椿の花

日曜はでかけていたので、この曲についてはチェックが遅れた。

椿の花 Tsubaki no Hana(デッドボールP)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3046398

一言で言うなら、堕胎の歌。
椿の花は、子宮内から掻爬される嬰児の首を示唆しているのではないか。
だが、これを「エロとグロの歌」と弄じるのは、些か浅い。

もちろん、違う解釈も成り立つだろうから、これが最終正答と断言するつもりはない。今回のデPはかなり直接的表現を使いながらも、別の解釈も不可能ではないといういつもの重層性が感じさせているものの、やっぱ厭怪談屋としての僕は、素直に示唆されたメッセージを読み取りたい。


この歌は救いなどなく、狂おしく、もう何もかもかなぐり捨てたような愛おしさを描いていると思う。
そしてこれは、流行りとしてのヤンデレ、笑いの一要素としての本気ではない【狂気への憧れ】、と見せかけて幸せな結末、救済といったものの全てを拒絶している。
ボーカロイドにゃいと!で見たデPというのもまた彼の一側面を表したものにすぎず*1、それは振る舞っているだけのポーズなのか。それともこうした狂おしい曲を作るデPが本質なのか、Amazonで買いあさった百合小説を網羅読破するだけでこれだけ描けるようになるのだとしたら、やはりそれも才能だよなと思う。
この曲を聴いて、「デPは実は女」とか「デPはギャグではなく本気で狂人」と思いこむ人が出たり、「生理的嫌悪感から落胆する」という人が現れたとしたら、それはデPの勝ちなんじゃないかな、と思った。


デPのこれまでの曲(主に除外曲)の多くは、軽い笑いを孕んだものが少なからずあったし、多くの「ポーズとしてエロを嗜む」ユーザーにネタとして受け入れられたのも、その軽い笑いという救済部分があったからだろう。なんだかんだ言って、ファンタジーとして安心できる部分が多かったと思うし。ハッピーエンドは誰でも歓迎してくれるし。
ただ、ハッピーエンドではない上に、ポーズとしてもギャグとしてもファンタジーとしても、人によってはそれを受け入れがたいテーマというのは確実にある。
そこに自分を重ね合わせて想像することができないもの、逆に想像できてしまうからこそ受け入れられないというものもあるかもしれない。
拙書「極」怖い話で言えば、最終章最終話でご紹介させていただいた実話怪談など、「血塗れも、幽霊も、因縁も、祟りも、それは怪談趣味として消化できるけれど、あれだけはダメだ」という方も少なからずいらっしゃるのではないかと思っているのだけれど、この椿の花という架空のストーリーを描いた曲が持つ生理的嫌悪感を伴う破壊力は、そこに通じるものを少し感じた。
男は血の臭い*2と、男には近寄りがたい母性という狂気*3は、男には恐ろしく思えるだろう。
女は――これは経産婦、未経産婦、堕胎経験の有無で感想は変わってくると思う。純潔と不潔、愛すべきものの優先順位の変更、後悔と確信、などなど。女性の生理的*4な思考の真実について、僕は完全に理解することは難しいので断言はしないけれども、デジタルに善悪正否を判断できない事態に瀕することを狂気と言うなら、これこそが追い詰められてなお昇華しないまま朽ち果てる狂気の歌と言えると思う。


ホラーでも実話怪談でも、このテーマ……生まれる前に自らの意志で我が子を殺してしまうという狂気を扱うことは難しい。実話怪談の類例のひとつに「水子」「水子霊」というものはあるし、ホラーの題材としては、別段珍しいテーマではないけれど、そうならざるを得なかった事情や、それを覚悟した女性自身の心理について深く触れることは、ホラーや実話怪談では意識して避けている。これは、先に挙げた「男は血を生理的に拒絶する、女は(人によっては)男以上に心理的な傷を負いかねない」というリスクを持っているから。だから「水子霊が出ました」という話について、体験者、登場人物の心理の深いところを詳しく書くことは、忌避される。
それこそ、それまでの評価が憎しみと軽蔑に180度転じられてしまうほど難しい。


この歌は、ネタをネタとして玩ぶ人には重すぎ、ネタを真に受ける人には激しすぎ、理解し受け入れたと嘯く人には嘲嬌笑を浴びせかける。
それを歌として出してきたことに、怪談屋として本気でゾッとする。



これまでのデPの曲の中では、「永久に続く五線譜(http://www.nicovideo.jp/watch/sm1647289)」が好きだった。あれは歌ってみた人や音楽を好きだといってやまない人の心をえぐる棘があった。デP、デPと近付いて手を伸ばしたら、いきなり顔の真ん中から縦にふたつに割れ、そこにある無数の牙によって手首ごと持って行かれた、というほどのショッカーであったと思う。歌うということ、音楽が好きだと嘯く自分と対峙させられる恐るべき曲であった。


良い「作品」或いは、良い「訴え」とはなんであろうか、と考える。
小説でも実話怪談でも歌でも映画でもゲームでもなんでもいい。
よく売れることが良いことだとも言える。商業的には正しい。
よく理解される、より多くの人に理解され、支持されることが良いことだとも言える。それも正しい。
もっと良いというのは、それが一代で終わることではなく、連鎖的に他の誰かの意識を励起するものであると思う。それは二次創作やリスペクト、MAD、マッシュアップといった形であることもあるし、歌ならアンサーソングというものもあるかもしれないけれども、大きな労力をもって作られたものが、さらに大きな労力を持って、その多くは自発的に連鎖的に誘爆していく。
ものを作るという作業というのは、自発的な心の爆発があってこそ起こるものだ。技術があっても経験があっても、モチベーションがなければ作れない。モチベーションを他人の心の中に焚きつけて爆発させることができるもの=良い作品であったと言えるのだろうと思う。


そのモチベーションは、常に明るく楽しく嬉しく幸せであるとは限らないし、誰にでも祝福されるテーマばかりとは限らない。
聞いた人間が楽しい劇の観客ではいられなくなる。
自分自身がその架空のストーリーの当事者であるかのような錯覚に引きずり込まれる。
デPとは、本当に恐ろしい作者であると思う。

*1:頭の回転が速くて機転が利き芸達者でサービス精神旺盛で、という人でしたが。

*2:それは主に経血。

*3:それは女であることを上回る。

*4:この場合の「生理」は、月経の意と生理現象の意の双方を孕む。