山登り

田舎にいたころは結構山に登った記憶がある。
家からほど近いところに香貫山があったし、高校から少し先に行くと愛鷹山があったし、夏場に自転車で伊豆半島のほうに行くこともあったし、何より富士山が近い。
富士山の周辺にはたびたびキャンプをしに行っている。
所謂「樹海」も行っているのだが、とうとう田舎にいる間は富士山に登る機会がなかった。お膝元にいて、実家からも通っていた小中高全ての学校の教室からも登下校の途上も見えまくりだったのに、である。
一度登るチャンスがあった。樹海のキャンプから新五合目に移動してそこから……と身構えていたのだが、大沢崩れが崩れまくったりしたお陰で登山禁止令が急遽発令され、登山中止。結局それ以来チャンスがなくて登っていない。
今登れと言われたら体力にかなり自信がないのだが、一生のうちに1回くらいは登ってみたいなあと思っている。
 
弟の家が御殿場にあるが、そこから見る富士はなかなかカッコイイ。
手前に東富士演習場が広がっていたりする。
高校時代に見た夏の夕方の富士山は、登山道に沿って人がジグザグに登っていくのが肉眼で見えた。なかなか信じてもらえないが、ランタンを持って隊列を組んで歩いていく人の、そのランタンの光が肉眼で本当に見えるのである。
ランタンの列で、ジグザグな光の点線を見るだに、「ああ、登ってんなあ」と思っていた。
 
小学校の頃、あのへんの子供に富士山の絵を描かせると、必ず山頂付近に渥美清の寅さんよろしく、ひとつ○を書き足す子供が多かった。

こんな感じで、軸を書き足すのもいた。僕がそのクチだが、あれは富士山山頂、剣が峰に立っていた気象観測ドームを書いたものである。
これも、「そんなの肉眼で見えるはずがない。知識で知っているものを書き足しているのだ!」と口角を飛ばして反論されてしまうのだが、先のランタンで登る人よろしく、実際に「見えていた」のである。
人間の視力ってすげえなあ、と驚かされることしきりである。
 
富士山といえば、田舎にいた頃は「噴火するなら富士山じゃない」というのは当たり前だと思っていたのだが、上京してみるとことのほか「富士山が大地震で噴火する!」という説を信じている人が多いようで驚いたことがある。
しかも、テレビの「富士山大噴火」を煽る番組なんかは、たいがいあの剣が峰の噴火口から、ギャートルズよろしく噴火している図を出すが、実際に噴火が起こるとしたら山頂からではなく宝永山のように「土手っ腹」からの噴火の可能性のほうが高い。
今の忍野八海のあたりや、大沢崩れに見られるような脆いところが崩れて横から噴火し、あの優美なすり鉢型の富士山の形はなくなる。
今だって、宝永山のあたりは相当「崩れてえぐれている」のであって、静岡東部で認識されている富士さんは「中腹から凹んでいる」というものなのだが、これも興津、清水側や山梨側からの景観しか知らない人にはピンとこないらしい。
 
実家から見える富士山は、手前に愛鷹山、その向こうにガッと盛り上がって見えた。
手前に愛鷹山があるせいで、富士山単体が高く見えないので、富岳を楽しむスポットとしては、あの千本松原のあたりというのは人気は低そうだ。
実際に噴火があるとしたら、富士山ではなくてこの愛鷹山が噴火するんじゃないかな、というのが僕のこの数十年来の予想だ。
 
愛鷹山は、完全な活火山であるらしい。
名前からもそれが裏付けられる。
日本の有名な活火山は、すべて「A/I/U/E/O」の母音+「S」の擦過音の組み合わせからできた名前を持つ。
「雲仙(ウンセン)」「浅間山(アサマ)」「有珠山(ウス)」「阿蘇山(アソ)」などなど。
近代についたものはともかく、古くから知られた火山はみんなこのルールに則っているそうな。これは、アイヌの言葉で「火の神」をさす「アシ」という語がそれぞれ訛ったもの、つまり「火の神の山=火山」ということだ、という説がある。
なかなかもっともらしい。
 
富士山はこのルールに合わないではないか、という異論を唱える人に、だから僕はこういうのである。
「そうだ。富士山は危険な活火山じゃない。ヤバイのは、そのすぐ南側にある愛鷹山のほうだ」
「あいたか」と読むのは間違い。
この山は、「あしたかやま」という。
もののけ姫の主人公と同じ音である。
 
……気づいているかもしれないが、「忍野八海(オシノハッカイ)」「大沢崩れ(オーサワクズレ)」
このどちらもまた、噴火の可能性が高いのである。
 
 
 
 
さて、ここまでが枕。
 
山に登るというのはなかなかしんどいものだが、五合目を過ぎるとなんとか頂上が見えてくるものだ。しかも、七合目あたりにくると、ほとんど到着したような気にすらなる。
現在、7割くらい書けているらしい。
あと3割、60数頁を、残る五日で書き上げられるかどうかは、神の味噌汁である。