印税の話

なんだかとっても生臭いのだが、印税(原稿料)の話。
印税というのは、「原稿に対する対価・報酬」という認識が一般的だと思う。
作品売価でもいいし、原稿の価値、でもいい。
このとらえ方は間違っていないと思うし、そういう認識で支払われたり受け取られたりしているのがほとんどと思う。
一方で印税をもらうというのは、「作品内容に責任を持つ」という契約に対する保証でもあるのかもしれない。
著者というのは、書けば自分の名前(時にPN)で本が出る。書店にも並ぶ。そして単著であれば奥付にも「著者」として名前が載る。発行者の名前も同時に載る。
これは一見すると輝かしい名誉のようにも見えるかもしれないが、同時に「何かあったときの責任者はコイツです」という晒し上げでもある。本に奥付があるのは、そうしたクレームがあったときに、責任者の所在をはっきりさせるためのデータ開示の名残なのだそうだ。
ちょっと古い本を開いてみると、巻末に「検印廃止」という文字があったりする。さらに古い、例えば戦前の古書なんかを開いてみると、奥付にハンコが押してあることがある。あれが検印なのだが、元々は完成品の本を売る前に、すべての本の奥付に著者が「検印」を押していたのだそうな。内容を確認しましたよ、または、確かに著者当人の書いた本ですよ、ということを宣言し、奥付で責任を引き受けている証明でもある。
ただ、部数が数百だった頃は対応できたが、出版業界が大きくなり「初版万単位」がざらになったり、印刷前から発売流通スケジュールがみっちり決まってるような、おおらかではない時代(^^;)になってくると、著者検印が全部に捺されるのを待つということは日程的にも不可能になってきた。このため、検印は廃止され、さらには検印廃止という文字すらも奥付には載らなくなった、ということ。
それでも、著者が内容について最終責任を持つというのは今も変わっていない。
建前上は「本の発行を認可した発行者が責任を持つ」というような形になっているが、もちろん書いた内容は書いた著者当人が「社会的責任」として引き受ける。公に向かって声を大にする以上、その責任は確かにある。
とは言っても、著者が内容検印をおすでもなく、著者の住所が奥付に記載されるでもない現在*1、どうやって著者が内容を保証するのかというと、これは版元との出版契約に基づく。厳密に言えば出版契約書を取り交わすことで行われるのだが、簡単に言っちゃうと「金をもらったら責任も引き受けろ」ということ。これは出版に限った話ではなく、時間を売る商売でない限りは「やった仕事の責任を引き受けた対価としての報酬」というのは、ピンとくるのではないかと思う。
その意味で、作品の対価ではなく、仕上がりと内容に対する保証と責任の所在の確認のためにもらうのが印税、という受け取り方をすることにしている。
印税は「売れた分だけ*2額が増える」ことになるわけなのだが、これも「需要が増えて作品価値が上がる」「売り上げ増に伴う分け前増」という権利に基づく獲得分と考えるだけでなく、同時に「作品価値が高まることで、作品が引き受ける責任も大きくなる」「責任増に伴う保証金増」と考えると、たくさん売れて嬉しいな、わーい、と単純には喜んでいられない。指摘された内容に問題があったら「書いたのはコイツです」「はい、僕です」と言わなければならない。かといって、書いてしまった内容が訂正できるわけでもないわけで、時に沈黙を持って責めを受けなければならないこともある。大部数の本ともなればその社会的責任の大きさは計り知れない。

大昔、初めて原稿が世に出て原稿料をもらったとき、「売れて嬉しいな。わーい」という気持ちが確かにあった。が、本になった原稿に見落とし(誤字とか)があったとき、「お前のミス」と言われて真っ青になった。もちろん、僕がもらった原稿料程度では印刷済みの本を全回収して訂正して配り直すなんてことはできないわけで、当然そのミスはそのままになる。修正手数料を求められることはない代わりに、誤字や誤記のミスに伴う「評判の低下」は著者が責任を負わなければならない。
これが単著だったりするとますますその責任は重大になるわけで、名前が背表紙に出る初単著だった「ダムド・ファイル リスト」のときは、紀伊ノ國屋の店頭に平積みされてる新刊を見て、緊張と重圧で吐きそうになった。*3
その後、何冊も自分の名を冠した単著を書かせていただいたが、やっぱり今も「本が出て嬉しい」よりも「責任重大」のほうが大きい気がする。実話怪談の場合、自分がゼロから書いたものではなく、あくまで「体験者の方からお預かりした話」であるわけで、それをよどみなく書けているかどうかというのも、果たさなければならない大きな責任だよな、と痛感している。それでも書いた時点で書いた内容、名を冠した本、記事の責任は自分が負うことになるわけで。そう考えると、印税生活に優越感や爽快感はあまりない。日々、責任の重さを感じる重圧感のほうが勝るかもしれない。

これまでは、代表編著者として「超」怖い話などでは夢明さんがその役を仰せつかってきた。「超」怖い話の内容に何か瑕疵があれば、もちろん個々の著者も責めを負うが、代表編著者もその責めを負う。
今回の怪コレでは僕が「他の著者が書いた内容」を編者としてまとめる仕事を仰せつかった。
もちろん、選んだ責任は僕が代表として負うものであるのだけれど、選ばれた内容に対する責任は、やはりそれぞれの著者にももちろんある。何かあったら、著者も名指しで指弾されるわけで、本になる本に載るのは光栄で栄誉かもしれないけど、責任も伴う。そのことを明確にするのが印税なのだ。
「責任を引き受けるのが嫌だから印税は受け取らない」なんてことはできないし、「そんな作品価値があるとは思えないので、印税はもっと少なめで」なんてこともできない。印税とは、作品に付けられた価値価格ではなくて、責任を引き受けることの対価なんだよなあ、とこういうときにつくづく思う。


このへんが、生業として本を書くということなんだろな。
20数年この仕事やってるけど、完成品を見たときと印税の話になると、どうしても緊張してしまう。いくらやっても馴れないよなあ、と。

*1:昔はあったそうな。そのうち、著者が襲撃されたり、著者が住所不定だったり(笑)したもんだから、著者連絡先が発行所=版元になっていったとか

*2:厳密には刷り部数分だけ

*3:実際には吐かなかったけど、喉が渇いて気が遠くなりそうだったのは事実。