世界を動かすものは

ここ数日のエントリとはまったく関係がない、オープンな独り言wとして。
正義を旗印にした「熱意」から、悪意と呼ばれてしまう「現実」、その正義と悪意、熱意と現実、もっと言えば理想と妥協のせめぎ合いが世界を動かすのだなあ、というような今更なことを今ふと思いついたのだが、これを深めてるゆとりは今ちょっとないので、また後日。一応覚え書きとして、触りのところだけメモ。
正義の反対は悪ではなくてまた別の正義なんだけど、一方の正義に立つ限り自分と違うものは正義ではなく「悪」と定義しないと、自分の正義を維持できないというくらい、正義というのは脆弱なものなのかも。
そして、正義「の味方」として正義に寄りそう限り、人はどこまででも強気に出られる(強くなれる、とは違うw)。あらゆる戦争、あらゆるテロ、あらゆる理念達成のための暴力は、それは「正義」に寄り添ってさえいれば行使できる。原爆投下を担当したボマーたちも、正義の旗印の下にいなかったら、正気を保てなかっただろうしなあ。
が、自分の正義を貫くためには他人の正義を理解してはいけないという矛盾。他人を理解したら負け、或いは他者理解の努力をしなかった側はスタンダードになり、理解する努力をした側・結果的に理解されなかった側はスタンダードにはなれないというのは、理に適っているけど納得いかねぇー、というふうに思ったりもする。
そうやってたくさん聞いて知っていろいろなことを理解するということは、理解しようとしない人の正義に結果的には傅くことであるのかもしれない。
でもそうすると、いつまでも他者理解をせず、自説を曲げず、一歩も譲らずに子供のようにゴネ続ける*1、他者への理解に乏しい、しかし声の大きくねばり強い者が最終勝利者になるってことなんだろか?
戦場の格言みたいなものの中に、「敵の心を理解したら負ける」とかなんとかそういうようなものがあった。敵の正義、だったかもしれない。戦争/戦闘というのは、クラウゼヴィッツ言うところの強力行為(自分の意志を達成するために、意志の疎通が出来ない相手に対して自分の意志を強制する行為)であるわけで、相手の意志を理解して自分の意志を曲げて相手に対する配慮をした時点で、実はなんの理解も配慮もしていない敵を利し、自分の利益を損なうものなのだ、というような話。戦場で武器持った同士がばったり出会って、互いに相手を排除する以外に自分が生存できないという場面で、相手に配慮するってのは自分が死ぬってことだもんなあ。戦争映画なんかではこれまたよくある、ありふれた主題過ぎ。そういう主題が、戦場では理解されるのに、命をやりとりしない戦場の外では案外理解されないあたり、人間は余裕があるときはいくらでも相手に配慮して引き下がっちゃうものなのかもしれぬ。
配慮するゆとりがなくなって、問題の先送りも出来なくなって、モラトリアムの期限が切れたとき初めて、突然暴発したり(日米開戦)、自殺したり(イジメとかで)、キレたり(夫婦喧嘩)、実力行使に出たり(浅間山荘事件)するのかもしれない。
ああなんかもう、くるっとまわっていっかいてんな気分。




今は何やってるのかというと、合計160kb以上(文庫で言うと、260頁相当)に及ぶ膨大なテキストのリライト。〆切はあと二日ですorz
一日で合計30kbのエントリを書いてる場合か、自分!!!


ちくしょう、膝に乗るな猫! トイレに行けぬ!
ぬくぬくするぢゃないか! あったかいよ!
爪が痛いよ!

*1:たとえば六者協議における北朝鮮のような?