表現の自由と公序良俗をもっと考えたら、デPはモーツァルトだった

どうもこの問題は論点がごっちゃになりがちなので、ちょっと脳みそを冷やしつつ改めて書いてみる。
その前に、僕の立場と視点の温床(というか出発点と背景)について前もって補足することから始めてみよう。

これまでにも繰り返し触れてきたけど、僕は音楽をけっこう愛する人間で、どっちかというと「完成途上にあり、完熟せずとも変化発展の最中にあり、しかし揮発性の高い、儚い音楽」を好んで聞く。
これはわかりやすく言えば、「大々的にプロモが行われ、望まなくても街中に流れ、気が向いたときにレコード屋、CD屋に行けばいつでも買うことができる音楽」ではなくて、「多くの場合、五線譜の上にしか存在せず、ストリートやライブハウスで聞ければ御の字。気に入って次のライブに足を運んでも、同じメンバーでは継続していない上に、あっという間に解散しているインディーズ」みたいな感じ。
だから、気に入った曲があればできるだけ音源を買ったりライブに足を運ぶことで作者・バンドのモチベーションを上げたいと思う。*1

だから、僕の中で認識している音楽というのは、一期一会であり、いつも同じように聞けるものではなく、作者のモチベーションがなくなったり、物理的・経済的・才能の枯渇・人生の時間切れなどの理由で続かなくなったりするのが当たり前のもの、としてある。モーツァルトなんかまさにそうだ。
そういうわけだからこそ音楽というのは儚く、そしていい音楽に巡り会えることは一種の奇蹟に近い。故に、傑作佳作を残したバンドが一夜にして消えてしまったり自分の好みとは変わってしまっても、僕はそうした変化を責めようとは思わない。彼らが残した、自分の琴線に触れた音楽を、ずっと慈しんでいけばいいだけの話。


※一応断っておきたいのだが、本項は「デPの曲は凄くいいから、多少エロくても例外を認めろよ!」とかいうことが主題ではないのでそのつもりで。いろいろな論点・視点があり、それぞれに正義正論がある。では、どういった論点、正論があるのか、その中で自分が納得できて折り合えるモノは何か、というのをちょこっと考えてみようというものなので、ひとつよろしく。


さて。
ではここから本題。
例の「デッドボールPの曲が大量削除された件」に端を発する考察の一環ではあるのだが、この件は幾つかの視点を孕んでいると思う。これらは多分に関連があったりもするのだろうが、自分にとって心地よい正義に軸足を置いて考えていくと、どうしても論点を見失いがちな気がするので、僕自身、慎重に考えてみる必要がある。

  1. 削除依頼は正当な権利者から行われたものであったかどうか
  2. 削除依頼に際して、削除申請者と削除理由は開示されるべきかどうか
  3. 公序良俗の基準は明示されるべきかどうか
  4. 表現の自由公序良俗への配慮はどちらが優先されるべきか
  5. 作詞作曲者という権利者と、楽器提供者という権利者のどちらが優先されるか

他にも論点はありそうなのだが、思いついたものから先に見ていってみよう。追加があれば、また後日。


●削除依頼は正当な権利者から行われたものであったかどうか
これについては、運営側は申し入れに際して削除依頼申請者の身元を確かめる手段を講じる、そうした確認手続きを行った事実と結果を開示するなどしない限り、事実かどうかの証明は難しいかもしれない。2ちゃんねるなどでは削除依頼はある程度透明化*2されているが、依頼者が本物かどうかを確認する方法というのは、結局依頼者当人が公的に公開運用され内部のものしかアクセスできない場所(たとえば企業からの依頼なら、企業自身のWebサイトなど)で、依頼の事実を開示しない限り、本物という認証を与えることはできない。
人は自分の信じたいものしか信じないわけで、自分が信じたくないことについては「自分にとって都合のいい解釈」によって否定することもできてしまうからだ。

こうした削除依頼者の実在を保障することは、同時に削除依頼者は常に自分が本物である証明ができなければ、削除依頼そのものが無効になるということにもなる。
僕個人の考え方としては、削除=第三者の発言や発表した内容を別の第三者が強権によって撤回・抹消させるという手続きを行うからには、削除依頼者はそのくらいの責任を負うべきなんじゃないかとも思う。その責任を負わずに物陰からの強権発動が連発されるようになると、暴発は収まるだろうけれども同時に「面倒ごとを恐れての萎縮傾向」が強まる可能性もある。
社会(なり、一種のムーブメントなり)を完全に管理することは難しいが、発展を促すつもりならばある程度の暴発を容認せねばならず、しかし萎縮と反発を招いてしまうと逆効果になってしまう。

先のデP大量削除事件のような「理由のわからない権利者削除」は以前にも類例があったが、今回のデP事件の後、「音源再配布(デP以外の人間が同じ音源を再UPしたらどうなるのか)」「公序良俗基準への挑戦(同様の下品な曲を第三者が新規公開したらどういった反応が得られるのか(→「フルチン☆ブギ」http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E2%98%86%E3%83%96%E3%82%AE )などの動きもある。以前からあった「おちんちんランド国家」http://www.nicovideo.jp/watch/sm1903808 などは今も削除されていない。
規制や抑制を促そうとすることが、逆に反発という形での一層の暴発を招くことは、今までにもよく見られた光景ではなかったか。


●削除依頼に際して、削除申請者と削除理由は開示されるべきかどうか
僕は幾つかの削除依頼を受け付けざるを得ないような掲示板や情報ページの管理もやってるのだが、しばしばこうした「権利者からの削除依頼」と称するものを受けることがある。一応、規定としては、「当事者及び当事者から委任を受けた代理人からの削除依頼であれば手続きに則って遂行するが、当事者と無関係の善意の第三者からの削除依頼は受け付けない」「削除依頼者の依頼内容と削除の根拠はすべて開示する」というのを原則としている。
ネットの掲示板などにおいて、削除権というのは結構強力な権限で、そこに行われた発言を「なかったことにする」というものだ。であるからには、削除権の行使は削除を行う基準を予め明確にしておいて、それに則って機械的に処理するか、管理人自身は積極的な削除は行わず、削除が必要と訴え出た依頼者に削除の根拠を明示させた上で、「その依頼者の持つモラルと根拠に基づいて削除が行われた(管理人の独断ではない)」ということを明らかにしないと、単なる独裁、独裁への服従を強いるだけのものになってしまう。*3

次項と関連してくるが、「公序良俗の共通基準」を示せないならば、せめて削除依頼者自身の基準(根拠)は開示する必要はあるのではないかと思う。


公序良俗の基準は明示されるべきかどうか

恐らく同様の傾向の曲は今後も出てくるだろう。そのとき削除された前例のどこがいけなかったのかがわからないままだと、削除されるまでやってよかったかどうかがわからないから、やってもよいと考える人間と、削除依頼者自身の内的基準を過度に配慮することで、必要以上の過剰な萎縮に走る人間とが出てくる。
例えば、「性器・乳首の露出は好ましくない」という内的基準から特定の動画を削除したとする。しかし、その削除基準が開示されなければ、「扇情的なものはダメだが、どこからが扇情的かは個人の判断による」ということになる。そこで「ダメと言われるまではやっていい」と考える人間はともかく、「水着もダメ。ミニスカもダメ。セーラー服は劣情を催すからダメ。ヘソが見えたらダメ。ノースリーブは脇乳が覗くからダメ。もちろんブルマは太腿が見えるからダメ」てな風にどんどん判断基準をエスカレートさせていく人間も出てくる。そういう人間は「極端な例」に過ぎない、と僕らは笑い飛ばしたいところだけれど、その極端な例の尻馬に乗った暴走が法的公式のスタンダードになってしまう馬鹿馬鹿しい事例なんて、掃いて捨てるほどある。

僕は「公序良俗の共通基準」を持つことは不可能だと思っているし、共通認識としてそれを開示することも難しいだろうと思っている。けれど、他の人間が公開した動画/楽曲に対して、別の第三者が削除という暴力的強権*4を行使するからには、「そうすべき、少なくとも自分(削除依頼者)にとって正当で明確な理由」を開示する義務が、削除依頼者にあるのではないか。
繰り返すが、「誰にとっても当然の理由」を決めるのではなく、「削除依頼者が削除を正当とする理由」を開示すべき、ということ。これは同時に前項の「削除依頼者の実在を認証せよ」と繋がってくるが。


表現の自由公序良俗への配慮はどちらが優先されるべきか
さて。これは難しい課題ではないかと思う。
表現の自由というのは、実は常に公序良俗という枷に対して矛盾した存在であるからだ。
公序良俗というのは「明示された、或いは暗黙の社会的合意=秩序の維持」だ。対して「表現の自由(の保障)」というのは、個人の表現は社会的合意の制限を受けるべきではないということでもある。上位概念として、どちらを優先するのかについて明確な結論を出すのは難しい。これは憲法論議まで話が広がって言ってしまうからだ。
もし、表現の自由を優先するなら、それがどんな内容であろうとも第三者が(公序良俗という立法化されない概念によっても)それを縛ることはできないし、許されない。故に、あらゆるエロ表現、残虐表現も作成し発信することそのものは阻害されるべきではない、ということになる。

一方、公序良俗を優先するなら、表現の自由はあくまで「公序良俗という社会的合意のでのみ存在できる」ということになる。
厄介なのは、この公序良俗という概念は明確な準拠指針や法的根拠があるとはいえない、ということだ。もちろん、中には法的根拠が存在するものもある。猥褻とされる内容については、公序良俗というより「猥褻物陳列法違反」という刑法上の違反行為になるわけで、これは公序良俗を持ち出すまでもない。
しかし、そこに至るかどうかの判断基準が明確なもの(性器の露出、性行為の露出など)はともかく、絵画・動画としては存在していないものは、果たして猥褻物に含まれるのかどうか、というのもある。これまでのところ、盗撮盗聴以外の音声や文字のみの創作物で猥褻物陳列罪に問われたものというのは、少なくとも近年では寡聞にして記憶にないのだが、僕もあまりものを知っている人間ではないので、事例などについてご存じの方がいれば頭を垂れて拝聴したい。

公序良俗をまったく配慮しない表現の暴走しがちな自由」はどちらかと言えば少数派で、その多くはそれぞれの個人の考える基準に照らし合わせて、ある程度の配慮を踏まえているのではないかと思う。
が、これは前項及び以前のエントリーでも触れているように、個人によってその許容基準が大幅に違う。その大幅な違いについて「公序良俗」というものが影響力を持った共通基準として幅を利かせるという前提なら、やはり標準原器たる公序良俗は「照らし合わせることができる明文化されたもの」「法的根拠を持ったもの」「特定の誰かの場当たり的な判断ではないもの」として予め示されている必要があるのではないかと思う。
公序良俗の原器として「一般通念」を持ち出した場合でも、ではその一般通念というのはどのようなものか、明文化されているのか、法的根拠を持つかと言われたら持っていない。
まさに空気。
明文化されていない空気(=雰囲気・情感による圧迫)に、自発的に身を委ねて配慮し、自粛・萎縮すること=空気を読むということなのだが、この場合も公序良俗という実体のない空気をいかにして読むかが問われるということか。
問題は、「空気を読め」という側と読むべき側の「空気を読む能力」に対する認識の差が常に存在し、空気を読むことを強制する側は、これまでにもその読み方を十分に明示してきたとは言えないのではないか、という点。何度も繰り返しでなんですが。

その公序良俗の指針が明文化されることが、「表現の自由公序良俗のどちらを優先すべきか」の解になるのかと言われれば、ソレとコレとはまた別の問題のようにも思えてしまう。


●作詞作曲者という権利者と、楽器提供者という権利者のどちらが優先されるか
これは前項の「表現の自由公序良俗のどちらを優先するか」とも被ってくる視点なのだが、「音楽(及び動画)の作詞作曲者」と「楽器提供者」の、どちらの権利が優先されるのか、というのは実は大いに気になるところ。

以前、ワンカップPの曲が削除を受けたことがあるのだが、それは「ゲーム音楽の替え歌」であったが故に、原曲権利者からの訴えがあり、それを受けて、ということだった。*5
今回の一連のエントリーの発端となったデP事件では、原曲権利者はあくまでデPである。
が、削除依頼者がクリプトン社だと曲のモチーフ及び作成ツール(=楽器)はデPのオリジナルではなかった、という点が問題とされての「権利者削除」なのかなと思う。

例えば「シュークリームのうた http://www.nicovideo.jp/watch/sm1750914」は、歌詞の内容についてこそ「ミク」という固有名はないが、そういう内容を連想できる点では他のデPの曲と変わらず、また静止画として初音ミクが使用され、歌唱にも初音ミクが使用されているが、削除対象とならなかった。これは、その他の楽曲の削除事由との違い(この曲だけが削除されなかった正当な理由)を説明しにくいのではないか。
現時点での最新曲「1LDK」は、シュークリームのうたと同様、静止画にこそ初音ミク鏡音リンが登場するが、歌詞にはそうした製品名はひとことも登場しない。歌唱ソフトとして初音ミク鏡音リンを使用している点もシュークリームのうたと同じだ。しかもこれ、使われている画像が「普通のカップル」だったら、普通のノーマルなカップルのラブソングにしか聞こえない。こともないw
つまり、ここでも「聞く側がどういうつもりで聞いているか」という問題でしかないわけなのだ。
「シュークリームのうたが消されないのに、1LDKが消されたのはどういう理由か?」
というのは、別に誰かを批判する材料にするつもりはないけど、この2曲のどこに削除に踏み切る理由が存在したのかというのを考えてみるというのは、今後、「削除されない、公序良俗に反しない、しかし素直ではない曲」というのを生み出す後続の楽曲作者にとって興味深い点なのではないか。
ここでの論点としては上げなかったが、この2曲に限らず個々の曲を見ていくと、デPが初音ミクをモチーフとしないで作った曲(H系)の内容がいけないのか、どうなのかについてもう少し違った考察が出来るようにも思う。

で、作詞作曲者と楽器提供者(ボーカル・キャラクターの権利者)の優先度において、今回は楽曲作者よりも楽器提供者の権利が優先するという前例ができたことになる。

ここで、やはり気になってくるのが「初音ミクは人格と権利を有するアイドル(キャラクター)なのか、それとも楽器なのか」という点。
クリプトン社はその他の音声合成ソフトについては人格権のようなものは主張していないが、初音ミクを筆頭とするVocaloid2シリーズについてはこの辺の権利を明示している。
それはそれで戦略的にありだろう。
が、そうすると「楽曲制作者は、楽器提供者に従属する権利者である」という認識が定着することになるのだが、それはそれでいいんだろうか?

これも極論だけど、ストラトキャスターをオリジナル演歌に使おうとしたら、ギター製造会社からイメージ低下を理由に使用禁止を受けたとか、ストリップ小屋で踊り子さんの伴奏に自作曲をスタインウェイで弾こうとしたら、楽器提供者の優先を理由に演奏禁止を命じられた……。
まあ、これに近い。
もちろん、ストラトキャスタースタインウェイには人格や萌え設定なんかはないわけなのだが、萌え設定が損なわれることを理由に、楽器提供者が楽曲作者に優先して演奏禁止を命じることができる、というのはつまりはそういうことなのではないかと思えてくるわけなのだが……。

初音ミクって、類似ソフトは他にもないではない。キャラが立ってるから売れた部分はもちろんあるだろうけど、技術として(そして頒布価格も)優れていて、それに惚れ込んだ楽曲作者が、あらゆる方向に可能性の手を広げたことで、多くの触発されたユーザー層を連鎖爆発的に作り出した点が成功のキーだったと思う。
デPだから特別扱いしろってんでなく、デPであろうがなかろうがダメなものはダメというのなら、明確な基準を開示する必要はあろうと思う。
明確な基準を開示しないまま、「一般通念」とか「公序良俗*6」という運用者によって如何様にも判断できるものを、子細事由を述べずに削除権行使の正当理由にするのは、ちょっと苦しいんじゃないかな。








なお、「楽器の音源提供者(声優)の心境」「初音ミクという架空のキャラクターの心情」については、これは宗教/信仰と同じなのでここでは特に踏み込まない。「○○○の気持ちを考えたことがあるのか!」的な批判は、それこそ「じゃあこっちの気持ちはどうなるんだ!」的な宗教戦争的応酬にしかならないからだ。互いの意思を尊重する、相手の気持ちになってみる、という意思の相互的融和状態=空気の醸成=法的根拠によらない公序良俗の形成ということなのだと思うし、それは否定しないが、「オレの気持ちをわかってくれ」と言うからには、自分の対極にいる人間の気持ちをもわからなければそれは不公平というか一方の一方に対する甘えになってしまう。宗教/信仰の世界においてはそうした甘えも許されていい*7が、という話。
このエントリーの冒頭でも触れているように、音楽(それを作る楽曲作者やその人気・存在も)は揮発性の高いものであり、一年後の今頃になったら誰一人メルトのフレーズを思い出せなくなり、シュークリームのうたの歌詞も忘れてるかもしれない。それでも、曲が残っていれば何度もそれを繰り返し堪能できる。その人がいなくなってしまっても。
僕らの世界にモーツァルトはもういないが、彼が残した「愉快で下品な音楽」を僕らはたぶんこれからもずっと楽しむことができる。
仮に削除を受けた作者がモチベーションを失ってしまっても、それはそれで仕方がない。


ただ、それでも。文章屋も音楽屋もそうだけど、その方法でしか自分の中のフラストレーションを発散する術がない人っていうのは、どんなに禁じられてもどんなに心が折れても、結局自分にできる方法で戻ってくるだろうな、と思う。
今回は幸いにしてデPは「今後も曲を作る」と宣言しているのが、何よりの救いだが、もしデPが「もうやめる」と宣言していたとしても、彼はきっと別のコテ、別のアカウントで何度でも曲を出してくるんじゃないか、という気がするし、そうであろうことを勝手に期待している。そのとき、かつてのデPだとわからなくても、それでも共感できたらやっぱりまた聞くと思う。生まれ変わっても聞く、みたいな。
デPに限らず、曲を作るしかない人、歌うしかない人は、その方法を完全に捨て去ることなんかできない。デPの名作「永久に続く五線譜 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1647289」は、まさにその音楽しか縋るものがない人々を歌い、そこに初音ミクと楽曲制作者/歌唱者たちの苦悩とジレンマを重ね合わせている。


僕は文章を生業にするモノカキ屋の末席にいる者に過ぎないけど、「それしかない。それしかできない。それをするしかない。そしてそれをしたい」という狂おしさには大いに共感するところだ。
デPが扱うテーマは踏み越えたデッドボールが多いのは最初からわかっていたことだし、同時にきれい事だけじゃ表現しきれないことがあるというのも、ひとつの真理だと思う。
もっとも、そうした踏み越えた何かを規制する存在があるからこそ、抑圧された側が燃える燃料にもなる。
TBSや電通JASRACドワンゴを「圧迫者」という仮想敵に据えることに抵抗を憶えない人々が、明確ではなく共有もできないままの基準に身を委ねることへの抵抗には協調しないというのもまた、「基準をどこまで許容できるかは、個人の判断によるものであり共通の基準などない」ということの証左ではないかとも思うのだが、いかがなもんでしょう。


期せずして、デッドボールPは現代のモーツァルト*8という結論が導きだされてしまったわけなのだがw
モーツァルトのどうにもならない下品さを多くの人は知らず、モーツァルトにいいようにネタにされてしまった気の毒な人々のことを多くの人がまるで考慮しないまま、モーツァルトを「そんな奴とは露も知らずに」楽しむ人が多いことを考えれば、デPは初音界のモーツァルトという表現は、当たらずも遠からずかな、と自分なりに納得できた。







PS.
まあ、猥歌とか卑猥な内容の創作物・二次創作物(替え歌)・執筆物というのは、どっちにせよ大手を振って表を歩けないのが定番の歴史でもある。そのへんはむしろ織り込み済みとして考えるくらいで丁度良かろう。モーツァルトの全部wが評価されたのだって、彼が存命中じゃないんだし。モーツァルトやデPと比肩するのは行きすぎだけど、拙作だって閨房怪談ばかりを集めた「「弩」怖い話〈3〉Libido with Destrudo (竹書房文庫)」の評判は芳しくなかったしw
さあ、今夜は内田裕也の「嗚呼!おんなたち猥歌 デラックス版 [DVD]」あたりを肴に赤松啓介の「民謡・猥歌の民俗学【オンデマンド版】 (Ondemand collection)」でもじっくり読むか。積読になってるし……





……なんですか。仕事しろ?
いやそりゃもう、もちろんですとも。働きますとも。

*1:一方で、それ以上の入れ込みはしない、とも決めている。自分の勝手な願望を押し付けてバンドの中に踏み込まないことで、心地よい音楽の受給関係・距離感を保ちたい、という気持ちもある。

*2:所定の手順に従って、誰の目にもわかる状態で行われたものだけが有効というルール

*3:個人的なサイトならそうした個人独裁もいいのだろうが、削除された側は「なぜ削除されたのか?」という疑念を拭えない。

*4:強い表現でアレだけど、削除というのはそれだけ強い権限なのだという自覚は持つべき。自分が同じことをやられた場合のことを考慮するなら。

*5:いわゆるテクニクビート事件だが、これは円満に解決した上でワPのアレンジがオフィシャルでも活用されるなど建設的な展開となった。

*6:繰り返し「公序良俗=弁えるべき常識には暗黙かつ共通の何かがある」という前提で書いてきたけど、もしかしてその基準が判断権限者の内部にブラックボックスとしてのみあるのだとしたら(そのブラックボックスの中身を想像したうえで配慮しろ、ということなら)、それは公序良俗というより「私序良俗」なのでわないか、とかぼんやり思った。

*7:というか甘えを許容するのが宗教といったら叱られますかw

*8:その音楽性の高さに比類する、内容の下品さと愉快さ・心地よさの共存という点においてw