もう12月orz

11月のうちから「今年は〜」とか「来年は〜」なんていう、一年を総括したり、クリスマスソングを流したりする風潮はいかがなものかとプリプリしているうちに、もう12月に入ってしまったorz
一年は12カ月しかなく、12カ月もある。
残り一カ月ではなく、まだ1/12も残ってるんである。
と、自分を騙くらかしている。
11月中になんとか納めようと思ってた仕事はまだ収まっておらず、自分の遅筆を呪うばかり。ってアレ?
書けるときは神速で進むのに、それが毎日維持できないところに自分のダメさを感じる。
先月頭にある意味貯金を使い切ったというか、チャージ空っぽというか、充電にまた時間かかりましたというかorz
しかしなんとかやってます。なんとかなるといいなと。


12月は、そのやや遅れがちな原稿にきっちりと責務を果たし、ナックルズを書き、貯めっぱなしのアレをもう少し進め、そしていよいよ「超」怖い話Λ。これが何より大本命。
「超」怖い話Ιを出してからもう一年過ぎちゃったんだなあ(´・ω・`)
年一回になって、怪談から少しは距離ができるかと思ったら、返ってそれ以外の怪談本が近しくなってませんか自分orz
今年は実は怪談じゃない仕事って1本しかやってない。他はほとんど実話怪談とかホラーゲームとかそういうorz
しかし、それが自分に課されたなんかだというなら、まあ流されていくしかないのでしょう。ご苦労、自分。


2〜3年越しでやりたいなーと思ってたものの光明がちょっと見えてきたのは喜ばしいこと。
課題はまだまだ多いけど……省力化だなあ。問題は。とほ。
前にやったのと違うことをやりたい自分と、楽になる方法を追究したい自分のせめぎ合いというのが常にある。
楽になるってのは一度開発・開拓した手順をマニュアル化する、または自動化できるものは自動化することで省力化するってことで、「同じことをやる」というのが前提になっている。「超」怖い話なんかでもそうだけど、同じことを続けるというのは本当は新しいことをその都度始めるのよりずっと大変であるわけで、同じことをしつつも同じじゃないものに仕上げるというのはホントに難しい。
一方で、そういった経験値や手本にする前例がないものを、いきなりゼロから組み上げるっていうのは、それはそれで「同じことを極める」のとは違った種類の大変さがある。何かを参考にできないし、誰かに助言を求めることもできにくかったりすることはザラ。自分が先駆者、自分が開拓者にならざるをえないものは、つまり自分が考えてやろうとしていることを、自分以外の人間に説明できなきゃいけないってこと。もっと言うと、「マニュアルを作る作業」がつきまとう。
言わなくてもできることを人に任せる場合、厳密には自分はいなくてもいい。そこまでシステム、方法論が整理されるのは大変なのだが、それはそれでちょっとつまらない。が、その「自分がいなくても動くシステム」を自動的に動かすためのマニュアルを作る作業というのは、自分でとっととやってしまうよりずっとめんどくさい。
子供に料理を教えるのと同じで、危なっかしい手付きで包丁を使うのを見てハラハラしてるくらいなら、包丁取り上げて自分で作ってしまったほうが楽だし、たぶんおいしくできる。
でもそれでは、料理が出来る子供を作ることはできない。
かといって、子供が好き勝手に料理をして、いつかうまくなるのを待つ……というのでは、成功率が低すぎる。途中で飽きるかも知れないし。
そうなると、「当人が思わず惹き付けられて、料理をしたくなってしまう、せずにいられなくなる」ようなマニュアルや、教え方というのを考える必要が出てくる。
そのマニュアルをうまく理解して、自力でできるようになったら、もうマニュアルなんかなくたっていいのだが、マニュアルなしでできるようになるまでの基本の練習期間には、やはり手本や「工夫の仕方」を教える必要はあるのかもしんない。
また、教師というのは偉くて完熟しているから教えているのではなく、未熟であるが故に教えることで生徒から教わることも多い、と言われている。
これは謙遜や哲学の話ではなくて道理のある話で、自分の中で一応完成を見たと思っているものでも、改めて自分以外の人間に説明したり教えたりすると、自分の考えの綻びを見付ける役に立ったり、反復練習になったり、教える側自身にもプラスになる部分が多い。
教師もまた常に教わるということを忘れず、一生学徒でアレ、というありがたいお言葉には、ちゃんと意味があるのだなあと思ったりする。
僕は教師ではないので一人の生徒も持っていないんだけど、マニュアルを作るという作業を通じて「自分のやり方やスタイルの綻び」を見付けるとか、自分が突然いなくなったときに抱えている仕事について周囲になるべく迷惑を掛けないようにする方法なんかを、くよくよ考えたりはする。
超-1などでは、「超」怖い話的な作風で実話怪談を書かれる方が非常に多いおかげで、なぜあの作風が「実話怪談を書きやすい」のかを考える機会にもなった。また、昨年に続き通巻5巻目を数えた怪コレの編集を通じて、文章の在り方を考える好機にもなった。
仕事もプライベートも料理も酒も、息することですらもすべて自分の血肉になっている、と思う。ありがたいことなのだが、その血肉を結構無駄遣いしているorz


来年は、血肉の無駄遣いからの脱却! これを目指そう。
でもあと一カ月もるので、途中で気が変わるかもしれんけど。