「拳王は空気など読まぬッ!」公序良俗という空気

拳王ではありませんが読みませぬw
このエントリは最近初音さん系でしばしば引き合いに出る「公序良俗」&社会全般に引き合いに出る「空気」について論じたものなのだが、初音さんに限った話題でもないので敢えて[初音]というカテゴリは付けないでみる。*1


昨年、「空気読めない」「民意を感じ取れ」「注目される立場の人間は、自分に求められている主張を、聴衆の期待から読み取れ」というようなキーワードでのバッシングが広く行われたのは記憶に新しい。*2
まあ、テレビ芸人さんやワイドショーのコメンテーターさんなどは、とりわけそうした「今どういう意見を言うことを求められているのか」的なところに敏感なのか、そうしたシナリオを読み上げることに対する割り切りがあるのかはともかく、「空気を読んだリアクション」に長けているなあ、と感心することしきりであった。

最近、初音さん系のことなどをうだうだと書いていたところ、「初音ミクニュースで注目を集めているようなサイトが、そんなことを言うべきではない」的なコメントを頂戴したりもして、もしかして僕も「誰かに期待されていること以外は言ってはいけない」という期待をされてるのかな? とちと思ったりしたが、それはいくらなんでも考えすぎだし、自意識過剰すぎってもんだろう。

正直なところ、この「空気読め」というのは少し危ういように思っている。

日本人は「言われなくても相手の思っていることを察する」ということを善としている。以心伝心は悪い意味では使われないし、相手に言われる前に先んじて気が付く、気配り・配慮というのも良い態度と言われる。口に出さずとも、意を汲んで思った通りに動くのは美質である、という国民的合意があるのだと思う。
これは「あなたと私は同じ考えを共有していますよ」というシグナルを、行動で表すということであるわけで、和を以て尊しとする日本では殊の外、「良い」とされる行為となっている。

のだが。

最近ちょっとそのへんが行きすぎでないかいと思うことがある。
「我々が期待していることを、我々に言われるまでもなく汲み取るべきで、我々に言われてからそうするのでは遅すぎ、我々の意に沿わないことを言う、我々と異なる主張を我々に意見するなどもってのほかである」
という、傲慢な空気がほんのり流れていることに気付くことがあるのだ。
そういう状況下で、周囲と違う意見を言うのは非常にリスクが大きい。突然、異物扱いされてしまい、それまでの「和」から弾き出されてしまう恐れがある。
だから、賢い人はあえて自分の意見を「自分の主張」としては言わない。
幸い、今はインターネットなどに自分の立場や肩書き・実名を晒すことなく、「純粋に言いたい意見そのものだけ」を言う機会があるので、実名や立場を危機に置くリスクから離れた様々な意見が見られるようになった。それは本当にいいことだと思う。

だが、まだまだ「空気を読め」という雰囲気というか圧迫のようなものは、うっすらと僕らの世界全体を包み込んでいるような気がしている。

このところ、初音さん系のエントリでたびたび触れてきた「公序良俗」という言葉。
これは、はてなキーワードによるとこうなっている。

国家社会の秩序と善良の風俗。社会の普遍的道徳観を意味し、法律は結局この理念に合するものとされる。
民法90条では、公序良俗に反する契約は、無効であると規定している。
参照:民法90条
(ATOK2007 はてな辞書より)

社会の普遍的道徳観を意味し、法律が根ざす理念の元となっている、とされているのだが、公序良俗が具体的にどういったものなのかについての定義というのは、あるようでない。
公序良俗に反しない(即した)という言葉はしばしば規律を守り秩序に従じるための提言として使われるのだが、その従じる公序良俗の定義は引用者によって定義が若干ずつ異なるという曖昧なものになっているように思える。というより、厳密な定義というのは「日常の振る舞いの根幹的挙動を、文言によって定義する」ということにも繋がってしまうため、できないのだろうなと思う。
できないけど、でもその実体が曖昧な「公序良俗」という空気に、頭を垂れて従うことだけは正しいはずだ、と誰もが納得している。奇妙な風景だなと思う。

公序良俗は運用者/参照者によって、そのときどきに応じて都合のいい基準を引き出すことができる。だから、個々の人や組織や条文は、厳密な定義づけを自分では行わず、「社会の空気を読んでくれ」「みんなが言ってることに従ってくれ」という形で責任回避する。

曲者なのは、その公序良俗という空気を形成する「みんな」というのが、実は具体的な実体を持っているようで持っていないというところだ。
社会的に云々、今市井の人々は云々、という形で、「みんなの声を代弁する」のは、大抵は新聞・テレビ・ラジオなどの報道に関わる人々だ。だが、そうした新聞・テレビ・ラジオの主張に影響を受けて、「みんながそう言ってる、と新聞・テレビ・ラジオがそう言ってるから、自分もそれに反対しないようにしなくちゃ」と、そこで空気を読んで旗色を決めるという人が多いことも確か。つまり、市井の意見が報道に反映されるんじゃなくて、報道によって煽動されて腹づもりが決まる、という展開。
これだと、空気を決めているのは新聞で言えばデスクや整理部あたり、テレビ・ラジオで言えばディレクターやプロデューサーあたり、といったごく少数で、それらが作った「今、世の中では」という空気を、その他の人々が無自覚に追従する……という図式になってはいまいか?

これと同じことは、先の戦争の最中「一億総○○○」てな具合の狂奔状態に陥ったときにも見られたし、もっと遡って日露戦争講和に纏わる事件などでも同様の傾向が見られた。
情報は高きから低きに流れる水のようなものだというのは堀晃氏の作中にも度々出てきた指摘なのだが、情報の上流にいる一握りの人が作った「空気=公序良俗という幻想」に、なんだかうまいことのせられちまってないか、「だって決まりだから」と決まりの加減を調べずに思考停止してやいないか、という心配に陥ることはしばしばある。

納得した上で、みんながいいといって決めたものに一蓮托生になるのは、それはいい。
よくわからず、みんながいいといったからそれによくわからないまま付いていき、挙げ句の果てによくわからないまま酷い目に遭うっていうのは、なんだか納得いかない。

そんなわけで、僕は今後もうだうだと「よくわかんない。納得いかない」という自分のための考察をでろでろげろげろと折りに付け書くんだろうなあ(´Д`)




ちなみに、「実話怪談」「怖い話」という、僕の本業が扱うジャンルでは、しばしばなんらかの「配慮」が求められる場面がある。
必ずしも公序良俗(国家的秩序や、社会通念に照らし合わせた配慮)ではないが、体験者(話の提供者)がバッシングを受けないよう、ネタ元になる方の情報は徹底して守る、というのがひとつ。でもこれは、公序良俗、じゃないね(^^;)

国家的秩序とかに近そうなものだと、「犠牲者が多く出た大事故・大事件・自然災害などに起因する怪談は、慎重に扱う」というもの。これは、実話怪談の宿命でもあるけど、怪異が起こる=死人が出てる=遺族がいる、遺族の心境に配慮しなければならない、という考えから。
年数が経って事件の記憶が風化したものであれば使えなくもないけど、その事故の記憶がまだ新しいものだったりすると、それに因んだ怪異譚を伺っても、すぐには世に出せないことがある。

昔、御巣鷹山に関連した怪異譚がチームの一人によって取材されてきたことがあるのだが、青焼き*3の直前くらいで御巣鷹山を匂わせるキーワードを削るなどした「遺族への配慮」が行われたことがある。
阪神大震災の現場から寄せられた怪異譚は、最近ようやく出せるようになってきたけれど、JR福知山線脱線事故に関連した怪異譚などは、まだ生々しすぎて当分は無理だろう。このあたり、「まだ出し頃ではない」或いは「社会への配慮*4」という理由で、いつか出せるようになるまでネタ倉庫にしまい込まれてしまう。

その他に出せない系の怪異譚としては、「何らかの権利者による告訴に繋がる恐れがある怪談」など。告訴はともかくとしても、業務に差し障りが出るようなクレーム・抗議など、編集部に類が及ぶ恐れがあるような怪異譚は、それがどんなに凄くても出せない場合がある。これも公序良俗とは少し違って、「それを強行することで、批判を浴びる恐れがある。または損害を受ける恐れがある」というようなものについては、「配慮」という名目で自粛せざるを得ない場合が多々ある。

これらの配慮はいずれも、著者や編集部が何らかの「損害」を受ける恐れがあるから自衛として自発的にそうしているのであって、「そうしてはいない」という条文化された規定があるわけではない。
ただその「自発的な配慮をする=空気を読む」ことによって、「あるけど出せないこと」或いは「存在していても抹殺されること」が出てくる。記録に残らなければ、それは実際にあったとしても「最初からなかったこと」になってしまう。

空気を読むというのは、自衛行為であろうと思う。
それによって抹殺されていく多くのことことと引き替えに、我が身を守る。それが空気を読むということなのかもしれない。




だからこそ、拳王は空気なんか読まないのだ。
そんな拳王の強さに憧れる。

*1:そして、[初音]とカテゴライズしないと初音ミクニュースからリンクされないっぽい気がするのでw、あえて実験してみよう。

*2:「KY」というのは朝日新聞珊瑚事件の通称なのであって、それ以外の意味を付けるのは言葉の解釈の偏向に加担することになるので、あえて使わないw

*3:出版用語で、組版されたものに赤ペンで直しを入れるための校正の、ほぼ最終段階の校正紙のこと。昔のゼロックスコピーのように青いので青焼き。

*4:これも公序良俗とはちょっと違うかも。ただ、恐怖譚・怪談は人の不幸と切り離せない存在でもあるが故に、そうした配慮には十分以上に慎重でなければならない、という気構えはあるかも。