模倣犯を防止するには死刑が必要

完全な防止については、犯罪の手口+犯罪に「走らざるを得なかった理由」のような物言いで犯人に口実を与えるような報道を根絶することが第一なのだが、犯人がはっきりとわかっている犯罪であるほど、「犯人を動かした真犯人捜し」をやめられないものであるらしい。犯人が分かっているが故に、犯人捜しの楽しみがない退屈が、マスコミをセンセーショナルな誌面作りに走らせ、それを飾り立てる副産物として模倣犯が生み出される。
模倣犯は、模倣犯にとっての英雄を真似るのだ。


英雄を褒め称えると、誰もが英雄になりたいと思って、褒められた英雄と同じ行動を取ろうとする。英雄を模倣することで「英雄的行動」を取る、二次的な英雄の量産に繋がる。
それが良い行いであれば、この方法はプロパガンダとしては悪くないのだろうけど、最初の英雄的行動が「偶然成功した危険な行為」であったりした場合、英雄になろうとした二次的英雄の多くは、模倣しようとした行為を失敗し、「英雄を真似た悲惨な失敗」を量産することになる。
英雄と称賛された者が、絶対に失敗も危険もなく確実な方法をノウハウとして公開しているのでない限り、安易に英雄を真似ることは危険である。それは、量産される英雄を模倣した失敗者の失敗そのものが広く報じられることで、「英雄の真似は危険」という認識が広まる。
ここから、模倣犯を抑止するには、「行為の失敗例」を強調して報じることにあると思う。
硫化水素自殺については、「実際には楽に死ねない。相当苦しむ」など、失敗例(というより、知られていない現実)が少しずつ報じられるようになった。楽に死ねないならその方法を選びたいとは思わない。
これと同じように、犯罪の成功を報じるのではなく、失敗を報じるべきだ。


犯罪の犯人は英雄ではない。
唾棄すべき存在であり、どのような生活環境・生育環境にあったのであろうと、そして心神衰弱であったのだとしても、その行為に至った当人を擁護する、もしくは「仕方がない事情があった」という口実を与えてはいけない。
さらに言えば、犯人を「腐敗した社会や困窮、体制に殉じた英雄」のように扱ってはいけない。
そのように扱い、犯人を突き動かした別の怪物、真犯人がいるかのように報じることで、「自分も同様の仕方ない口実を持った英雄になろう」と考える模倣犯を生むことになる。


「秋葉の真似? 二番煎じか」
「二番目って目立てないよ」
「生い立ちから何から、全部痛い報道をされる」
模倣犯を怯ませ、喜んで真似をさせないためには、最初の犯罪者と模倣犯について「みっともない」「恥ずかしい」「馬鹿じゃね?」と蔑まれるような蔑視的報道をしたほうが効果があるのではないかとすら思う。
報道の自由をたてに、センセーショナルな報道をしようという本能は決して収まらないのだろうから、むしろそれを模倣犯の防止に活用すべきだ。


「あれだけやれば死刑は確定。ほらなった。ほら執行された」


これは、死刑論と繋がってくる話なのだけど、大量殺人犯罪の抑止のためには、やはり死刑は必要だと思う。


僕は死刑存置論者(死刑存続賛成)なのだが、現状の死刑制度には若干の不備があるとは思っている。
死刑の意義は、
「矯正の余地がなく、社会に放つと再犯の恐れがあり、社会の脅威になる可能性があるため、犯罪者の存在そのものを排除する」
ために行われるのと同時に、
「類似犯罪を志す可能性がある潜在的な犯罪者に対して、それを思い留まらせる威嚇」
のためにあるとされている。
どちらも意義があると思う。
死刑廃止論者は前者については矯正の機会を拙速に奪うものと言い、後者については威嚇効果が薄いという。
ここでは、後者について少し論じる。


現状の死刑というのは、死刑判決が確定してから6ヵ月以内に刑を執行するように定められているのだという*1
ところが、現実には刑の確定の後、なかなか刑が執行されない。
法務大臣の刑執行の署名が必要であるからなのだが、「人を殺すことに認可を与える」という役はやはり大変重いものであるわけで、人殺し大臣だの死に神だのと言われたくはないから、宗教・信仰その他を理由に執行の署名を棚上げにしてしまうことが常態化してきた。
犯罪者であっても人命の剥奪に関わることであるわけで、慎重というより逃げ腰にならざるを得ない気持ちも、理解できないではない。
また、死刑廃止論が喧しくなれば、矢面にも立たされる。面倒を嫌って先延ばしにすれば、死刑廃止論者の矢面には立たされずに済む。そういう側面もあったとは思う。


また、死刑は非公開で行われる。
死刑執行された死刑囚の名前が注目されるようになったのは鳩山法相になってからで、それ以前は死刑が執行されてもあまり注目もされず話題にもならなかった。
ここに問題がある。
死刑は公開すべき、というのは少々極論かもしれないが、死刑は秘匿してしまっては威嚇効果を持たない。
死刑が現実から遠ざけられすぎては、死刑を恐ろしく感じることができない。
死刑は、死ぬのである。死なされてしまうのである。極刑の名の通り、日本で採用されている刑罰の中でもっとも重いものである。その事実が伝わらなければ、極刑という「心理的重し」は効果を十分に発揮しない。


これまで、死刑囚の多くは刑の確定から8年くらい経ってから刑が執行されてきたという。その刑が確定するのに、地裁、高裁、最高裁、と積み上げられていって、罪状によっては数十年を要するものもある。20年掛かって死刑が確定して、なお8年は生きている。
そして、死刑が執行されたことも大きく報じられず、さらに言えば20年も30年も前の犯罪の犯人が死刑になっても、それでは類似犯への威嚇効果は薄い。
事件の記憶が薄れ、世代が二巡も交替した後では、若い潜在的模倣犯を踏みとどまらせる効果には繋がりにくい。


僕は死刑存置論者である。
判決が出るまでに数十年を要する現行の裁判制度も十分とは言えないけれども、死刑が確定したらその記憶が冷めないうちに刑が執行されるべきだと思う。
死刑判決は若干のセンセーションを伴い、マスコミは「死刑囚の事件をおさらい」する。これによって、時間経過による事件の風化があっても、「これから死ぬことになる死刑囚が何をやったか」を、若い世代が知る機会にはなる。マスコミのセンセーション欲も満足しよう。同時に、過去の犯罪の手口や動機その他をおさらいすることになる。
以前(このエントリーの冒頭でも)手口や擁護的口実を報じるのは良くないとしているが、「そういうことをやった犯人は死刑判決を受け、そして死刑はすぐに執行された」ということになるなら話は別だ。
死刑に威嚇効果を期待するというのは、これは「躾」と同じことだと思う。
「こういうことをやったら、こういう目に遭うよ」
民話、訓話ではそういう話の組み立てになっている。因果応報を教えるのである。僕が生業としている怪談も、そうした要素を強く持っている。心霊スポットで大暴れすりゃ、祟られて酷い目に遭うのは当然なのである。
その「こういう目」というのが、想像できない人が増えている。故に、死刑の恐怖を知らない模倣犯が、類似犯罪を起こす。


死刑は本当に存在しているのか?
死刑は本当に行われているのか?
死刑判決が出ても、実は死刑はされないのではないか?
人間というのはどこまでも限りなく自分に都合のいいことを、自分に都合良く期待してしまう生き物だ。
死刑判決のあと死刑囚の消息について音沙汰なくなり、死刑囚も事件もまるで最初からなかったことのように忘れられてしまう。
そのせいで、死刑なんてファンタジーとしか想像できない、想像力の欠如した模倣犯が、同じ間違いを起こす。


死刑に値する犯罪を起こした者は、死刑になる。
死刑は、判決から間をおかずに執行される。
そして死刑は確実に行われている。
このことを徹底周知しなければ、威嚇効果は不十分だと思う。


死刑判決が確定している死刑囚の死刑を執行することが、国民の幸せにならないという国会議員がいるそうなのだが、法律をねじ曲げて死刑囚を存命させることに掛かる、「死刑囚を生かすために掛かるコスト」を、彼等が負担してくれるわけでもない。
死刑は国民を幸せにするものではないかもしれないが、国民がこれ以上不幸になることを未然に防ぐものであることは間違いない。


僕は死刑存置論者である。
確定した死刑はこれからも執行されるべきである。
できるだけ速やかに、そして大々的に。
死刑は存在し、死刑は恐ろしいものだということを、想像力のない模倣犯に知らしめ、怯ませるために。

*1:受刑者が妊娠中の場合と再審請求中は例外