写真と映画

ちょっと前に書いた仕事のデータを読み返す。
内容と経緯に関する子細はまた後日。
そこで気付いたこと。


ホラーや怪奇小説と、実話怪談の違いってなんだろう、というのは常々思うところ。
単に長さの違いなのか。
それとも、ストーリーの展開、原因の究明、作者の意志を反映させたオチの存在か。
いろいろ考えられないこともないが、一言で核心を突いたモノとは言い切れない気もする。


個人的には、実話怪談の第一条件は「体験者が実在するかどうか」が最重要成立条件と思っている。体験者の個人的体験を伺ってそれを書き留めるのが実話怪談だが、体験者が体験したことを第三者が証明できない*1以上、その体験者が実際に存在しているかどうかだけが、実話怪談が実話である拠り所であるようにも思う。
が、「小説だって、実在のエピソードやモデルに材を借りることはある」という主張をお持ちの方もいる。


それに引き続くものとして、実話怪談の第二条件は「著者が体験談にないオチを創作しない(体験のオチを改変しない)」ということか。小説では、「もっと怖く」「もっとショッキングに」と改変していくところに作者の腕前の見せ所、言わばクライマックスがあるとも言える。
が、実話怪談は「あったることを、あったるように」残すのが身上である。つまり、体験者が体験した事柄のオチを変えたら、それはもう実話怪談とは呼べない代物になる。
小説が自由にオチを変更できるのに対して、実話怪談はこのあたりが不自由だ。
もちろん、「話をどこでやめるか」という終了ポイントを変えることで、オチ(というより読後感)を変えることは不可能ではないと思う。だから、「語るべき話を省略する」「知っているけど言わない」「話を切り上げる」という形での変化は付けられるし、話の切り上げ所をどこにするかというのが実話怪談著者の腕前の見せ所なのかもしれないとは思う。でも、なかったことを付け足す、事実と違う行動を取らせるという変更は、やはり許されない。


こうしたスタイルは、実話怪談著者が体験談を語る体験者を信頼していて、その話を事実として受け入れる、または拒絶・拒否しない、ということが何より重要かもしれない。それにより体験者は実話怪談著者を信頼してくれるわけで、そうでなければ体験談という「元ネタ」を仕入れることはできないし、それができなければ書かれたエピソードは実話怪談とは呼べなくなる。
実話怪談を仕上げるに当たって、体験者*2の尊重が何より重要だということだろうか。


この辺り、稿を重ねてみても、やはりまだピンとこないような気もする。
一言で言ってしまうと、実話怪談と怪奇小説の違いというのは、「写真と映画」の違いなのではなかろうか、という気もする。


実話怪談は、一枚絵の写真。
画質の悪いもの、ピンがボケたもの、精緻細密なもの、カラー極彩色のもの、セピアなもの、まあいろいろだが、「ある一瞬を記録したもの」が実話怪談なのではないか、と思う。
交通事故の瞬間が映っている写真があったとして、そこにはストーリーはない。ワンシーンだけがある。が、ハンドルを握りしめて生気を失うドライバーの表情、吹き飛ばされる小学生の手荷物、そういったものをつぶさに見ていくことで、前後のストーリー(というより人物の背景)は微かに読み取ることができる。が、それ以上の大きな物語は、その一枚だけでは語れない。起きた出来事、そこに写っている事実を理解するために、読者はヒントを紐解くが、全てが明かされることがない。それだけに、読者は読み解く力、想像力、憶測、そうしたものを総動員することになる。
以前、実話怪談をパズルに例えたことがあったが、一枚絵の写真というのも同様で、「写っていない物陰にある何か」を想像するのも、実話怪談的楽しみ方のひとつであると思う。
そういうわけで、実話怪談は一枚絵の写真。


怪奇小説は、映画。
実話怪談に比べてもっと動きがある。もちろん、尺の長さは連ドラ、2時間映画、5分で終わるショートムービーなどいろいろあろう。が、起承転結があったり、著者の明確な意図があったり、創意を凝らした設定があったり。加えて読者に対して非常に親切だ。手を引き、物陰に何があるかを確かめさせ、次に起こることを予告し、何もないところを指さして「さあ、見ていてご覧」と耳元で囁く優しさがある。
これは、著者が用意したストーリーを、読者の前で解いてみせるという小説の基本構造があるために、そうした作りになるのかもしれない。
映画がストーリーを持ち、ラストシーンに向けて謎を解明することを積み重ねていくものだとするなら、やはり著者の創作物である怪奇小説が、親和性が高いのは納得できる。

これは、長さの問題なのかとも思っていた。
実話怪談の多くは数頁程度に収まる、まさに「ワンシーン」や「ある一時期」を切り出した写真的なものが圧倒的に多い。多少の例外はあるけれども、大部分はそうだと思う。
対して怪奇小説、ホラーは、その尺が長いから物語的になるのだろうか、とも。
しかし、ごく短い怪奇小説であっても、その中にストーリーやオチに向けて手を引いていくスタイルのものが数多く存在する。それはまさに「短編映画」であるわけで、どんなに短く、ストーリーや謎解きを圧縮していっても、「一枚絵の写真」と「短編映画」とでは、やはり大きな隔たりがあるように感じる。


後は好みの問題&作者の哲学の問題でもある。
著者の意図を完璧に読者に理解させなければ成立しないという怪奇小説が好きなのか、読者が好きなように解釈する余地を残す実話怪談が好きなのか、という。
前者は、創作物であるが故に「著者の好みと合致する読者」または「著者の好みに追随する読者」、そして「たったひとつの正解を知りたい人」を多く獲得することができれば、非常に大きな支持を得られると思う。
後者は、読者に謎解きの下駄を預けてしまう。著者の考えを理解しようとする人、正解の提示がなければ納得できない人には、むしろ不向きかもしれない。読者の手を引かない不親切だが、考える余地を残したことで読者によって様々な「正解」が多数存在することにもなる。


映画は、最後まで見た観客は必ず同じオチを共有しなければならない。そうでなければ、映画評はちぐはぐなものになってしまう。
写真は、そこから何を感じるかは見た側に委ねられる。青い空を感じる者、森の緑を感じる者、ほんの小さく写った河原に追いつめられて、熊に八つ裂きにされる登山客を注視する者、どれについて意見を述べてもそれはいずれも正解になる。


著者が最善を尽くして用意したたったひとつの美しい正解を目指す映画的な怪奇小説と、著者は設問だけを発掘してきて正答を示さない写真的な実話怪談。
尺の違い、体験者の実在の違いというだけでなく、動的で流れがありオチに向かって突き進むものと、静止画的なものとの違いが怪奇小説と実話怪談の違いなんだろうか、とかなんとか。


というわけで、今夜は若干予定外の急な仕事ながら実話怪談を2話書く。
発表先については、また追って。

*1:これが実話怪談の泣き所でもあり、作り話だと疑われてしまう由縁なのだが

*2:時に伝聞者。