先人訓(2)
もうひとつ思い出すのが、「遊び心を持て」という。
僕は今より昔のほうがまじめだった、と思う。思いたい。たぶんそうだったと思う。
今は不真面目かと言われたら、「今もまじめですよ」と小さい声で言っておきたい。
まじめかどうかはともかく、どちらかと言えばマメなほうに入るらしい*1から、まじめだった頃の片鱗は多少残ってると思う。
でも、まじめだけじゃダメだ、と言われたことがある。
ご迷惑が掛かるといけないので、この方の名前は挙げない。
なんでまじめだけがだめなのかというと、「発想を小さくするから」なのだそう。
「言われたことをこなすのがまじめということだろ。それは、まあ美点ではあるわな。役人や兵隊ならな。
でも、ものを作る人間はそれじゃいかんだろ。言われたことを言われたとおりに書くんだったら、そんなことは市役所の窓口に任せとくか当人に押しつけろよ。
そこから、何かを加えたり引いたりっていうことをするのが、ものつくりをする人間に必要なこと。それをするためには、まじめ一辺倒じゃなだめなんだよ。
人がやらないことをするだったり、やっちゃいけないことをしてみる、とかな。
うん、たぶんそれやると失敗すんだ。でも、失敗してみてはじめて「あ、これはなぜやっちゃいけないのか」っていうのがわかるだろ。まじめな奴は言われたとおりに手を出さないから、そういう失敗はしない。しないかわりに、なぜやっちゃいかんのかがわからないし、手を出しちゃいけないということに疑問を持たない。それじゃいかんのだ。
疑問を持て。いろんなものに。
そういう意味での不真面目さや遊び心ってのが必要なんだ。おまえにはそれが足りない」
遊び心というのは、まじめなだけでは出てこない。
また、不真面目にやることによって出てくることだけに、「腹を立てたら負け」なのだとも。そこで腹を立てないで、どうやっておもしろがれるか、おもしろがって元を取れるかを考えるのが、その恩人の言う「遊び心」であるらしい。
たいへん洒脱な人で、悪く言えば「悪のりな人」、よく言っても「冗談きつい人」でもあるのだが、あらゆる状況を楽しんでいるというタフさの根源が、当人の言う「遊び心」なのかなー、とも思う。
真似て真似られるものではないのだが、手本としたい生き方だと常々思っている。
*1:でも、今自宅の書斎は偉いことになっています(´・ω・`)