、という結果になりました。


今年は2012の宿題がちょっと残ってるんだけど(諸般の事情による(´・ω・`))、それは恐怖箱 稲荷吼錆を乗り越えてからになる(´・ω・`)



といったわけで。
恐怖箱作家陣に加わるための門戸は、今年も開かれています。

実話怪談著者発掘コンテスト
超-1/2013
http://www.kyofubako.com/cho-1/2013/