多様性と普遍性のせめぎ合い

昨日書いた自分のエントリー「[初音]猥歌はなぜ消滅しないのか http://d.hatena.ne.jp/azuki-glg/20080120/1200850343」に自分レスwwww


初音界のカテゴリとして書くが、これは音楽に限った話ではなくて、音楽、絵画、文章・文学、映像、ゲーム、料理、あらゆる創作物というのは、多様性と普遍性の双方を求めて切磋琢磨を繰り返している。
人と違うもの、これまでにないもの、そういったものを生み出すことに才能の多くが割かれている一方、あまりにも人と違いすぎると許容してもらえる余地もなくなってしまうので、ある程度の普遍性・共感できる部分をも意識しなければならない。その普遍性、共感できる部分を意識しすぎると「ありがち」になり、他者との相違・多様性を優先しすぎると「自己満足」になってしまう。この振り子のどこのあたりに針を置くかというのは、あらゆる「作家」が悩み苦しむところではないかと思う。

これが「他人がどう思うかなんてどうでもいいんだよ! オレがよければいいんだよ!」というのを第一義に考えていいなら、普遍性なんか無視していい。同時に公序良俗も考えなくていい。
「オレ」が作った、他人とは違う価値(多様性の容認があってこそ生まれる稀有寡少な選択肢)に付いてくる奴がいれば、そのときはオレが世界の基準だ! というようなことになる。これは芸術家には珍しくない考え方と言えるしw、「他人と一緒=世の中への迎合」を容認していたら、自分が埋没してしまう……という恐怖感があってこそ生まれるのではないかと思う。
自分という存在、自分の行為行動が世間と一致していなくても、そういう存在があることを許されるためには、同じように世間と一致しないしかし自分とは別の行為行動、存在をも認めなければならない。自分だけを認めて自分以外は認めない、それでは単なるオレ主義だが、異質な自分の存在を許容させるために、異質な自分以外の異分子の共存をも認める――それが「多様性を認める」ということだと思う。

ちと脱線すると、日本はそうした「多様性を容認する」という信仰感が根付いていると言える。一神教的な「特定の神のみとの契約」という概念ではなく、複数・多数の神が同時に存在するという概念(いわゆる八百万の概念)は、絶対者に自分を委ねるのではなく、不完全な自分を含めてあらゆる異質が同時に存在していい、という優しさを孕む。
そうした優しさ、多様性のメリットは「もしかしたら失敗に終わるかもしれない他人と違う異質な踏み外し」を容認する度量を持つということだと思う。
ただ同時に、そうした「多様性を容認する」という信仰感が日本の全てを覆っているわけでもなくて、「多様性を容認することへの反発」や「秩序回帰願望」というのも同時に存在する。実際のところ、多様性を叫んで自分で基準を作るより、空気*1を読んでムラに回帰するほうがラクなのだ。

このムラへの回帰、「空気嫁このバカ!」的な普遍性への従順は多様性の容認のコインの裏側に常にある。

「黙ってオレに付いてこい的芸術魂」とは別の、「世間様の顔色を窺って付いていきます的な普遍性」というのを完全に否定することは、商業的な仕事を経験したことがあるクリエイターなら、難しいってことを実感しているかもしれない。
商売抜きにしても、多様性というゆりかごの優しさの中で「自分という異質」を訴えつつも、「そんな自分に共感してくれる隠れた普遍性への期待」というのは、やはりあるんじゃないかなと思ったりする。

かと言って、この「普遍性へのにじりより」というのは実に難しい。
寄りすぎれば迎合になる上に、ありがちすぎて埋没してしまい、製品・商品・作品として抜きんでた存在にはなれない。多数派への迎合は少数派から嫉まれ、少数派への迎合は多数派から「一般ピーポーの目に付かないところでやれ」と疎まれる。

商業的文章屋的には、「すべてが同じものに収斂していく、普遍性の優先(多様性の萎縮)」よりは、「様々な価値観、可能性に向かって拡散していく、多様性の拡大」のほうが都合がいい。その点、1/17のエントリへのコメントで野尻先生からご紹介いただいたblogにある意見は、モノツクリをする人の多くが潜在的に抱く危機感、或いは「社会の合意という実体のないものによって、一方向へ押し流されていくことへの抵抗感と不安感」のような点で大いに頷ける。「ありもののどれかに当てはめるだけ」というマークシートのような条件下で、新しい視点・新しい理念のものを生み出すのは困難だ。

ところで、「猥雑なもの」と切り捨てられてしまうものの多くは、普遍性が大いに足りないか、「ある意味で究極的に普遍的だが、図星すぎて受け入れ拒否されてしまうもの」のどちらかになるんじゃないかと思う。猥歌とされる分野、エロなどは実は後者に当たるのではないかと思うし。
そうでなかったら、エロティシズム・性愛・性欲に連なるあらゆる商品が、一大市場を築けるわけないんだし。



だがしかし。
今でこそエロ商品が大手を振って存在している世の中である一方、猥雑なものは多少以上の批判を浴びて、非難されて、追いやられて、貶されて、蔑まれて、消されようとするくらいのほうがいいものができるんじゃないか、というドMな期待もなくはないw 眉を顰められるからこそいいんじゃないか、という禁断の悦楽的感覚とでもいいますか。
多様性によって容認される選択肢のひとつでありながら、その他一切の選択肢からも一段も二段も低く見られるような辺り、そういうところにおかれるからこそ、猥歌は大いなるレジストソングたり得るのではないかと思ったり。*2

それと、「卑猥な歌のイメージがミクに付くのはイヤだ」という意見は、それ以外の曲の底力を見くびっているし、同時に「自分が気になるものは他人も気になるはずだ」というオレ主義に陥っているのではないかと思ったりもする。自分が気にしてるほど、みんなは気にしてない。
それに、数日、数週単位でメガヒットが生まれていく今の初音界*3の現状では、眉を顰めるような歌が出てこようが、それを凌駕する量と質と勢いのある新曲が、怒濤のように発表され続けてる。
これは「荒らしコメントに対抗するにはどうしたらいいか」というのと実は同じで、「職人技の良質コメントをさらに大量に投下する」ことで対抗できる。というか、いい新曲が次々に出てきたら、一週間前、一カ月前の猥歌なんて一巡して話題から消えてるよ、そんなのいつまでも気にしてるなんて、まったくおまいは意識しすぎのいやらしい子だよ、てなことにもなるのでわないか。
実際、メジャーの音楽界・放送界がそうであるように、そしてそうしたしがらみのないネット界ではメジャー界の人々がついて行けないほど、もっと恐ろしくなるほどに、楽曲の消費サイクルは早い。「卑猥な歌のイメージで」というのは、それはその曲で思考が停止している証拠で、世界はもっと激しいスピードで変わり続け、新しい曲が生まれ続けている。

哀しい話なんだけど、そこまで気にされるほど普遍的に広く長く記憶に留まり続けるというのは、デPの曲でも難しいというのが現実かと思うのだった。
だからこそ、好きな曲は自分の宝箱の中にしまっておきたいわけで……。





……普遍性と多様性の話はどこに行ったかって?
さっきタバコ買いに行ったきり帰ってこないよ!

*1:大勢を占める雰囲気、デファクトスタンダード

*2:レジストソングを大喜びで応援するL方向の手合いにすら、眉を顰められるようなw

*3:というかボカロ界というかw