思い出話、第二期編

こういうのって、覚えてるうちに書いておかないと忘れるからなあ(^^;)
僕にとっての「超」怖い話は、17年間ずーっと続きっぱなし*1の現場であるわけで、覚えてる&メモやメールやそういうのが残ってて参照できるうちに書かないと。
それとモチベーションが続いてるうちに片付けておかないとね。うん。


さて。第二期。
繰り返すけれども、「超」怖い話歴代編著者から「第○期」という言い方が出たことはない。あくまで、「いつも残される僕」から見て、それぞれの象徴的な時期を区分けしたもの、ということで。
第二期についてどこまでとしたものかというところなのだが、樋口さんが「超」怖い話を引き継いだ「超」怖い話2/続「超」怖い話から、勁文社時代の終わりまでとするか、樋口さんが引退した新「超」怖い話7までとするか、最初の死を迎える新「超」怖い話8までとするか。この線引きは難しい。そこで、ここでは著者が代替わりするごとに、というルールで分けてみたい。
だから、第二期は「超」怖い話2/続「超」怖い話から新「超」怖い話7まで。


安藤さんの卒業というかリタイアを経て、第二巻からは樋口さんが編著者になった。この編著者交替は特に問題もなくスムーズに引き継がれていたと思う。樋口さんはやる気満々だったし、第一巻で「怖くはないけど変な話」を書いてもいいということに味をしめたw僕にもまだネタのストックがいっぱいあった。


「超」怖い話チームというのは、普段からいつも顔つき合わせているわけでもなくて、一年間はそれぞれの仕事や普段の仕事などを別々にやっている。そして、1月の終わりくらいになると「そろそろ今年もやりますかー」と勁文社から声がかかり、「それじゃあ始めますかー」とばかりにこれに掛かりきりになる。この頃には僕は完全に独立してフリーになっていたので、この顔ぶれで顔合わせというのは結構楽しくもあった。
打ち合わせと称して行われるのは、どんなネタを取材できたか、それまでの一年間の成果発表みたいな感じで、ある意味本編より濃厚な怪談会であった。僕は話し下手ななのでそれほどでもないのだけど、面白い話を書ける人というのは、同時に面白い語り部でもあるわけで、かいつまんで要点だけを話しているはずなのに、それがなんともゾクゾクして怖い。僕は怖い話はどちらかというと苦手というのは今も昔も変わらず、その当時も「凄く好き」だったわけではないんだけど、この怪談会的な性格の打ち合わせは、なんだか凄く楽しみだった。


第一巻の評判を受けての第二巻は、のべ57話が収録されている。
このうち、僕一人で書いた分が24話、この巻だけ参加の添田さんが12話、樋口さんが21話。実はこの巻に限れば、僕は樋口さんよりもさらに多くの話を書いていたことになる。入ってる話を見ても、怖い話より不思議な話が圧倒的に多かった。樋口さんの話も「東京迷走奇譚」「踊る爺さん」を含め奇妙系と怖系がいい具合に入り交じっていた。
古くからの「超」怖い話読者(つまり、ジャンキーという言葉ができる前からのフリーク)の間で言われる「なんだか変な話が多かった「超」怖い話」というのは、この巻あたりのイメージなのではないかと思われる。この巻では、添田さんの原稿の推敲も手伝わせていただくことになり、「他人様の原稿に大幅に手直しをする」という経験を積ませていただくことになった。
これは編集者としてのステップアップというか成長のためには、たいへん勉強になったのと同時に、他人の原稿に手を入れることの難しさも学んだ。が、自分の原稿を後々自分で推敲してみると、なかなか思い切った推敲ができないことに気付いた。改めて他の編集さんに自分の原稿を委ねて、大鉈を振るって貰って、それからまたそれを「見ながら新しいのをイチから書く」と、見違えるほど良くなったりもする。ああ、なるほど、というか、外からの視点というのは必要なんだなあ、ということを改めて知ることができたという意味では大きな意味があった。
編集者はライターや作家さんの原稿にどんな権限で手を入れるんだ! と思われる方もいるかもしれないけど、編集者が直したものをそのまま屈しなきゃいけないということじゃなくて、自分で自分の書いた原稿を見つめ直すためには、自分じゃなくて他人によるスクラップが必要であり、編集者っていうのはそういうことをするための破壊装置でもある、という位置づけで捉えるといいんじゃないかと思う。
これ以降、僕はわりと大鉈を振るえるようになった。編集者として大きな収穫だった。


話は戻って第三巻。
「超」怖い話から、勁文社「超」怖い話は文庫になった。
このとき、旧刊2冊も文庫化されて、フェアで一緒に売ろうという話になった。ところが文庫は新書より収録可能なページ数が少なくなるため、これのために「あまり怖くなくなってしまった話を削ろう」ということになった。
結果、削られた6話のうち、5話が僕の書いたもので、これは大変凹んだorz のだけど……確かに書いた当時は怖くて、また50話選ぶのに300話を没にするという超難関のネタ会議を突破して採用されたのは確かだったんだけど、二巻経験してみるとなんだかあまり怖くなくなってた。
書き方に怖さが足りなかったのか、もしくは「物足りない」と思うようになったのかはわからない。でも、「恐怖感ってのは麻痺するんだな」というのを自覚したのは多分このときだったと思う。
もし、今あのときに没になったネタを今の筆で書いたら、もっと怖く書けるかもしれないし、案外そうでもないかもしれない。これは試したことないからわからないけど。


さて、この第三巻の最大のトピックは夢明さんの参加。
樋口さんが確か小林弘利さんに「おもしろい人がいるよ」と紹介されて、取材にいったら「話がおもしろいんで、書いてもらうことになった」というのは、夢明さんが0・∞・M他で書かれている通り。
僕の第一印象は、「なんて愉快な人なんだ」という感じで、気さくで底抜けに明るい人であった。非常に気を使いすぎるほど気を使う人で、絶えずあちこちに目を配っているような印象があった。怪談を書くのは初めてということで、この時点までに出来つつあった樋口さんのスタイル*2を踏襲しつつ、とにかく書くだけ書いてもらい、入稿までに推敲を別個進行して、著者校でチェックしてもらうという形での参加となった。
前巻の添田さんの原稿に手を入れる経験を積んでいなかったら、たぶん遠慮して他人の原稿に手を入れるなんてできなかったと思うのだが、樋口風に整理していくという作業の必要から、ちょっと手を入れたりとかしますよ、と断りを入れてみたところ、夢明さんは「いいよいいよ、どんどんやってよ」と快諾して下さった。
ライター・作家を問わず自分の原稿を大切にしている人も多い世界なので、こういうことをそう易々とは言えないものだと思うのだけど、夢明さんのこの一言で肩の荷が下りたというか、編集者として腕を振るうことに対する遠慮が消えた。
「超」怖い話の全ての原稿のデータ*3は、全て二重三重のバックアップを作ってあって、その頃のものも草稿と入稿時点のものの双方が手元に残っているのだけど、これはもう墓場まで持っていく僕の宝物と決めている。墓場に持っていく以前に、このデータのストック癖、早贄根性wは樋口さん、安藤さんの0・∞・†といった「超」怖い話クラシックなどの再録編を作るときに「マスターデータ」として役に立った(多分)と思うので、無駄ではなかったと思う。
環境が変わるたびにHDDを乗り継ぎ、PD、MO、CD-R、DVD-Rといろいろなメディアに焼き変え焼き変えして、万一に備えているのだけど、万一はあんまり来そうになく、どれが最新版だかわからないデータの山に埋もれている(^^;) どれを墓場に持っていったらいいんだ(笑)


データ話と言えば。
僕や樋口さんは早い段階でパソコン通信を仕事に導入していたので、「超」怖い話の原稿は「電子メールで」「専用のボードを作ってそこに貼り付けて」といった感じで、今のインターネットを介した仕事のスタイルの原型は既に出来ていて、PC9801の一太郎あたりで書かれた*4ものをデータとしてやりとりしていた。
夢明さんは確か最初の頃はワープロで執筆をされていた。で、書き上がった原稿を「今から送るから!」と、FAXで送って下さったことがあった。文庫の原稿を、ロール紙のFAXに送るというのは、これは送る方も相当大変な手間だっただろうと思う。分量にして、50枚は下らない量の紙束をFAXにねじ込み続けるわけで、電話代は凄いことになるだろうし、手差しの家庭用FAXの場合は、ソーターなどがなければいっぺんに数頁ずつしか入れられないわけで、ずっとそこに貼りついていなければならない。今とは手間の頻度が全然違う。
じゃあ受け取るほうは楽なのかというとそうでもなかった。
当時は普通紙ではなくロール感熱紙だったわけで、受信そのものはべろべろべろべろとFAXが勝手にやってくれたわけなのだが……「超」怖い話は当時既にデータ入稿を旨としていた。
つまり、その大量のFAX出力を、もう一度打ち込み直さなければならなかったのであるw
天竺から持ち帰ってきたお経か、城に忍び込んで奪った密書か、と見間違うばかりの、恵方巻きみたいに太い出力済みFAXロール紙を伸ばして、ページごとに切り開いて、それを手の空いてる人間を人海戦術で投入して片っ端から入力したわけだ。今思えば、あれはデータディスクを持ってきて貰って、事務所のパソコンでフォーマットコンバートしたほうが早かったんじゃないかという気がしなくもないのだが*5、それもこれも草創期のどたばたということで。


話は戻って、三巻(新「超」怖い話)。
夢明さんの参加で、「超」怖い話は樋口さんの麗しい王道怪談、夢明さんのドぎつい怪談のツートップになった。僕はといえば、続でネタをほとんど吐き出していたのと、夢明さんの参加でゆとりができたのとで、楽隠居をw 実は、新「超」怖い話では、1本しか書いてないのだ。
僕は新「超」怖い話2以降は、年に数話ずつ掘り出し物を書かせてもらって、後はどちらかというと編集に専念していたのだが、このエントリを書くために久々に「超」怖い話データベース(既刊全てのタイトルと著者名、掲載巻、掲載頁などをメモった秘蔵品w)をひっくり返してチェックしてみたところ、次のようなことがわかった。
樋口さんと夢明さんがツートップを務めた、樋口編著時代の「超」怖い話は、新「超」怖い話〜新「超」怖い話7までののべ6巻に及ぶ*6のだが、そのうち樋口さんのほうが多かった巻は、新「超」怖い話と新「超」怖い話6の2巻のみで、新「超」怖い話2、3、5、7は夢明さんの執筆分のほうが多かった。*7


思えば、この第二期というのは「超」怖い話の最初の黄金時代だったのだなあ、と思う。樋口イズムと平山イズムの双方があり、また、夢明さんの書く度に進化していくという過程も見られた。生々しく荒々しい筆致の良さと、それがこなれて熟成し、書きたいことを書くのに躊躇しないという一種ゆとりのようなものが出てきたのと。夢明さんがSINKERなど今の平山作品の源流となる伝説的小説作品を手がけ始めていた頃とも重なるわけなのだが、世間はまだ平山夢明を見出してはいなかった。
つまりその意味では、「埋もれた黄金の卵が年々成長していく様」を間近に見せて貰ったということでもあるわけで、誠に役得だった。


ところで、「超」怖い話の第二期、実は僕はあんまりたくさん書いていない。
この理由は色々あって、ひとつには夢明さんの参加によって安定供給wされるようになったから、というのももちろんある。
が、ぶっちゃければ、第一期の第一巻で19話、第二期の第二巻(続「超」怖い話)で24話、合わせて43話を書かせていただいた。無印「超」怖い話と続「超」怖い話、新書版はそれぞれ57話ずつ、2巻合わせて114話あったわけなのだが、そのうちの43話も書いてるわけで、そりゃー、そんだけ一気に書き下ろせばネタもなくなるわな、というw
また、第二期の前半には独立系、要するにフリーランスになっていて、ネット関連のお仕事に従事し、第二期の中期以降は角川書店内部に入って雑誌編集部で仕事をするようになっていた。雑誌は季刊誌と月刊誌を担当させていただいたが、月刊誌の仕事というのはそれはもうめまぐるしく、なんというかおうちに帰れない系の仕事であった。この中にあって、年に一度の「超」怖い話の仕事に関わっていたこともあって、第二期の中期からの執筆数が激減していた。これは第三期の中頃くらいまで続いた。第三期の後期から第四期にかけてはまたネタの数が増え始め*8、彼岸都市あたりの頃になると、またそこそこ書いているのだが、この第二期、三巻目あたりはほんとに赤い玉が出ていた感じだった。


そして、新「超」怖い話7。
今、これまた久々に新「超」怖い話7を見返してみた。樋口さんのまえがき、小林弘利さんの解説。どこにも「これっきりで卒業します」とも「引退します」とも、匂わせるような気配はない。前書きには「お化けが好き」「闇が好き」とあり、これからも実話怪談の語り部であろうと思う、という誓いまで添えている。
が、この巻を以て樋口さんの「超」怖い話、第二期は終わりを告げることになる。


本来なら編著者の交替をもってして区切りとすべきだが、なぜかこの新7は樋口さんの区切りではあるけれど、「超」怖い話の区切りという気があまりしなかった。これは昔からそうだった。
なぜか。当時、樋口さんのリタイアは、新7の後ではなくて新8の前に宣言されたものだったように覚えている。それも、樋口さんから通知されたわけではなくて、勁文社の編集さんに呼ばれて相談されたんだったような。これは安藤さんのときもそうで、辞めるという意志決定を代々の編著者は相談せずに決めている。相談されれば僕らは引き留めていただろうと思う。安藤さんの怖い話は求められていたと思うし、あの頃の夢明さんや僕は樋口さんがとりまとめ役をしてくれていたから、安心してこのシリーズに関わっていられたとも思う。
が、樋口さんは悩まれた末に、リタイアを宣言された。
その後の樋口さんは、光の山脈など冒険小説の世界で活躍されているのはご存じの通り。安藤さんは一冊で身を引いたが、樋口さんも実はどこかで身を引くきっかけを探し続けていたのかもしれないなあ、と思わなくもない。本人の声は「超」怖い話クラシック・0・∞などで窺い知ることができるので、本稿ではあくまで「その当時、僕から見た「超」怖い話」という視点にこだわって先を進めたい。


樋口さんのリタイアについて、その頃はいろいろ理由を聞いたような気がする。谷川岳で怪我をされて遭難しかけたから、とか。家族ができたから、とか。
そりゃそうだ。家族に実害が出る、迷惑が掛かることを考えたら、こんなことやってられないという、そういう気持ちになっていたとしてもおかしくないし、そう言われたらやはり僕らは引き留められなかっただろうと思う。ドブ川で小銭を攫っていて、ドブに流されて死ぬのは当人の勝手だけど、ドブにはまって死にました、なんてことを知らされる家族はたまったものじゃない。
あのときの理由が本心だったかどうか、本当は別の理由があったのか、その頃はわからなかった。
そして、僕らはそれどころではなかった。編集担当だった僕としては、「超」怖い話をどうする? ということで精神的にいっぱいいっぱいだったのだと思う。また、この頃の僕は「超」怖い話角川書店TRPG雑誌の副編やPC雑誌の編集などを掛け持ちしていて、いろいろな意味でいっぱいいっぱいだった。
樋口さんのリタイア、勁文社「超」怖い話を続けたい、さあ、どうする?




そんな感じで、第二期は混乱を抱えたまま第三期へ。

*1:途中、二度死んでますが、その話はまた後で。

*2:最初に、「何をしている○○○さんの話」という一行を挿入することで、短い中で前提になる設定の説明を済ませてしまおうというやり方は、個々までに既に出来上がっていた。

*3:テキストデータその他

*4:僕はこの頃既に、VZ Etitorを使っていた。DOS/VからWindowsに移った後はWZ Etitorに代わり、結局今もWZ1.0を使っている。

*5:実際、次からは勘弁してということになって、FAXでというのはその1回キリだった気がする。

*6:4は死に通じるのでゲンを担いで飛ばされた。

*7:僕は間に挟まってほそぼそこっそり書いてましたw

*8:というか、出す先がないのでどんどん溜まっていったorz