猥歌はなぜ消滅しないのか

ちょっと興味の湧いたことなどをひとつ。

初音ミクにエロ歌謡wを歌わせると、世間からキモヲタとして排斥されるので、やめるべきだ(意訳)

というもの。
なるほど、それはもっともに見える。

そもそも猥褻というのは人前に晒すものではなく、忌むべき行為、恥ずかしい行為として隠しておくべきものだとする考え方は、洋の東西を問わず広く存在する。*1
日本においても「猥褻物陳列罪」という罪が刑法に存在し、法の網をかいくぐってかなり扱いが緩くなってるとは言え、今もって猥褻物を公共の場に置くことは違法とされている。
故に、猥褻歌謡(=猥歌)とは忌むべきものである、という良識的な考え方は広く存在するし、それこそ公序良俗に即した考え方であろうという点については、何の疑いもない。

では、そうした忌むべき猥歌はなぜなくならないのか。
どころか、時代を超えて何百年(洋の東西を問わなければ何千年)に渡って連綿と続くのは何故か。
文明野蛮な時代をさておくにしても、近代においても猥歌が歌い継がれてきたのは何故か。
忌むべき猥歌とされた歌謡やその特殊な謡史は歴史の彼方に消えつつあるが*2、人間の本質的な営みに関わる事柄故に、そうした猥歌は今後もなくならないのではないか。
直接的に言うのが憚られるからこそ、つぼイのりおが「金太の大冒険 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1816912*3などでそうしてきたように幾重にも隠した暗喩で歌われたり、もしくはストレートに歌われこそすれ発禁処分のような封じ込めを受けてきたのではないか。

そんなわけで、猥歌を作ってきたのは現代のキモヲタだけではないのであるぞよ、ということをまず踏まえたい。フォークソングの時代にだって口の端に上げるのが憚られただけで猥歌はいっぱいあったし、もっと言えば大正時代、明冶時代、もっともっと遡って江戸時代以前の労働歌*4にもそういううたは珍しくない。
猥歌というのは、要するに抑圧を受け、封印と抹消されてきたという……まあ、そういう系の人が聞いたら口角飛ばして拳を振り上げるようなアレでもあるわけだw



さて。
「そういう曲を作るのは勝手だが、初音ミクにそういう曲を歌わせるとイメージが汚れるからやめるべき」というのは、これはこれで説得力がある、ようにも見える。
で、これというのは「テレビや報道で初音ミクが紹介されるときに、汚れた誤解を与えるから自重すべき」というのが、主張の本旨なのではないかと思う。
なるほど、清純派アイドルにヘアヌードやらせちゃまずいよね、という意味では理解できるし同意もできる。これからテレビにどんどん清純派として出していこうっていうときに、下品でスキャンダラスなイメージなどないほうが、世論を味方に付けやすい。

が、それは「初音ミクというアイドル」を、メジャーに向かって取り上げてもらおう、という媚びとしては理解できるものの、「初音ミクという楽器を使って何ができる?」という側面から見ると、「深読みしすぎた遠慮」にも見えてしまう気もする。
今回、「猥歌は初音ミクを穢す」という拒否反応があがったわけなのだが、だったら「アホの子」などと貶すのはいかがなものなのか? あれはあれで精神薄弱者に対する侮蔑的表現になるのではないか? 初音ミクにアホな歌を歌わせるのは控えるべきだ! ……なんてふうな過剰な自重主義が台頭しないとも限らない。というか、何かひとつの自重に正当性を持たせようとすれば、もっと論外に過激な自重について別の正当性を言い出す人は絶対に出てくるのではないか。つまりは、自重に自重を重ねて生真面目に萎縮していくイタチゴッコのスパイラルに陥るのではないか。

もっと言えば。
初音ミクという楽器を使って何をする?」
という視点から言えば、テレビで放映されるような……という側からは、初音ミクは今後もずっと警戒され続けるのではないかという気もする。巨大な音楽産業、人間の歌唱者、権利組織などなど複雑に絡み合うゴリアテに個人が立ち向かうための礫として初音ミクは有用なのだが、初音ミクをそのゴリアテの舞台の上に載せたいから、初音ミクの「なんでもできる」という翼をもいでしまうというのは、それこそ本末転倒な気もする。

そもそも、放送コードに引っ掛かるような内容の猥歌は、「キモヲタのおもちゃ」という紹介のされ方をするときには、絶対に放送できないw<気付きにくいパラドックス
絵を見せるだけでは説明できないから、批判するための番組を作りにくい(しかも内容聞かせないと批判ができず、内容は放送コードに掛かるから流せないw)
そういう内容の猥歌を作っていたのではないにせよ、歌曲の内容を番組として構成できないからこそ、「それを弄っている人々」というところに焦点が当てられたのが昨年のTBSの一件だったのだろうし。

頑張って「綺麗なジャイアン」を装ったところで、ジャイアンとしてしか紹介されないだろうことを考えれば(そして、JASRACが巨大な権益を有する放送界を、JASRACを介さずにアクセスする方法が確立されていない現状では)、「一般人の目を気にして清純派を装うとする」という努力は、どうしても滑稽に感じられてしまう気もする。

音楽というのは揮発性が高いもの。
残そう、残りますように、歌われますように、と念じて書かれ歌われ聞かれるけれど、長く記憶には残して貰える曲はほんの僅かしかない。
だからこそ、それがどんな曲でも書くべき、歌うべき、そして聞くべきなのだ、と思うわけです。

そんなに目くじら立てなくても、曲はどんどん消えていくし死んでいくよ。音楽ってそういう儚いものなんだよ、という別の現実があるが故に。






PS.
調べ物をしていて、「初音ミク(或いはクリプトン、そして或いは期せずしてヒット曲を作ってしまったうp主たち)というのは、蜘蛛の糸に縋るカンダタなのだ」ということに思い当たった。
ボカロ談義ではよくある「CGMによってブレイクしたヒット商品(曲)の権利は誰にあるのか」と合いまった話だが、もちろんその作者・開発元に権利がある反面、糸に群がってきた有象無象に向かって「これはオレのものだ」と叫んだ瞬間に、手元のすぐ上で糸が切れてしまう。
権利者は確かにいるし、その権利者は絶対に尊重されるべきだが、権利者自身が権利を主張することについて、CGMを構成する有象無象wは非常に冷徹に反応する。「ともに育てた」「ここまで盛り上げた」という意識があるだけに、結実の独占を「宣言すること」に対しては厳しい。宣言しないうちは宥和的だったりもするのに*5
これは、「格差や抜け駆けを許さない」とする現代の格差拒絶意識に根ざすものなのか、単なる嫉妬・羨望なのかは正直よくわからないけど、権利者が権利を主張できない(主張することで、英雄から戦犯に真っ逆さま)という、栄誉とリンチの二重構造は確かにある。
栄誉に結実する実は、眺めているうちは許されても、手を伸ばした瞬間に糸が途切れて真っ逆さま。
芥川龍之介の題したテーマは、名を変え形を変え、脈々と息づいているのだなあ。深い。






PS2.
てなことを書いてたら、デPの新曲来てた。

初音ミク+鏡音リンの百合ジナル曲2 いつしか、必ず。 -Full ver.-
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2097116

今回は百合としつつもドールがテーマ。非常にメランコリックなアップテンポのタンゴ調の曲。「コードが複雑で時間が掛かった」「書いてる最中に例の事件でミクの呪いかと」などのコメントになるほどと納得。これ、きっとまた挑戦する人がもちろん出るんだろうけど、こりゃ相当難しいんでないかい。CosMoPの「速さ」とは別の意味でかなりトリッキーな曲(フレーズの繰り返しは多いけど)。現在は有名Pホイホイ状態なのだが、コメントが流れてないうちにどうぞ。
そして、万が一消えないうちに。

PS3.

くまうた(133) 『権利者様は世界一ぃぃ』 唄:白熊カオス
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2100359
カオス師匠も無関心ではいられないようです。がw

*1:カーマ・スートラだって密典だ

*2:その内容については賛否両論あろうが、赤松啓介の業績などは記録の蒐集としては評価に値するのではないか。と、個人的には思うのだが。

*3:いや、前言撤回w この曲はやっぱストレート過ぎだw

*4:田植えの歌だの糸紡ぎの歌だの炭坑の歌だの、そういった重労働を担うときに歌われる内容と猥歌は切っても切れない関係にあるようだ。もちろん、江戸時代のお百姓さんはキモヲタではないですよw

*5:そういやこれって、松本零士氏と西崎義展氏のあの係争もちょっとダブって見えるな。