枠組みを想像する想像力

パズルビルドの第一人者である仕掛屋定吉さんからご紹介いただいた認知科学畑の先生のblogを拝見していて、今いろいろ案じている問題を解くためのヒントを頂戴した*1
以下、一部抜粋引用したい。

今年の講義(諸事情で今年は前期開講)ではレポート課題の他に講義中のミニ課題を課したのですが、そこで気付いたことがあります。表現すべき情報の枠組みをある程度細かく指示するとしっかり書けるのですが、(意図的に)枠組みをぼかすとアウトプットが途端に怪しくなる、という傾向があるのです。これは要するに表現能力ではなく、コンテクストを踏まえて枠組みを設計する能力の不足が問題の原因、ということなのでしょう。
*2

原文執筆者の意図するところと、僕が案じている問題がぴったりと合致しているかどうかは置くとして、僕はこれを以下のように理解した。

ルールを細かく定義して上限や理想をはっきり示し「ルールに乗っ取ったものを出せ」と要求すると、要求を満たした作品は集まりやすい。
が、ルールを(意図的に)不明確にしておき、ルールを自己解釈して自作にとって都合のいいように枠組みを拡大させる余地を残し、「個々の解釈で自由に」と要求すると、どうしていいかわからなくなる傾向が強い。

もちろんこれは超-1が直面している課題について。
超-1は、「実話怪談であること」が唯一無二の大原則で、それ以外の「文章の長さはだいたい6000byteくらい*3」「一話で完結していて、読む順番を指定する連作を分離させない*4」などの細則は、あくまで補足的なものに過ぎない。
こうしたルールを細かく決めていくと、ルールを網羅するほうは大変だと思うのだが、一方で「しなければならないこと」が明確になっていくため、どうしていいかわからない初心者に対しては非常に親切なものになる。説明書や料理手順を示したガイドブックと同じで、そのルールを踏まえていけば、誰でもそのルールを書いた人間が意図した程度には、そこそこのものを作ることもできる。初心者の促成栽培のため、熟練者の手法をそのまま真似るように奨める場合には適した方法かもしれない。
ただ、こういった「これはやっちゃだめ」というのを決めていく式のルールというのは、そこから外れた発想というのを生み出せない人のためには向いているものの、「既存の枠組みから逸脱した斬新な発想」というのを生み出すのには向いていないのかもしれない。


個人の思考方向にもよるのかもしれないけど、「これはやっちゃだめ」というルールを見たときに、「やっていい」と書かれていることだけを頑なに守る真面目な人は、ルールを越えた作品は決して生み出せない。ルールに準拠した優等生にはなれるけれど、ルール=枠組みを跳躍した天才にはなれない。
「これはやっちゃだめ」と書かれていないことを口実に、自分のやりたいことに合わせてルール(の盲点)を再解釈で広げていく人というのは、ルール=秩序の定義者やルールに従順な優等生から見ると本来なら問題外の問題児のはずなのだが、得てしてそうしたルールの盲点を突いたものが、既存の枠組みの限界を押し広げるブレイクスルーの起爆剤になったりもする。


従うべきルールに従うことは、「何をして良いかわからないヒト」を救済することには繋がるし、その意味で「ルールに従ってさえいれば、ある程度のものができる」わけだから、入門編としてはこれが正しいのかもしれない。
が、「自分で問題を発見し、自分の解決策を見つけ、それを実現させるために既存の枠組みが窮屈になった人」にとっては、ルールというのは「どうにかして穴を開けるもの」に変わる。


超-1では僕はルールの設計者であり、主催者という立場上ルールの守護者でなければならないのだけれど、同時に「ルールを拡張するアイデア」に対しては絶えず柔軟な姿勢でいたいとも思う。
僕の定義したルールが完全無欠でまったく隙のないものであり、僕がそのことに絶対的な自信を持っているのだとしたら、僕はあらゆる改善要求を突っぱねるだろう。
が、超-1というのは「実話怪談であること」だけがほぼ唯一の原則で、それ以外の補足項はそれほど必死に守るほどのものでもない。ベターを選択しているつもりではあるが、ベストに至っているかどうかを自分で判断することは難しい。
むしろ、自分の判断を「ベストである」とした段階で、それ以上の改善や発展を辞める口実になってやしないか、とも思う。もっともっととさらなる改善を求める続ける限り、自分の居場所は常に「現時点でのMore better」でしかない、ということになるわけで。


超-1は今年2年目の若いシステムであるわけで、常にグダグダ(笑)、常に隙だらけ、常に継ぎ当てを当て続けなければならない。「メンテや改造をし続ける」ことが運命付けられている。
僕の定義に素直に収まっていることに物足りなさを感じる応募者も当然出てくるはずだ。
そうした、物足りなさに応え、システムを絶えず変化更新させ続けていくことで、昨日より少しでも向上できれば幸いである。



「超」怖い話Θに平山夢明氏が書いた後書きのタイトルは「そったくを迎えて」というものだった。
そったくは漢字では「卒啄」と書く。が、漢字変換されない難字でもある。意味は「雛鳥が卵の殻を内側からくちばしで突いて、自ら殻を破って生まれ出でようとする様子」のことだという。
自ら成長する雛鳥は、殻を親鳥に割ってもらって世に出るのではなくて、自分で自分の限界を突き破って自分の世界を広げていくのだという意味の言葉である。この言葉は超-1/2006を通じて世に出ることになった二人の新著者だけでなく、昨年の超-1によって世に出た怪談巧者、そして今年の超-1/2007で世に出ようとしている新たな怪談巧者にも当てはまる。
「超」怖い話は絶えず、「前より凄いの」「もっと凄いの」を求められ続けてきたし、それに応えるものを探し続けてきた。超-1が「超」怖い話に通じる門であることは、去年も今年も変わっていない。
願わくば、「超」怖い話に追いつく怪談を書くということだけでなく、「超」怖い話の限界を押し広げる怪談を提案するというものの登場にも大いに期待したいと思っている。


枠組みが曖昧にしか提示されない*5超-1を、どのように拡げていくか、拡げようとする自分のスタイルについて講評者の賛同や他の応募者の追従を導き出せるか。枠組みを想像し、枠組みの限界を押し広げる能力を持つ怪談巧者が群れなして現れる。
今大会では、そうしたことも楽しみにしている。


ちなみに、冒頭で挙げた引用文について興味のある方はこちらをご覧いただきたい。

情報大工のひとりごと
http://www.laplace-lab.org/diary/

一見して自分とは畑違いに見える方が書かれた内容の中に、自分が行き詰まっている問題に関するヒントやそのものずばりの解答があったりすることは、決して珍しいことではない。
煮詰まったらできるだけ畑違いの専門意見を見て歩くと、自分の中でブレイクスルーが進むことがある。
専門外の意見の中に、自分の専門分野との共通点類似点相違点を見いだして整理することも、自分の専門分野を進歩させるためには必要なことかもしれない。

*1:一方的に(^^;)

*2:強調部は原文執筆者によるもの

*3:しかし、下限上限の規定はない

*4:読者が指定された順番通りに読むとは限らないから。さらに作品ごとに著者が特定されることを前提にしていないため

*5:繰り返すが、唯一の大原則は「実話怪談であること」のみである