読み飛ばしていい程度の民主主義再考察

仕事に入る前の軽いウォーミングアップとして。
このエントリーにはオチも大した考察もないので、忙しい人は読まないように。配慮として字もちっちゃくしときますw


民主主義というのは、人類にとってあるひとつの発明であると思う。
古来、人間が3人集まれば政治(というか、自己統治)というものが必要になるのは避けられないわけで、社会が発達するためには高度な分業/分担が必要になってくるのは既知の通り。
その過程で、能力の有無にかかわらず地位身分を固定された世襲的専業政治家=封建主義的領主から、能力的に秀でた(或いは専門的な知識や技術を教育された)技術的専門家としての政治家を、その都度選出し直すという「政治という技能を分担する」ための制度として民主主義が生まれた。

民主主義には、直接民主主義と間接民主主義がある。
直接民主主義は、統治担当者(行政責任者)を有権者が直接選ぶ制度で、間接民主主義は下位の有権者が選んだ上位の有権者が統治担当者を「下位の有権者の代理総意」として選ぶ、という制度とみてよい。また、議会などでのあらゆる法案の審議と議決は、国民(有権者)全員が立ち会うことができないので、有権者からその議決権利を委任された議員が「代理」としてその権限を行使する、という考え方でよい。

ぶっちゃけ、政治=自己統治というのは自分の生活を棚上げして社会に奉仕することと考えてイイ。大部分の有権者は生きていくのに忙しいから政治(自己統治)をやってるヒマなんかないので、自分の替わりに政治をやってくれる人に、その権限を委任している。それが選挙による投票行為であり、自分のよいと思った政策を掲げ、その代行を宣言する候補に「権利を委任する」のが選挙である。

直接民主主義ではなく、多くの国が間接民主主義を取っている理由は、「有権者は政治的に無知である、または政治の素人である」が故、と言える。もちろん、「よくわからないから誰かに任せる」ために間接民主主義があるわけで、政治という技能を分担・委任するというそもそもの理念からすればこれは当たり前と言えば当たり前。
もし有権者全員が高度に政治に理解があり、政権を運営する能力を持っているなら、そのとき初めて直接民主主義ができる土壌が整う。が、現状では「なぜその人がいいのか」を説明できない有権者、或いは有権者に正しい情報を与えられない情報伝達機関(報道機関)しかなく、正しい判断を全ての有権者ができない可能性が高い。だから、直接民主主義を導入することはリスクのほうが高い。*1

民主主義は本来、国権(というか、自己統治をする権利)は領主ではなく領民(国民)にある=国民主権を前提として成立している。つまりは、国民は自己統治&自決の権利が保障されている、自分のことは自分たちで決める、という考え方。これは、「統治の権限を固定して有する領主」に盲従しないという宣言であると同時に、本来領主が引き受けていた「統治の責任」をも有権者となった国民自身が引き受ける、という考え方だ。
つまり、民主主義的手続きで選んだ「自分達の代表」が、どんなポカをやらかしても、そのケツは自分で拭く、というのが民主主義の決まりであるわけだ。

ところが、このところ統治者の不備の批判を「他人事」のようにする人が増えている。
平たく言うと「批判はするけど代案は出さない」「代案の採用によって統治が失敗したら、それは代案を出した側ではなく採用した側の責任だ」というもの。ぶっちゃけ、前者はワイドショー的な番組のコメンテーター(=有権者から権限を委任されていない議員、と言える)に多く、後者は議会内でワイドショーのコメンテーター的な振る舞いをする民主党議員に多い。
「石油が高い」→「生活が大変」→「燃料にかかる税金を下げればいい」→「財源は無駄を省けばなんとかなる」→「失敗したら与党の責任を追及して政権交替すればいい」

……Σ( Д )

これを本気で言ってる議員がいるところが【みんなが選んだ民主党】の凄いところ。
石油が高くなった理由は「OPECによる減産」「石油輸入航路へのテロリストの跋扈」「原油先物取引による投資的理由」「中国の成長による燃料需要拡大の結果」で、特に日本の事情に限れば、日本が買ってきた原油を中国が替わりに買いあさるようになった結果、日本に優先的に原油が回ってこなくなりつつある、というカナーリ外交戦略上の問題が大きい。

将来的に原油戦略として大きな影響を与えるのは、中国の成長と輸入航路へのテロリストの跋扈にある。
中国の成長は前述の通りだが、それに加えてアラビア海へのテロリストの展開が増えた結果、タンカーが狙われる海賊事件が増え、日本への原油輸送コストが高くなりつつある。さらに、欧州/中東と日本を繋ぐ最重要海運ルートであるマラッカ海峡の海賊も増加の一途を辿っているが、中国国内での発言力を持つ中国海軍(上海閥)が肥大・南下しマラッカ海峡の警察権を持とうとしている。そうすると、日本のエネルギー輸入航路(そして正否輸出ルート)は、アラビア海のテロリスト、マラッカ海峡の海賊(の背後にいる中国)という、二重の脅威に晒されることになる。

原油価格高騰は、あらゆる製造機械の運用コストを押し上げ、生活の全ての価格が高騰する。燃料高がカップラーメンの値段まで上げるというのは、全体を俯瞰すればわかることなのに、全体を俯瞰しないから理由が思いつかない。カップラーメンが高くなったのは、外交戦略上の影響の結果なのだ。*2

ということは、たぶん「説明されればなるほどと納得する」という類のことなのではないかと思う。
でも、説明されないからよくわからない。
よくわからないから、「とにかく外交とか中国とかはどうでもいいから、石油の値段をどうにかして下げろ」と言う批判だけが出てくる。

こうした近視眼的な批判はなぜ出てくるのか。

これは、有権者に当事者意識がないからではないか、と思われる。
元々、確かに「ダメなら交代させればいい」というのが民主主義の良いところでもある。封建領主のように身分が固定された統治者は失敗しても交代しないが、民主主義的手続きで選出された統治者は、失敗したら交代させることが出来る。
そもそも日本の場合は、権威のトップと権力のトップが分離されてきた時代が室町の昔から続いている。天皇から将軍に統治の権力が移り、維新によって幕軍と官軍が交代し、これによって多くの日本人は「上様はどんどん交代する」という感覚を伝統的に培ってきたのではないかという気もする。権力者は交代するということが日本人にとっては自然なのかもしれない。
だからこそ、「政権交替」という響きに「維新」と同じようなワクワク感を持ってしまうのだろうし、替わることを肯定的に受け止めもするのだろう。
が、同時に、「替わるのは上だけ。自分達には関係ない」という意識をも孕んでいる。それが自分の利益だけを要求し、そうなるための因果関係を考えないという独善を育むおkとに繋がっているのかもしれない。



アーサー・C・クラークの小説「地球帝国」には、建国500周年を迎えたアメリカというのが登場する。
ストーリーとはほとんど関係ないwんだけど、その500周年を迎えたアメリカという人工的民主主義国は「健全な行政を担当する能力を持つ全国民の中から、大統領になりたがらない人間を無作為に選んで大統領に任命し、きちんと任期をこなさないと辞めさせてもらえない。大統領になりたがっている人間は絶対に選ばない」という面白いルールで自己統治を行っている、というような設定があった。
読んだのは20年くらい前なので、ストーリーやその他の細かいところはもう憶えてないのだが、「望まなくても、責任を果たす能力は持っていることが全員に求められ、誰でも常に代わりが出来るだけのスキルと健全な判断力が必要で、権力と釣り合うプレッシャーから逃れたかったら真面目に責任を果たせと言われる」というところに、民主主義の本来の理念を見たような気がした。実際がそうではないからこそのクラーク的アイロニーと言えなくもないが、クラークの書く世界の中には技術的なこと以上に「社会という構造について」SF的に言及したものが散見されていておもしろい。「楽園の泉」とかも。そのうちまた読み返そう。


話は戻って、民主主義が正しく機能するために必要な条件は、

  1. より多くの判断材料が、有権者全員に公開されなければならない
  2. 選抜委任される統治者になる資格を、有権者全員が持つ(技能的に)準備を常に怠らない
  3. 統治者で居続けたいと【思わない】人間を選ぶ
  4. 全体(最大多数)の利益を優先する判断をする

かなあ、とか思う。

(1)より多くの判断材料=情報であるわけで、健全な判断力を持っていても正しい(=正義の、ということではなくて正確なという意味)情報に基づかなければ、間違った判断しかできない。代入値が正確でも公式が間違っていれば望み通りの答えが出ないというアレ。現代に置いて報道機関が恣意的な意図を織り交ぜずに必要十分な情報を有権者に与えているかというと、かなり疑問が持たれる。この点、日本の報道の不十分さ、または何らかの意図の存在を感じてしまうし、これでは有権者が「正確な判断」ができないのは仕方がない。

(2)これは難しいだろうけど、実は似た制度がもうじき始まる。所謂「裁判員制度」というのがそれに近い。技能・知識として裁判官と同じ能力を持っていなくても、正常な判断力を持っているならそれは務まるという前提から行われるのが裁判員制度。この制度が司法判断だけでなく統治にも採用されたら……というのが、地球帝国で言うアメリカ大統領選出方法であったような気がする。

(3)これは、「当事者が希望しての任期延長」が腐敗を産むから。大統領制を取る国の多くが任期の延長を由としないのは、政治の硬直と「任期継続のための利益誘導」が起こることを避けるため。ただ、日本のようにやたらと任期途中での交代を求めすぎると、政策の連続性が保てない。その意味で、やはり統治者の4〜5年程度の固定任期+議会に対する影響力が保障されている必要はあるように思う。

(4)これ結構重要。少数の権益だけを代表する代表者は、その他の権益を求める支持者の信を失うから。でも、(1)とも密接な関係があって、結局は何が最大多数にとっての利益なのかを説明する能力と、それを浸透させる報道機関が対立している現状にあっては、有権者の多くは正確な判断を下すことができないのは自明の理。


我々は目隠し+耳を塞がれた状態での判断を常に求められているのだなあ、と思うとちょっと暗澹とした気分になってくるのだが、それでもそういう状態の下にあって大多数の人が「それがよい」と最善の判断を下した結果が、常に今を作っていると言える。
太平洋戦争開戦も、日比谷事件も、安保闘争も、安倍前総理失脚も、民主党躍進も
みんなが「そうなるのが正しい」と選んだ結果起こることを、利益も損失も全員が引き受けるというのが民主主義であるわけで、「もう一回、失われた十年をやろうぜ!」というのが世間の多数意見だったら、付いていくしかないわなあ、と。


*1:直接ではないにせよ、気分とイメージに基づいて行政責任者を選んだ例が、任期を終えようとしている韓国盧武鉉大統領のような事例。威勢のいい理想を並べ、「素人にしかできない斬新な発想」で初歩的なミスを拡大した点、韓国の国民にとってもあまりよい統治者だったとは言えない

*2:近視眼的にはまるで奇異な発言に見えるかもしれないけど、桶屋が儲かる理由を考えたときに、風が吹いたからというところにまで目が届く人なら、誰にでも納得できる。経過を省くとさっぱりわからんが