講評

超-1の講評がだいぶ賑わってる様子。
昨年は、主催者の作為が入ってはいかんかと思い、ランキング発表まで僕からの講評みたいなことは避けたが、前回に引き続き今回も講評の在り方みたいなものは、揺れてる様子。
どこを見てどう講評するかは講評者に完全に委ねられているので、「そこはこう読め」「その解釈は間違い」のような指摘をするつもりは毛頭ない。「人の書いた【実話怪談】を読んでどう受け止めたか」という、応募者の読解力・洞察力の有無を知る為の講評でもあるわけだし(^^;)<イジワル
でも、やっぱりちょっと気になることはある。
「設定がよろしくない」
「キャラクターは○○○にしたほうがよかったのでは」
的な指摘があるが、皆さーん、実話怪談ですよー(^^;)
先だって、とある超大物実話怪談作家の方と酒席をともにした折りに出た話で、「実話怪談は設定変えられないんだよ」というのがある。
実話怪談には「取材に基づいて、これを再現する」という大原則がある。もちろん、着ていた服の柄だの、体験者の髪型だの、オチ(怪異のキモ)になんの影響も及ぼさないところならまだしも、話を再現するに当たって怪異のキモに相当する部分、核心に近い部分ともなると、手が付けられない。
「そこは白い着物の女が出るのはやりすぎで作為を感じるので、スーツの男でもよかったのではないか」
例えばこういうアドバイスがあったとする。スーツの男が出るのが怖いかどうかはともかくとして(^^;)、体験者は「白い着物の女が出たから怖かった」わけで、出てくるのが「スーツの男」では体験者がなぜ怖かった、ナニを見て怖かった、という恐怖のキモの部分を改変してしまうことになってしまう。

これが小説なら、怖くする為にそういった改変がされても、それは「著者による工夫」ということになるのだが、実話怪談ではそこは弄っちゃいけないところ、ということになる。
その意味で「設定(シチュエーション)」や「オチに相当する怪異のキモ」「登場人物(体験者)の性格設定)」などについて、「作為的だから○○○のようにすべき」というアドバイスは、実話怪談のアドバイスとしては、ちょっと方向を外しているんじゃないのか、とか……。

とはいえ、このへんは「そういった講評をしてはいけない」という通達ではない。
そういうアドバイスの仕方をする人がもし応募者だとするなら、「その人の書いた実話怪談にはその人のアドバイスの方針がすでに適用されている可能性がある」という見方ができる。
つまり、「ここは白い着物の女だとありがちだから、スーツの男に変えてしまおう」のような改変を自分でしているから、他人にもアドバイスとして奨めているのではないか……? という穿った見方ができてしまうわけだ。
それが事実かどうかはともかくとして、講評にはその人の人となりやその人のモットー、指針、基準のようなものまでが多分に出てしまう。読み取る能力、咀嚼する能力、体験者の言い分をどの程度受け取る人なのか、などなど。


もちろん、これは一方的に講評者の能力の問題だけではなくて、講評者にそのような誤読をさせないように導く文章力が、執筆者側にも求められたりする。
執筆者になってみて、また講評をされてみると気付くと思うのだが、読者の読解力や解釈というのは、常に一定ではない。読者(講評者)の読書経験の蓄積量、懐疑心の程度の差などにももちろん左右されるのだろうが、ジャンキーからビギナーまで、様々な段階の読者がおり、その段階によって評価が一変してしまうというのもよくあることだ。

それらの読者のレベルをどうにかしようと思ったら方法は以下の通り。

  1. 全員をジャンキーにするべく読者を教育(薫陶)して、全体を平均化していくか。
  2. ジャンキー基準に合わせてビギナーを切り捨てて少数精鋭上位で平均化するか。
  3. ビギナー基準に合わせてジャンキーを切り捨てて多数派対応、わかりやすいところで平均化するか。
  4. ジャンキーでもビギナーでも、読者がどの段階にいても関係なく同一の結論を得られるような究極の実話怪談を書くか。
  5. ジャンキーでもビギナーでも、読者がどの段階にいても関係なく「それぞれの段階で、それぞれが個別に納得できる」ような構造の実話怪談を書くか。

(4)「究極の実話怪談」を書くのが理想のように見えるが、実はこれは突き詰めると次回作が書けなくなってしまうという諸刃の剣。素人にはお勧めできない(笑)
仮に究極の怪談を書けたとする。次回も違うネタで、究極の(というより前作以上に究極に近い)実話怪談を……と続けていくのは、多分商業的には無理。理想を求めているはずが、いつのまにか(2)の超ジャンキー選抜ビギナー切り捨て怪談になってしまいかねない。

超-1を通じての「超」怖い話の理想は、「完結しない実話怪談シリーズ」なのだけれど、そうなるとすると(5)を目指していく、ということいなるのかもしれない。*1


話を戻して、講評について。
要するに、「体験者から聞き取ったのであろう、変更が加えられない設定(場所、人物像、怪異のキモ)について、改変を促すようなアドバイスを含んだ講評」というのを書くのは自由だけど、後でその人が応募者だった場合に「この人はそういう改変を自作に対しても施しているのだ」と思われてしまう危険性があるんじゃないかなー、という心配である。

フタを開けてみるまで、誰が何をどのように書いた人なのかわからないのが超-1なのだが、フタを開けたときのことは頭の隅っこに置いておいたほうがいいよー、という老婆心ということで。
主催者通達でもお願いでもアドバイスでもないので(笑)、これは敢えて[超-1情報]には含めない。
でもそのうち【コラム】には書くかもね、ということで。


さて、気分転換終了。
ラストスパートです。

*1:類似のことを考えてる人は他にもいるだろうけどw、(4)はユニーク解(正解ひとつ)を目指すもので、(5)は「多数解のパズル」と概念は同じ。実話怪談は欠落不足している経過や前提やその後を読者が想像して補完する楽しみ方もあるわけで、どう思いを巡らせるか=多数の解と考えられるかも。多数解が大量にあるパズルは、全部コンプリートするまで何度も同じパズルを遊ぶことができるようになるわけで、難易度が高くてもユニーク解1個のみのパズルよりは、遊び続けられる時間は長い=再読性が高い、広く読まれる、と言えそう。