集計日記

最近すっかり集計日記になってる気がする。
原稿を書く、打ち合わせに行くなどの仕事以外、ひたすら数えてるというか、それしかしてない(^^;)
普段だったら、わりとぼんやり過ごしてる時期だったんだがなあ(嵐の前の静けさ)


というわけで、本日の集計の進渉報告


#1st すでに完了
#2nd 142(釣り糸)〜218(離れ)まで義勇兵小人さんが集計済み。
   240(ノックの音)〜250(呻き声)まで有る小人さんが集計済み
#3rd 400(赤飯)〜529(声)までAZUKIが集計済み


残りは219〜239、251〜399まで。あと168話。


なお、中間報告ページでは集計が済んだものには「済んでますマーク●」を付加した。
#2ndの秀作ごろごろ続いていたあたりの集計はおそらく明日あたりに上がってくると思われる。
#3rdの最後期(5/16〜20の猛ラッシュ公開の頃)のものは概ね抜けた。
なんというか、さすが最後期というか講評陣のコメントも鋭く厳しくなっていくのが実感できた。


「超」怖い話は、今まであんなおっかねー読者を相手にしてきたのかと思うと、今更ながら恐怖で身震いしてくる。
世の中には知らない方が幸せなことっていうのは、本当にあるんだなあと思うのだが、パンドラの箱はもう開いてしまった。慌てて閉めた箱の底に希望が残っていることを期待したい。*1


配点傾向として、甘い人は全般に甘く配点し、厳しい人は全般に厳しく配点する傾向があるようだ。というようなことは、数日前に書いたような気がする。
で、さらに気付いたこと。上記は「わりとマメに講評している人」の傾向の話で、全体で数回、または1回しか講評を書いてないような、イレギュラーな講評者はどういう講評行動を取っているのか。
blog講評、コメント講評合わせて、名前だけ見ると延べ124人ほどが超-1の講評に関わっている。匿名(名無し)の人は結構入れ替わったり、何人かいたりするようなので、実際にはもう少し多いのかもしれない。
で、このイレギュラーな講評者の講評動向が、大きな点差につながったりする。

イレギュラーな講評者は大きく分けてふたつのケースで登場する。

  1. 「出来がいい怪談が公開されたとき、そのインパクトに煽られて思わず好評を入れてしまうとき」
  2. 「出来が芳しくない怪談が公開されたとき、そのインパクトに煽られて思わず不評を入れてしまうとき」

その他の常連講評者は、個々の講評者の間に「常にプラス」「常にマイナス」の動向の差はあっても、全体的には案外一貫していて、まんべんなく点数が入れられている。常連講評者が例えば10人いて、そのうち7人がいつもプラス、3人が厳しくていつもマイナスだとすると、どんな作品も概ね7点あたりを平均値として上下することになる。
が、極端に(・∀・)イイ!!と評された怪談は、講評者の母数が「10人」ではなく「15人」「20人」と膨れあがり、いつもなら「7点。よくて10点」のところが、「15点。なんと20点」のように配点が大きくなる。
芳しくない怪談は、それと逆の講評行動が起こされるため、いつもなら「0点。または最大でも−10点」くらいで済むところに、母数が膨れあがって「ー15点。なんと−20点」という恐るべきマイナス配点現象が起きてくる。これによって、よい怪談とそうと判断されなかった怪談との間の点差が広がっていく。


ただし、プラスマイナスにあまり大きな動きが出ない場合もある。
これは、

  1. 「誰も講評をしなかった。または講評が極端に少なかった」
  2. 「講評は多かったが、ほとんどが0点講評だった」
  3. 「講評は多かったが、好評意見と不評意見が割れ、賛否両論となった」

のような場合。点数だけ見ると扱いは同じに見えるが、(1)は注目を集めなかった、(2)は平凡と評された、(3)は好みが分かれた、と全然その点差の意味は違う。この場合はいちばんいいのは(3)、次が(2)、いちばんよろしくないのが(1)となる。

当然ながら、「講評者が多く、しかもそのほとんどが褒めている」というのが良い怪談であると言える。
では、「講評者が多く、しかもそのほとんどが批判している」というのは悪い怪談なのかというと、一概にそうとも言えない。これも批判内容による。例えば「あともう少し!」的な批判や指摘がある程度はっきりしているもの(頭ごなしの拒否ではないもの)は、手直しを加えることで劇的に良くなることはある。少なくとも、それだけ大量の注目を集めているという点で、大きな収穫は得ていると思う。

また、「どういった講評者が褒めているか(貶しているか)」また「作品Aを褒めた講評者は、どんな作品を他に褒めているか」などを見てもいいかもしれない。
集計用テンプレでは、「誰が何に何点入れた」というのがすべて公開されている。
こういう配点の傾向+配点時に何を指摘したかというのは、集計用テンプレとエントリーblogをつきあわせるとその意味/意義が浮かび上がってくるわけだ。


講評をただ読むだけでも得ることは大きいが、集計テンプレと合わせて配点と意義をつきあわせるというのは、応募者自身の作品への講評以外を見ても、相当いろいろなことを学び取ることができる。
講評陣の好み、傾向、嗜好がばらけているということも、「読者は一定、均質ではない」ということを実地で知るために役立っているのではないかとも思う。


こういうデータはなかなか一望できるものでもないんで、大変得した気分である。

*1:そういえば、パンドラの箱に入っていたのはすべて「災い」であり、最後に残った「希望」もまた災いの一つだ、という話をなんかで読んだ気がするのだが、出典が思い出せない。なんだっけな。「人は希望が残っているが故に、すべてをあきらめることができず何かを期待して辛い道を選んでしまう」とかいう。希望とは、人に期待という罪な幻影を与えてしまうものであるとかなんとか。非常にシニカル。その意味で、希望が残ったことを喜ぶのは気の毒で哀れなことなのだが、当事者はそれに気付かないというのがまた哀れを誘う、のだそう。何で読んだんだっけなあ。思いだせぬ。