思い出話、第一期編

これまでの「超」怖い話のあとがきや、さぼり記のエントリなんかで、何度となく触れてきた話なので、「またそれか」とお思いの方もいるかも。
が、望んでたわけでもないけど結果的に「超」怖い話の生き字引になってしまった老兵の昔語りってことで、これからを担う世代のためにも少しずつ書き残しておかないとなと思う。
アウトラインについては、公式ホームページへのまとめや、あちこちで言い散らしたことを親切にもWikipediaにまとめてくださった方々のご協力のおかげでだいぶ残ってるとは思うけど、裏話的な話まで記録になってるわけではないので(^^;)
まあ、何分にも20年近く前あたりから話がスタートするので、うろ覚えになってるとこもあるかもしれない。それは割り引いてよろしくお願いしますということで。


樋口明雄さんと僕は同じ会社の先輩後輩みたいな感じで、僕はまだ駆け出しのペーペーであった。当時の樋口さんは、確かBe-PALだったかの雑誌編集者を経てフリーに、僕が入社した編プロに机をもらって、所属ライターみたいな位置づけだったかと思う。
当時は、ファミコン*1の最盛期でもあって、ファミコンの設定&ストーリーを翻案してオリジナルストーリーにしたゲームブックというものや、今で言うゲーム小説/ノベライゼーション*2のようなものの需要が多くあった。
僕らのいた会社は双葉社実業之日本社バンダイ勁文社などでゲーム攻略本やゲームブックを委託制作していた。勁文社ではいわゆる大百科シリーズ*3の枠で攻略本作ったり、ゲームブック*4を作ったりしていて、わりと往来の多い会社だった。
安藤薫平さん、蜂巣敦さんは、この当時いた会社の社長の大学の後輩で、この会社では主にゲーム攻略本を作っていた。*5


さて、そもそもの「超」怖い話は、安藤さん、樋口さん、蜂巣さん、僕、の4人で始まった。1991年。新☆耳☆袋(扶桑社版)がその前年の発売だったと思う。
安藤さんが結構見る人で、という話で、安藤さん、樋口さん、勁文社の女性編集者のTさんが盛り上がったとかで、「それやりましょうやりましょう」と流れていって、話が決まったらしい。「超」怖い話のタイトルは、まだその一切が仮だった頃に、初代担当のTさんが台割や企画書に「超怖い話」と書かれていたのが、そのまま正式タイトルになってしまったため。この、「適当に決めた通称の仮タイトル」が、結局時間切れでそのまま正式タイトルになっちゃうというのは、その後もしばしば起きた。気をつけないとヤバイ話だw


その頃の僕は、樋口さんの後輩で弟子で弟分で、みたいな感じで、まあわりと樋口さんの後をうろちょろとくっついて歩いていたような記憶がある。樋口さんからはしばしば「男とは!」というような感じで、その後の冒険小説家・樋口明雄の片鱗を窺わせるダンディズムの薫陶を受けていて、中野界隈の飲み屋なんかに連れていって貰ったり、酒の飲み方を教えて貰ったり、というような感じだった。
で、樋口さんが怪談本をやるんだが、という話になったとき「ハジメ、君も何かあったよな?」というようなことを聞かれた。当時住んでいたアパート*6が、怪現象頻発だったのと、「花札テレポート」とか「カーネルサンダース人形」とかの不可思議で愉快な体験をする友人知人が多かったことなどから、「ありますあります」と手を挙げた。
91年、92年と出た初期の「超」怖い話が、今のようなガチ怖よりも不思議・奇妙な話が多かったように見えたとしたら、たぶん僕の当時の持ちネタの傾向がそれだったから、ということかもしれない。
でもこれは僕だけの話でもなくて、樋口さんの当時の持ちネタもガチ怖というよりも「なんだか変な話」というのが多かった。名作「マンホールモグラ叩き男」とかの、おかしみを通り越してなんのコントだ! というような話も樋口さんの手によるもので、そういう「心霊落語=思考停止系バカ怪談」の草分けは樋口さんじゃないかな、と僕は今も思っているw


その頃の怪談本というのは、ある意味で昔ながらの怪談本がまだまだ多かった。言うなれば、体験者が死んじゃうような話とか。また、怪談は後日談があったり、因縁がはっきりわかっていたりといった、きちんとしたオチがなければいけないというものが、まだまだ多数を占めていた。
その中にあって前年に出た新耳袋を樋口さんか誰かが、「超」怖い話開始前の打ち合わせの席に持ってきて、「オチはなくても大丈夫、という前例が出た」というようなことを話していた。投げっぱなしでもいいっていうのは、凄く新鮮だった。
結局、「超」怖い話新耳袋とはまた別の道を進んでいくことになるわけなんだけど、その草創期にあってはまだ世間的にまったく注目されていなかった*7新耳袋の存在と、それをめざとくも見つけてきた樋口さんという偶然がなかったら、「超」怖い話はもう少し違った本になっていたかもしれない。
僕も「新☆耳☆袋」には随分と衝撃を受けた。というか、凄く綺麗なデザインの本だったように覚えている。それまでの怪談本というのは、子供向けのゴテゴテしてもっさりした本が多く、怖がらせてやろう! というような狙いがあからさまなものばかりだったから、あのスタイリッシュなレイアウトは綺麗だなあ、と思った。
もっとも、その新耳袋的なスタイリッシュなレイアウト、というのは「超」怖い話には反映されなかったw 最初の「超」怖い話と、続刊となる「超」怖い話*8は新書版だったため。一品モノの単行本として刊行された新☆耳☆袋と比べ、いろいろと制約も多かったのだと思う。


今でこそ「御祓い? それ美味しい?」という状態の「超」怖い話なのだが、この頃はまだマジメに御祓いに行っていた。勁文社からは「御祓い経費」がきちんと計上されていて、勁文社最寄りの妙法寺に御祓いにいった。*9
勁文社は元々怪談本の他に心霊写真や占い*10の本を扱っていたり、この分野の草分けの一人でもあった宜保愛子さんの本などを出していた出版社だから、ということなのかと思っていたのだが、後で聞いたら「社屋に出たから」ということだったらしい。
なんか、残業中に誰もいない階から内線が入ったり、帰ろうと思ってエレベーターのボタンを押しても上がってこないので、おかしいなと思って階段で下りていったら、エレベーターの箱が一階でドア全開・照明全点灯状態で、暗い無人のフロアを煌々と照らしていたり……というようなことが頻発して、怖くなってしまった、ということだった。

ただ、そのうちに他の怪談本を兼務していた編集さんが「僕は○○○の本のほうで御祓いを済ませてきたばかりなので、皆さんで行っておいてください」てな感じで、御祓いの引率をしなくなった。
そうなったらなったで、生真面目に集まって御祓いに行くというのが面倒になってきたり、神田明神はイヤだと言ってみたり*11、それぞれが「いやあ忙しくて」「じゃあ、銘々各自で済ませるってことで」なんてことを言い出して、結果的になし崩しに行かなくなってしまったのであった。


「超」怖い話第一巻は1990年には少なくとも準備が始まっていて、スタイルやら内容やらを詰めながら年を越し、1991年の2〜3月頃に本当にやることが確定し、1991年5月頃に校正、1991年6月頃に見本ができてたんじゃなかったかな、たぶん。
当時は、まだ書籍では手書き原稿の入稿も珍しくなく、というかそちらがまだまだ主流で、テキストファイルを入稿するスタイルの進行というのは非常に珍しかったのだが、「超」怖い話に限っては最初の一冊目から既にデータ入稿だった。
と言っても、今のように「DTPソフトで本文レイアウトまで全て作ったものを、.indd&.pdfファイルで納品」というような段階にはまったく達していなくてw、初期の一太郎(PC9801版の、俗に三太郎と呼ばれていた一太郎Ver.3など)で本文を全部作り、テキストデータだけを入校する、という方式だった。今それをDTPと言ったら、図書印刷から刺客が来ると思うんだけど、当時はそういう状態での入稿であっても「電算入稿」「DTP入稿」と呼ばれていた。
この方式は、当時務めていた会社がゲームブックの作成のために導入しつつあったやり方を踏襲したもので、複数の執筆者がばらばらに書いた原稿を、印刷所に入稿する前に(もっと言えば出版社の編集さんに渡す前に)ひとつの塊にまで持って行ってしまえるということで、著者側で編集作業をしていた僕としては非常に都合が良かった。
「超」怖い話は一貫して「著者の一人(=僕)が、内容の編集を一任されて作業する」という方式を取り続けているけれども、そのやり方の原点は第一巻の頃から既に始まっていたということになる。


そうして、新書版「超」怖い話(無印版)は無事刊行。
これは、ちょっとだけどうでもいいw話なのだが、この年、僕は確か最初の結婚をしたと思う。が、結婚直前の頃は、とにかく貧乏のどん底で、もうどうにもならないほど貧乏だったなあ、と。口座は常にマイナスで、あと5000円しか引き出せないんだけど、今日引き出さないと明日は水道代が落ちて、もう一円も引き出せなくなるぞ、みたいな。水道代をブッチして、俺が先に下ろすわ! みたいな。
この新書版「超」怖い話の印税(原稿料と編集費)が振り込まれなかったら、多分僕は結婚早々オケラという大変な状態に陥るところだった。
そういうこともあって、僕は「超」怖い話に大きな借りを作るところから、怪談人生が始まってしまったのではないか、というような気がしなくもない。


個人的には「超」怖い話第一期というのは、安藤さんが手がけられた最初の一巻についてのみ使われるのが正しいと思っている。
「超」怖い話について、第一期、第二期というような公式の区分けは実はなく、安藤さんも樋口さんも、自分達が抜けた後のことについて第何期のような言い方は一切されていないからだ。数字の区分けは、まあ僕の個人的な整理のためみたいなものということでご了解いただきたいかも。


その翌年、「またやりましょうよ」という話が出てくるのだが、安藤さんは「僕はもう自分の話を語り尽くしたし、僕はもういいよ」というような形で辞退される。
そこで、まだまだネタがあるという樋口さん、僕、新メンバーの添田さんを加えて、「超」怖い話2が動き始めることになるのだった。


ところで、安藤さんはその頃確か、「お化けの話はもうないけど、聞き集めた奇妙な話ならある」と、少し毛色の変わった話をしてくれたことがあった。
なんか、友人だか知人だかが行方不明になっちゃって、心当たりの女の家に乗り込んでいってみると、行方不明のハズの男が鎖で壁に繋がれてる。で、監禁されてるんだ、大変だ、と思ってそいつの鎖を解いて解放しようとすると、「いや、いいんだ。俺はここでいいんだ」といって帰ろうとしない。そうこうしてるうちに、探しにいった奴も帰ってこなくなって、別の奴が探しに行ったら、二人で並んで壁に鎖で繋がれていて「いや、いいんだ。俺たちはここでいいんだ」と言って帰ろうとしない。「な? 変だろ?」というようなお話だったと、うろ覚えながら記憶している。
で、当時は幽霊出てこないけど変な話だなーと思っていたんだけど、夢明さんの東京伝説(角川春樹事務所版)を初めて読んだときに、「安藤さんが進もうとしてたのは、これだったのかあ!」と合点した。安藤さんは早すぎ、夢明さんは安藤さんの見た世界とほぼ同じものを恐らく互いにそうとは知らずに形にしていたわけで、シンクロニシティというかなんというか……。このへんは偶然の一致の範疇だと思うけれども、そうであるが故に、(´Д`)世界にはやなものがいっぱいだな、とか思ったのだった。




――思い出話、第二期編へ続く。

*1:スーパーが付かないほうの

*2:樋口さんのデビュー作と言われるルパン三世の小説もこの流れのもの。この当時、飯野文彦氏も小説版・カリオストロの城を刊行している

*3:僕の編集者としてのデビュー作は「エアーソフトガン2大百科」というエアガン本だったのだが、この本は青木邦夫十六夜清心)氏、内藤泰弘氏の商業デビュー作でもあった。豆知識。

*4:勁文社/双葉社ゲームブックは上原尚子氏も書いていた

*5:かなりどうでもいい大余談だが、当時の安藤さんはハイトニのワタナベ君とよく似てる。顔が。

*6:現在も一応事務所となっていて有袋類の巣でもあるw

*7:実際、新耳袋が現在のような伝説を打ち立てることになるのは、1998年にメディアファクトリーで奇蹟の復活を遂げた後のことで、扶桑社版は長いこと忘れられていた。

*8:文庫版では続「超」怖い話と改題

*9:ただし、仕事がほぼ終わってからw 今思えば、終わってから行ったんじゃ意味ないんじゃあ、というか。

*10:といってもDr.コパ的なものではなくて、易占術の類の専門的な

*11:これは僕のことで、神田明神はその名の通り将門さんの身体を鎮めている場所とされているのだが、将門さんを謀殺したのは藤原氏であるわけで、嘘か誠か一応藤原姓の眷属となる僕の先祖筋となる。申し訳ないというか気まずいというか。