人をご紹介いただく

二丁目怪談の方に呼ばれて、怪談の体験者の方をお二人ご紹介いただく。
「幽霊と人間、どっちが怖いですか?」と聞いたら、お二人とも即座に「人間」「人間だね」と。「だって、人間は物理的に怖いもの」
お二人とも、「人と違う大変な人生」を歩んできたことを自覚なさっている。確かに鉄火場な人生を歩まれた方であると聞く。
そんな方々の口から「人間は怖いよ」という言葉を聞くだに、ああ、やっぱり人は怖いんだ、と再確認したような気になる。
実話怪談は、うまく再現することも重要だけどそれに加えて「凄い人生を歩んだ人」の生き様を尊重することが何より重要であるように思う。
作品の主従で言えば、創作小説では著者自身の考えや描かれるストーリーが主である。実話怪談では、体験談をご提供いただく方の経験、生き様、哲学がまず優先され、それをその人の主観にどれだけ近づけるか、どれだけ再現できるかが求められる。
恐怖とは、常に主観的なものである。熱いお茶と饅頭を怖いと思う人と、そうは思わない人がいるのだとして、その差はやはり恐怖を恐怖として感じるのは主観なのではないかと思う。その体験者の主観に共感できるように誘うのが実話怪談を極めるために求められる技法なのであって、客観的な実話怪談などないような気がする。
うまくできれば「ネタが凄いんだ」と言われ、失敗すれば「書き方が悪いんだ」と言われる。実話怪談書きの報われない所はそのへんにあるが、そういうジャンルだから仕方がない。
実話怪談はうまく書けても褒められず、うまく書けなければ蔑まされる。まったく救いがないのに、それを志向する方がいらっしゃる。難儀であるし、物好きであると思う。それ以上に、サガなのかもしれないとも思う。
作品性や著者自身の手柄を求めたがる人は、実話怪談を書かないほうがいいんじゃないかとも思う。マジで。
人を愛し、人を畏敬し、その延長線上で生き様を書き留めようというつもりがないと、続けていくのはしんどい。
僕のように特殊な才能才覚がない人間がそれを続けるのは、ほんとうにしんどい。それでも書かなければならないのは、もう僕の意思とは違うところで決まってるのかもしれないなと思ってみたり。オカルトだ。


小説でも本来は「描くべきは人、その生き様」であって、話の筋書きは二の次だ。その描かれる題材が、現在進行形で生きていて、なおかつその生き様をなるべくその人の主観に沿って切り出すか、著者の思惑や著者の都合にそって切り出すかの違いが、「実話を元にした創作小説」と「実話(怪談)」の違いを作るのかもしれない。


ともあれ、自分と違う人生を生きてきた方の話は、それが如何なるものであれいつも糧になる。畏敬の念を持って接したいといつも思っている。
そうした出会いの機会を下さった方にも重ねて感謝したい。


VBのインストールはいつでもしにいきますよw