リテラシー考 

ブリーチ&カラー中に読んだ今回の本は司馬遼太郎の「アメリカ素描」。
ずいぶん古い本だが、定期的に読み返している(読んだ内容を忘れるから)。
昨今「アメリカの所行についての不満」を聞かされることが多い身の上としては、ずいぶんと興味深く読めた。
司馬自身は新聞記者であり「読者を啓蒙する立場」の仕事をしていた。
司馬史観に軸足を置く人は多いし、そうした人が論拠としているケースとして多々聞くのが「昭和の暗黒時代は軍部の蒙昧と政府発表に踊らされた熱狂が生み出した」というもの。
現役第一線で活動されている作家さんもそうした意見や主張にシンパシーを感じておられる方が多い。
そのことには異議を唱えるつもりはない。
 
が、19世紀末から20世紀の相当な時期に掛けて、情報の伝達は政府が独力でそうしたのではなく、民間の報道機関が主観をもってそうしたことを我々は忘れるべきではないと思う。
情報の選択肢または情報の「洗い直し」を居住地や相互の利害関係を問わずに同時に進行できる現在に比べたら、報道機関に対する信頼性は今より昔のほうが高かった。加えて昔も今も報道機関は「無知蒙昧な読者を啓蒙し、政府がしていないことを糾弾する」という姿勢を貫くことが、【部数増】という出版社としての善に結びつくことを知っている。
現代は、報道機関の「発信者の正確性」を厳密に糾弾・監視することよりも、「嘘を嘘と見抜ける力を受信者個人がそれぞれに鍛えなければならない(=メディアリテラシーの向上によって、氾濫する情報から嘘を削ぎ捨てる能力を備えるべき)という段階にきているのではないかと思う。
「政府がこう言っている」というのは多くの場合「新聞記者の目には政府がそう言っているように思える」という主観的意見の吐露でしかない。その記事は、時に願望を強く含むし、記者の望んだ暗い未来に向かうであろうという根拠のない呪いであったりもする。
「嘘を嘘と見抜けない人には、ネットを使いこなすことは難しい」とは繰り返し引用されるひろゆき氏の言葉であるが、けだし名言だと思う。
発信者という立場にいると、ついつい「自分は正しく、自分の主観から見て悪に見えるものを糾弾すること」を正義と考えがちである。
主観は大切にされなければならないが、受信者諸兄には「発信者個人の主観が、客観としての総体でも総意でも、ましてや真実でもあり得ない」という疑いを、【情報発信業者】の言葉に対して持ち続けて頂きたいと思う。
報道の仕事はしていないが、僕やそれ以外の多くの文筆における先輩諸兄の主観に基づく見解についても、読者受信者各位が「嘘、誤解、勘違い」をそれと見抜けるだけの叡智と弛まない情報収集を続けた上で、各々が判断を下すよう習慣づけることをお薦めしたい。
 
たぶん、これからの100年間は、自分が考えて下すべきだった思考と決断を、誰かのせいにしていては乗り切れないような気がするのである。
「情報媒介業者が常に中立である」という幻想を捨て、自分の耳と目と脳に最大限の働きをさせるため、自分の足と指を働かせることを厭わないものだけが、「軍靴の響き」という幻聴の意味を、正確に読み取れるのかもしれないなあ、とかなんとか思ってみた。