よいゲーム

ヒトフデにちまちま逃避。
チェックメイトは89問解いて、あと11問くらい。
エディットで作る問題のwikiを見つけた。
すでに300問以上ある。ひえー。
 
バンブラとヒトフデの共通点は、「物足りなさ」と「未完成さ」と「参加性」かと思った。
 
僕はアドベンチャーRPGMMORPGをやらないが(これは仕事との兼ね合いもある。仕事にかまけてゲームに戻ってくると、ストーリーやバトルのコツを忘れてしまうので)、シナリオがかっちりできているゲームというのは、実はあまり「遊び(playではなくて、ゆとり、みたいなほう)」がないような気がしていた。
遊んでいるというより、必死になって「埋めさせられている」というか、「消化を強制されている」ような印象が拭いきれなかった。
ゲームを作る側が、完璧を目指せば目指すほど、プレイヤーは作者の「完璧」を完全消化することを求められる。
こぢんまりしたシナリオのうちはそれもいいのだろうが、自由度が激しく広いゲームで、幾通りものシナリオを提示されると、プレイヤーは「シナリオの虜囚」になってしまって、結局「ゲーム」としては楽しめたとは言い難いのではないか、と思う。
また、長時間拘束されるというのも、「余暇消費」のためのゲームに時間の大部分を吸い取られるという意味で本末転倒だし。
 
その意味で、NDSのゲームは秀逸なものが多いと思う。
ゲームの規模を数秒で終わるものに圧縮してしまったワリオや君死ねは、「ゲームを長時間やり続けさせない(ゲームに没入することで、第三者とのコミュニケーションを喪失する可能性を予防する。というか、お母さんに「いつまでもゲームばっかりやってないの!」と言わせない(笑))」という思想がある。
ゲームが、「細切れの時間つぶし」に使われるものだとしたら、これは実に正しい。
 
バンブラやヒトフデは、用意されたものについて言えば満腹感があるとは言い難い。
ドラクエ8が「食べきれない満漢全席」だとすれば、バンブラやヒトフデは「わんこそば」である。一杯あたりは少ない。が、どこで満足するかは食べる側がコントロールでき、碗を伏せない限りいつまでも楽しめる。
 
また、バンブラのスコアメイク・プロや、ヒトフデのエディットモードは、シナリオを消化するだけだったプレイヤーを、「出題する側」に立たせている。
これによって、「一人でシナリオを消化するだけ」のものから、「他のプレイヤーに消化するシナリオ(問題)を提示する側にプレイヤーを立たせる」というものに拡張させている。
ゲームそのものを腹一杯、完璧に敢えてせずに、物足りない部分を好きなだけ補えるようにし、補ったことを他のプレイヤーと「情報交換」することでさらに膨らませていく、という発想だ。
 
PSPは「オトナが一人で遊ぶ」ゲーム機(メディアプレイヤー)だが、NDSはコドモ・オトナに限らず、「一人で遊ぶだけでなく、コミュニティの形成、コミュニケーションの促進が不可欠」なゲーム機、いやさ「コミュニケーションツール」に仕立て上げられている。
僕は「乗るコミュニケーションツール」であるG-Motionをやっている。
また、情報交換を促すネット(CHATもBBSもメールもmixiも(笑))も好きだ。
読者ページのような、アナログコミュニティの発展に関わっていたこともある。
一人の完璧な才能が一人だけで全てを生み出すよりも、不完全で未熟な着想を持った不特定多数が集合離散を繰り返した方が、持続性のあるコミュニティが作り出せること、そうしたコミュニケーションを促進していくことそのもののおもしろさに魅了された人間としては、PSPNDSの勝負は(販売台数という数字の上だけでなく)ゲームの思想の部分でNDSの圧勝であるように思う。
 
もちろん、今後NDSでも「一人で消化していくゲーム」や「ネットRPG」のようなものが出てくるだろうし、PSP側に「コミュニティを促進するゲーム」が出てくることもあるかもしれないので、ここで結論を出してしまうのは早いかと思うが、昨年末同時期の発売から、1月中旬を過ぎた今日の段階で、PSPは30万台、NDSは150万台と差が開いたのは、単なる価格や性能の問題だけではないように思う。
 
PSPは「どこにでも持ち出せるPS2」をめざし、「どこにでも連れて行ける」という意味でのモバイル端末、という思想を持っているのだと思う。
そういう意味では、ゲーム機ではなくて「ゲームもできるメディアプレイヤー」なのだろうし、iPodを除けば発売直後に30万台も行き渡るメディアプレイヤーもそうそうない。
 
対してNDSは「どこにでも存在できるゲームクライアント」をめざし、「どこにでもある」「誰でも持っている」というユビキタス端末という思想を持っているのではないかと思う。
兄弟が3人いたとして、PSPは1台買ってシェアリングするか、他の二人は欲しがらない端末。
NDSは兄弟が3人いたら、3人が一人一台ずつ持つ持って相互に補完しあうことで、ゲームがさらにおもしろくなる、という端末。
ゲーム、に限った話ではないが、「同一端末をまず行き渡らせる」「同一端末がより多く行き渡ることで、市場規模を大きくでき、市場の独占性を高められる」ということを、任天堂はよくわかっている。
過去、PSやその他のゲーム機は、端末を行き渡らせるための方法を「キラーソフト」に求めた。もちろん、その方法は今も通用するのだろうが、NDSはキラーソフトに頼らずに「端末そのものが並列して存在することそのものに意味がある」という状況を作り出そうとしているのかもしれない。
 
携帯ゲーム機戦争、という穿った見方だけでなく、「端末のあり方」という視点で見ていくとより面白い。
個人にとって意義がある高性能端末(=PSP)と、コミュニティを構成し、それに参加するためのツールとしての端末(=NDS)が、どのようなコミュニティを形成していくのか、今後3年間どうなっていくのかが楽しみだ。
 
 
 
 
……という、ことならなんぼでも書けるのになあ(^^;)