思い出話、第三期編

そして激動の第三期w
ここでは、編著者が夢明さんに交替した新「超」怖い話8から、勁文社版最終巻「超」怖い話 彼岸都市までを第三期としたいと思う。やはり勁文社の倒産は大きなトピックだったと思うので。


樋口さんのリタイアを受けて、勁文社の編集さんから「うちとしては続けたい、編著者を平山さんか加藤さんかでやってくれないか」という打信が来た。
このとき、夢明さんは古株だった僕に編著者を引き受けるよう言ってくれたが、僕はそれを固持して夢明さんに編著者をお願いし、夢明さんはそれを引き受けて……というのは、Mの後書きなどにもあり、既に怪談ジャンキーさん周辺には知られた話だと思う。
この頃、夢明さんが小説を書かれているという話は僕も知っていた。多忙だろうなあ、ということも知っていたのだが、樋口さんのリタイアを受けた後の「超」怖い話を、話数的にも少なく中心人物でもなく知名度もない僕が引き受けてしまっては「いけない」のだと思った。
僕は怖い話は今も苦手なのだけど、長く付き合ってきた「超」怖い話のことは好きだった。樋口さんや夢明さんがそう思っているように、そして僕などは紙面上は隅っこにちょっと出てくるだけの脇役のような存在に過ぎないわけなのだが、編集という形で「超」怖い話のやり方の隅々までもに精通していたことなどからも、読者に求められているのは加藤一とかいうよくわかんない奴ではなくて、平山夢明の書いたグロ狂気系怪談なのであろうことはよくわかっていた。
このときの、僕のチョイス理由は、
「読者の需要と期待が「超」怖い話を支えている」
「樋口怪談がないとしたら、読者の需要と期待はもう片翼であった平山怪談しかない」
「読者の需要と期待を満たせなければ「超」怖い話の存続はない」
というような感じ。これは、その直後の一度目の死、二度目の死からの復活の経緯からもわかる話で、勁文社の編集さんにも「「超」怖い話を続けるなら夢明さんしかないです」とお願いした。


あのとき、夢明さんが引き受けて下さっていなかったら、僕がのうのうとその座に着いていたら、今の「超」怖い話はなかったと思う。
ある意味、二度の死よりも重大な事件だったのかもしれない。


ところで、樋口さんのリタイアと書いた。安藤さんもリタイアである。
実は、「超」怖い話の初代、二代目編著者はどちらも、宣言をしての「卒業」ではなく「リタイア」している。ドロップでも途中下車でもいい。敵前逃亡ではないw このニュアンスはどういう意味なのかというと、当時は今のように実話怪談を名前を堂々と晒して書いているライター・作家というのは極少なかった。怪談、オカルトというのは食うためのみっともない仕事、くらいの認識が多かったということもあるだろう。名前をきちんと出して怪談を、それも一過性ではなく継続して書く人というのは非常に稀有であったのだ。
大多数は「○○○編集委員会」「○○○研究班」のようなグループ名になっていた。これは「継続性を持たせたいが、書き手は名前を出したがらない」「継続性を持たせたいが、書き手はネタ切れで逃げる」といった事情のところが少なからずあったからだろうなとも思う。
当時、こうした怪談本というのは、「霊感のある当人が自分の体験を書く」か、「霊能者と同行して書く」か、「出自不確かな又聞きの話を書く」かで、たいがいは「持ちネタを使い切ったら終わり」というようなものが多かった。何冊も何冊も毎年出すというのは当時としても珍しかったのである。
「超」怖い話と並び称される新耳袋も当初は一発本で、1990年に発売された後は、1998年に戦線復帰するまでは忘れられていた仕事だったことは既に触れた。「超」怖い話は1991年から1997年(新「超」怖い話8)まで、一年も欠かさず続刊を送り続けた後、1998年に一度目の死を迎える。Jホラーブームは1995年前後くらいからで、新耳袋が奇蹟の復活と躍進を遂げるのは1998年から。新耳袋の躍進と成功によって、「同名タイトルの怪談シリーズ」が市民権を得たという側面もある。
「超」怖い話ほど続いていても、カルトな人気があったとしても、「所詮怪談本」という扱われ方であった部分は否めない。
故に、「もういいや」と降りてしまうから、リタイア。もしくは、「これ以上は無理。やばい」と降りてしまうから、ギブアップ。当時の僕の日記や書き込みやメモを読み返してみると、樋口さんのリタイアについては、「先輩であり、師であり、戦友だった人が、ついに戦線から離れた……」というニュアンスが綴られていた。離れていくのは仕方なく、責めることはできないが、祝うという雰囲気でもなかった。
戦線という言い方になっているのは、指揮官被弾後に戦場に残されて「さあ、どうしよう」と途方に暮れる兵隊のような気分になっていたからかもしれない。


読者の期待値の話の他に、夢明さんは作家として蠢動を始めていて、小説を書き始めていて、これから飛翔する人で、バリューもすぐにできてくる。僕は編集をしている人間で、恐らく今後も編集者でしょう。作家と編集者、どっちのほうがバリューがあると思う? というような趣旨の説得を経て、三代目編著者・平山夢明による「超」怖い話がスタートしたのは、1997年の新「超」怖い話8。通巻で言うと9冊目になる。


そういえば、現在恐怖箱系&冬の「超」怖い話などの巻末にそっと添えられているQR「超」怖い話。これの原型は、以前の「超」怖い話にあった1頁怪談にある。いつの頃からか1頁怪談はやらなくなってしまったのだが、いつから始めたかは明確に覚えている。
これは、夢明さんが編著者に就任した新「超」怖い話8からで、1頁ものの怪談を入れよう、というのも夢明さん発案のアイデア
「コンビニや書店の店頭でぺらぺらぺらと捲ったとき、1頁だけの怪談を少し大きめの文字で入れれば、一見さんの目に付きやすいから」
という発案だった。新8以降、全体に5話前後入っていた1頁怪談は、すべて見開きの左側に来るように調整されているのだが、これも本を手にとってぺらぺら捲ってみると左側に配置されている理由がわかると思う。右開きの文庫本だと左側が視界に入りやすい。
このアイデアは画期的だったと思う。この当時(勁文社時代)は、まだ今のようにInDesign入稿ではなく、版下を全て作っていたわけではなかったので、左ページに入る短い怪談については別工程で版下を作って、それを図版として入稿していた。あのへんの短い怪談は全部、製版上は「絵」として扱われていたわけだ。
また、「超」怖い話は見開き右始まりと左始まりが混在するが、これは1話ずつ奇数頁数だったり偶数頁数だったりと長さが異なるため。これに加えて、巻によっては章ごとにテーマが違ったり、1巻構成になってからは話の配列になんらかのルールがあったり、という工夫をしていたのだが、「1頁怪談は必ず左側に入る」というルールが追加されて、またさらに台割作成が難しくなったorz
「超」怖い話では、竹書房になってからのKとMを除いて台割作成はほぼ全て僕が担当させてもらっているのだが、1頁怪談の斬新さ面白さ扱いの難しさ、その全てが思い出深い。


この巻の思い出と言えば、とにかくやたらとアクシデントが多かったこと。そもそも、予定していた樋口さんのリタイアというどでかいアクシデントで鼻っ面を吹っ飛ばされた。新「超」怖い話8の後書きを見ると、夢明さんのご家族に命に関わるトラブルがあったことが記されている。そういや、この巻じゃなく第二期の頃だけど、僕も校了中に殺人未遂事件を目撃しちゃうなど、ヒデエ目に遭ったが、この新8のトラブルは、僕の記憶にある限り「超」怖い話史上でも屈指の「目の前が真っ白になる」ものだった。


夢明さんと組んで仕事をするようになってから、一度だけ「マシントラブル」に陥ったことがある。
確かWindowsマシンになってから、僕と夢明さんだけになった最初の巻。1997年あたりではないかと思ったら、ビンゴだった。つまり、この新8の作業中のことだ。一言で言えば、入稿直前に作業用パソコンが完全に沈黙した、というもの。
当時の僕は、作業機のバックアップ機は持っていなかった*1
が、GW突入直前のその時、その唯一のGateway2000 P5-120は突然轟沈したのだった。当時のパソコン事情&パソコン雑誌編集部に在籍していた頃だったから、問題点を調べて自分で修理というのも、技術的には可能だったはずなのだが、何しろ時間がなかった。しかも、検証機なしで直すというのはべらぼうに時間が掛かる。しかも、GW突入直前。
夢明さんの原稿はGW前までに、ということで4月末の時点で受け取ってはあったものの、原稿ページ数の調整と全体のデータ調整と推敲と……そういった作業の全てが完全停止したわけだ。原稿の引き渡しはGW明け。PCショップが業務再開するのはGW明け。
今でこそ、その後の修業と苦行の成果wもあって、「原稿を完パケで貰えるなら、そこからスタートして19時間あれば2校取れて、僕は途中で6時間仮眠取れます」というような感じで進行できるようになったのだが*2、この頃の作業環境や諸条件ではそれはまだまだ無理で、校了の1ヵ月前、発売の2ヵ月前に入稿しないと、本が出ない時代であった。
GW明けまでパソコンが来なかったら、ほんとやばかった。
確か、トラブルが起きたのは土曜の深夜だったかと思う。
辛うじて動くノートパソコンで、「とにかく一番早く届けてくれそうなショップ」に当たりを付け、事情を書き、「完成品で、とにかくWindowsが動くマシン、Windowsのインストールはこっちでやります」そんな条件でStartというショップに注文を出した。
今でこそスピード配送が珍しくなくなったものの、この当時は「スピード配送=1週間」で、通常は2週間くらい掛かるのが当たり前だった。
このときのStart(http://www.startshop.co.jp/ )は、注文直後、入金確認をしないで製品組み立て&発送手配という恐るべき超特急でマシンを手配してくれて、注文の19時間後には、僕の手元に現物が到着するという豪速っぷりを見せた。
今でこそ24時間配送を謳い文句にしている店も珍しくはないけれど、10ン年前でこの速度は奇蹟かキチガイかどちらかとしか思えない。
もう、感謝感激英樹還暦という奴で、今もこのショップには激しく感謝している。あのとき、ここがなかったら、「超」怖い話のどっかの巻はオチてました。浮沈の多いPCショップ業界だが、今も元気に絶賛営業中です。その節はホントにお世話になりました。


もうひとつ思い出した。
「超」怖い話の執筆者のうち、一巻しか参加しなかったスポット執筆者には、安藤さん、蜂巣敦さん、添田さん、氷原公魚君などがいるのだが、Wikipedia「超」怖い話のページにも書かれていない執筆者が一人だけいる。新「超」怖い話8の「出たり入ったり…」。これは、当時の勁文社の担当編集だったTさん*3が唯一書かれた話。担当編集者だったということで、筆者名のクレジットもないが、僕のでも夢明さんのでもないお話である。


こんな凄いトラブルを抱えて出発した第三期・新「超」怖い話8であるのだが、シリーズはその直後、これまた凄いアクシデントを食らう。
シリーズ最初の死である。


後になって見れば、なんで1998年、あの年に「超」怖い話を休刊したんだろう、というのは謎でしかない。というのは、先にも触れた新耳袋の復刊も、稲川さんの新シリーズの開始も1998年。実は1998年は実話怪談本の当たり年でもある。
その年に限って、「超」怖い話は表舞台にいない。
実を言うと、このときの「超」怖い話勁文社からお暇を出されていたのであるw
戦力外宣告という奴で、当時の編集長から「よその出版社にシリーズごと持っていってもいいですよ」と本気で言われていたのであった。
夢明さんに無理をお願いして継続にこぎ着けたシリーズである。苦労もあるが故に愛着もある。それで、あちこちに声を掛けつつ、当時、雑誌方面で席を置いていた角川書店のツテを辿り、そちらのほうで「超」怖い話どうですか、というセールスを掛けたりしていた。
ようやく角川書店の話がまとまり掛けたのが、確かその翌年、1999年の初頭頃だったと思う。
もし万が一勁文社でやるとしたら、スタートは例年通りなら1月末か2月。角川書店で引き継いで貰えそうです、という報告も兼ねて勁文社に挨拶に向かったところ、「すいません、うちで新刊を出すと言うことで……」という予想外の回答があった。
「よそでやっていいって言ってたじゃないですか」と、事情を聞くと、「昨年(1998年)出さないでいたら、読者から問い合わせがあって」という。
何度も言うけど、通常、こうした怪談本は一発本が多く、同じシリーズで毎年出すというのは、ごく稀なケースであった。勁文社「超」怖い話に暇を出したのもそれが直接の理由で、「マンネリ化しているのではないか」というものだった。
そもそも、雑誌媒体に掲載されたものを再録して作っている本でもないので、どこかに掲載情報が出るわけではなく、書店やコンビニの店頭に並んでいるのを見て読者は初めて新刊が出ているということに気付く。
ましてや怪談本だ。タイトルを覚えていて、心待ちにする、という分野の本ではないというのが当時の常識だったから、勁文社の考え方も責められるものでもない。
その、休んでいた夏に、読者から編集部に問い合わせがあったのだそうだ。曰く、
「今年は出ないのか」
「新刊はないのか」
「来年はどうなのか」
というもの。夏中、ほぼ毎日以上の密度で掛かってきていたらしい。
その都度、
「すみません、今年は出ません」
「新刊はありません」
「来年は、来年になってみないとわかりません」
当たり前の話で、今年の夏に来年の夏の新刊予定などもちろん組んでいない。苦渋の回答だったと思う。
そして、年が明けてみたら、今度は年頭に電話が掛かってくるようになったのだという。
「年が明けたが、今年は出るのか」
僕は、今年でこの仕事は22年になるんだけど、そんなにスパンの長い新刊問い合わせというのはあまり聞いたことがない。
その年明けの問い合わせが続いた後あたりに、僕の「角川さんで引き受けて貰えそうで〜」という挨拶が続くわけで、そこで「やっぱりウチで」という異例の展開に繋がっていく。
僕は雑誌編集者としては読者ページの仕事が多く、どちらかといえば、おそらくかなり読者よりの編集だろうなという自覚はある。あるけれども、読者の問い合わせ、読者の力によって、実際に終了が決まっていたシリーズが無理矢理生き返らせられてしまうという現場に居合わせたのは、たぶんこれが初めてだったと思う。


僕は今も怖い話苦手だし、書かないで済むならできればそれを書きたい他の人に押しつけて、自分は編集するだけでいたいという気持ちに代わりはないんだけど、「超」怖い話の場合はもう作者、著者の勝手でどうこうできるシリーズじゃないんだな、と思うようになったのは、このときから。
「我思う故に我有り」とはデカルトの言葉であるけれども、「超」怖い話に関しては、「彼等に思われるが故に我有り」なのかも、と本気で思った。


ただ、一年休刊してしまったのは確かなので、タイトルを少し工夫しましょうや、ということになった。発行年は1999年。
「超」怖い話Q。
「Qは、9にも見えるよね」
確かこれは夢明さんの発案だったかとw


Qの後、2000年に突入ということで、再びタイトルを変更。
シリーズが数字番号だからマンネリのように見えるのであって、メインタイトルを残しつつ、順番がわからないようなタイトルにしたら? というアイデアもあって、通巻11巻目は「超」怖い話 彼岸都市というタイトルになる。
彼岸都市というタイトル、帯のキャッチフレーズなどは実は公募によるもので、当時、ネタ蒐集の根拠地にもなっていたとある草の根パソ通ホストで公募されたもののうちから選ばれた。
彼岸都市というタイトルは僕もとても気に入っていて、これだけでごはんおかわりできるというか、これをそのままメインタイトルにしても違和感ないくらいよくできたタイトルだったなあ、と思う。
ところで、第二期の僕は、続「超」怖い話を除いて、ほんとにちょぼちょぼとしか書いていなかった*4のだが、この新8、Q、彼岸都市の3巻だけで24話も書いていた。ふたりぼっちになってしまったこと、無理をお願いして続けていただいている夢明さんの力に少しでもならなければ、という覚悟ができてきたのだろうなと思っている。


この頃の勁文社というのは、いろいろ地殻変動が進行している時期でもあったようだ。
Q以前は、「超」怖い話の担当編集というのは、それでも編集部の誰か――編集部員、言い方を変えれば平編集の誰かが担当していて、その中でも前述の一話だけ書いたほうのTさんは中後期の勁文社「超」怖い話をずっと担当して下さった方なのだが、この方の後の担当編集者が、勁文社編集部の編集部長になった。
雑誌面白半分の創刊メンバーだったと聞いたこともあるが、そりゃもうとんでもなく大ベテランの編集さんである。
というより、本来、現場で実際に本を作るような立場じゃなくて、本を作っている編集者を統括する立場のはずの人である。
これは「超」怖い話が厚遇されているってことなのかな、と思わなくもないが、編集部に行くたびに平の編集さんの人数が減っているような気がした。
後になって思えば、人員減少の真っ最中だったのかもしれない。
販路も縮小されていたようで、彼岸都市は「超」怖い話全シリーズの中でもっとも発行部数の少ない巻となった*5


彼岸都市を造り終えた時点では、翌年の続刊は想定していたし、2001年新刊を作るつもりで準備もしていた。故に、彼岸都市の結びには悲壮感の欠片もなかった。
これは、今思えば、リタイアをまったく想定していなかった新7での樋口さんの前書きにも通じるものがある。
なんというか、死やそれに相当するものが、自分達に訪れるなどと微塵も考えていない。明日はまた来る、と信じて疑っていなかった。脳天気ではないにせよ、「ではまたこの次も!」と気軽に手を振って別れた。


それが、勁文社「超」怖い話の最終巻となった。
2001年、「超」怖い話続刊についての話は白紙に。
2002年、勁文社倒産。
このあたりの事情については、既に稼働していた「超」怖い話公式サイト(http://www.chokowa.com/ )の、以下のページに当時の終了に際した挨拶が残っている。
http://www.chokowa.com/k.htm#▼「超」怖い話シリーズ終了のお知らせ


この二度目の死のときに思ったことは、解放されるなあという安堵と、今度こそ復活はないだろうなあ、という寂しさ。
心残りは「あんなに復刊を望んでくれた人たちに、なんて謝ろう」という申し訳なさ。
自らの意志で終わるのではなく、終わらざるを得なくなってしまう。
なんというか、不慮の事故、不慮の事件に巻き込まれての死とも似ている。明日も続いていくはずだった未来が、突然奪われるということを死というなら、二度目の休刊はやはり間違いなく死だったのだと思う。
いろいろ後悔しながらも、でももう、どうしようもないか、と見下ろしながら昇天していく。たぶん、僕らがいつか死ぬことがあるとしたら、そんな感じであると思ってた未来が突然なくなり、でも全てがどうでもよくなっていくのかもしれないと思った。



そんなわけで、激動の第三期はここまで。
「超」怖い話は、逆転の第四期によって息を吹き返すわけで、この辺りから先の裏話は、メモやメールの記録、その他がいろいろ残っていて、わりと鮮明に覚えてるわりに、話題的に近すぎてあまり表に書き残したことがなかった、そういう意味では「昔話ではない裏話」に突入する。

*1:僅かに、二世代落ちくらいのノートが一台

*2:可能な限りそんなことやりたくないし、もちろん通常進行では校了の一週間前には原稿を締めきっているよ、と断言w

*3:初代の女性編集さんとは別の男性編集さんで、その後勁文社から独立して作家になったはずですが、現在のPNなどは不明。ちなみに、安藤さんはmixiでお見かけ、蜂巣さんは実話事件関連の世界で活躍されており、氷原君は筆を折って北海道に帰りましたが健在、添田さんは完全に行方不明。添田さんとこのTさんの消息がわからないことが、「超」怖い話完全復刻の障害でもありました。

*4:ネタ切れ+角川の仕事が忙しかったから+編集に専念していたから。夢明さんのパワフルな取材力には頭が下がるばかりです。

*5:具体的な数字は伏せるけれど、彼岸都市は既に版元が存在しないこともあって、店頭在庫だけが全てである。もしも古書店などで見つけたら、飛びついたほうがいいと思う。状態の善し悪しに関わらず、ごく稀少本です。