鶏と卵の昔話

今を去ること二十年前。
この仕事を始めて2年目くらいの頃だったか、とある雑誌*1の創刊から5年間くらい、ガメル連邦という読者投稿ページの企画担当をしていたことがある。
コーナーとしては、「紙面上をファンタジー世界の架空の国」に見立て、投稿者を「国民」と呼び、国民からの投稿を王様とお姫様が謁見する、というような仕立てのもの。とある雑誌の創刊記念企画に合わせて「読者に国民証*2を発行する」という企画があって、それに合わせて、架空世界の通貨単位「ガメル*3」を実際に商品交換券としてやりとりさせるため、ガメルを稼ぐ手段として誌上投稿ページが作られた。読者の投稿が掲載されると、ガメル連邦首長国ニトロ公国の王様、と名乗るキャラクターから、「褒美ぢゃ」という紙切れwとともにガメル札が贈られてくる、というもの*4。いろいろあってwガメル札で兌換できるプレゼントが出回るのはもっと後になるのだが、やたら凝った立派な作り*5のガメル札を手に、国民証を手に入れれば、(その使い途が何処にもなかったとしてもw)投稿者は確かに「国民」になれたのだった。
また、そこには国民を3人集めたらギルド、6人集めたら村、10人で街、30人以上で国*6を名乗れるというルールがあった。要するに同人サークルを規模によってギルド、村、街、国という段階付けして把握しようというものだったのだが、そのゴッコ遊び的なものに受けた方がたくさんいたようで、国民証の最終的な発行数は3万に届くかどうか、というところまで行ったらしい。企画書書いてる段階では500人くらい行けば成功かなー、と思っていたので*7、桁がちょっと違うとこまで行っちゃって、大変ご迷惑をおかけしたような気がする*8。当時の編集部の中核にいた編集さん達は、今はその出版社でも相当偉い人に出世してしまったのだが、もう昔の話なので勘弁してください。


この頃から既に、「ネットワーク化」というのに興味があった。
この場合は、本来雑誌に対して独立して存在している読者を、幾つかのコロニーに束ねた読者群にしていく*9ことを念頭に置いた遊び方だった。もちろん人と人が集まることなので功罪は色々あったと思うのだけど、誌面的には読者を群れとして扱うことのメリットもいろいろあった。
この時代にはそれぞれ離れた地域に住んでいる人同士がコミュニケーションを取る方法は、「電話」「郵便」「直に会う*10」しかなかった。
伝言ダイヤル/パーティダイヤルなど、ネットワーク・コミュニケーションの試行錯誤の時代の鬼子として登場した通信手段を、使い勝手がいいようにいろいろ工夫して使っている「国民」も多くいたらしい。*11


これと前後するくらいの時期に、今のインターネットが登場する以前、パソコン通信の黎明期があった。このパソコン通信の黎明期と、当時日本に導入されつつあったメールゲーム*12の黎明期というのは重なっていて、メインのゲームは郵便を介したゆっくりしたやりとりによる、コミュニティと交渉と根回しwと情報戦的な意味での戦略性の高いゲームだった。このメールゲームの補完的な位置づけとして、パソコン通信を利用するグループが出現しつつあった。*13


メールゲームの問題点は、参加者が増えれば増えるほど通信費や人件費が莫大になって、経費がかさんでいき、結果的に破綻してしまうということにあった。大成功した*14メールゲームが、その規模のまま推移できなかった理由を、それだけに求めるのは無理があるのだが、増えすぎた参加者に対応するためにマスター*15の人数を増やさなければならず、しかし人数が増えれば必然的にクオリティの低下は否めず……というスパイラルなど、様々な要因からメールゲームは廃れていった。もっとも大きい理由のひとつに、その直後くらいにインターネットが突然普及し始めたことも挙げられる。


このガメル連邦とメールゲームの遊び方を、もう少し進化させたくて、インターネット登場前夜のパソコン通信時代に、「読者参加型、読者は自分のキャラクターを自分の分身として自由に登場させられる。続きはマスターが書くがマスターが採用しなかったらその設定は没、或いは続きは自分で書くが、自分の書いた話に誰も続かなかったらその設定は支持されていないので没」というようなルールを組み込んだ、読者参加型リレー小説というか、オンライン・シェアードワールドノベル的なものを企画した。これが1991年頃から1993、4年頃まで続いた「Network−GL」という企画だった*16。この頃はまだインターネット登場前で、通信料金が非常に高かったこと*17、成果物を書籍にすることで、そこでペイさせようという計画の実現まで企画の命脈が保たなかったこと*18もあって、最終的にペイラインに乗った成功企画というところまでは行かなかった。


このときの概念の経験を温め、可能な限り自動化(省力化)する、という方向で全てを刷新しなおしたのが、実は遺伝記なのだった。つまり、遺伝記は「文学賞的なもの」というよりも、「メールゲーム的なもの」の血筋を色濃く引いているといっていい。あの頃、メールゲームは確かに面白かったし夢中になったものなのだが、なぜそれが継続できなかったかを考えてみると、「面白かったけど、ペイできなかった」つまり、遊び方としては成功していたと思うけど、商業的に成功できなかったという点にあったのではないか、と思っている。商業化というのを突き詰めすぎると、どうしても商魂たくましいとか生臭いとか企業論理とか、そういうネガティブな反応をされやすいのだけど、「面白いことを、ずっと続けていく」ためには、それが赤字にならず、そして持続的に成長できる、というビジネスモデルを提示して、スポンサーの離散を防がなければならななかった。それができなかったものは、結果的に「面白いのに続けられない」というジレンマに陥った。
もちろん、「面白いのに価値がわからないあいつらはバカだ!」と孤高を気取るのは自由なのだが、続けられなければそれの価値はその後も評価されないわけで、重要なのは「如何にして続けていくか」という点にあると考えるようになったのは、この経験から。実はこれは「超」怖い話の休刊と復刊の時期とも重なっていて、僕が「継続性」を最重要視するようになり、スポンサーになるべく損をさせない*19こと、なおかつ同時に読者自身を作品の価値を作る側にコミット*20させていくスタイルにこだわるようになったかということの、本当の意味での出発点であったかもしれない。


遺伝記的なものを長く封印することになっていたのは、ひとつにはインターネット上にオンラインゲームが多く現れるようになり、パイオニアとしてそれをする必要が無くなったから。そして、アマチュアによる小説の需要はさほど大きくないのではないか、という判断から。特に、こうした読者参加型小説は「if」を扱うものが多く、Network−GLで行っていたものも、その主題はSF的性格の強いものだった。*21
が、多くの書籍関係者はご存じの通り、アニメや漫画やゲームはSFでも売れるのだが、小説のSFは決して誰も彼もが泡銭を得られるほど大きな市場ではなく*22、ましてやアマチュア作家の介入余地も少ない。*23
でも、ホラーならいけるかもー。という一筋の光明があった。
が、それ以前に、この方法論がいけるかどうかを、やはり実証する必要はあった。昨日まで読者だった人々を、作品執筆側にコミットさせるのは、クオリティの点でどうなのか。素人さんにそう簡単に書けるものなのか。書けたら書けたで玄人が困るwが、書けないのであれば企画は成立しない。*24


超-1は、遺伝記的な「ストーリーや設定の拡張、連鎖性」を意図して組み込むことは出来ない。それは実話怪談は実話でなければならないという、応募者読者の共通の約束事があるためだ。
超-1が「応募者による相互審査」という採点方式を採っているのは、この遺伝記の元になったシステムでは、まだ概念的なものでしかなった「支持を集めれば勝ち*25」というものをベースに、その集計方法をある程度数値化すること、そのためのルールの整理に目処が立ったからでもある。ただ、超-1/2006の時点では集計方法については「ルールを踏まえて貰う」という荒っぽい作りでもあり、それをルールとシステムがある程度しっかり連動して動くようになったのは超-1/2007からとなる。
超-1では「応募作品は実話であるが故に、読者は設定の連鎖性は求めない」*26という点を踏まえ、「設定の連鎖性とストーリーの継続と拡大」は完全に省かれている。
遺伝記はその点を実装しているという意味で「超-1の創作版」ではなく、システム/機能的には超-1が「遺伝記の機能削減版」だった、と言えないこともない。


ただしこの辺りは、「採点システム」「遺伝ルール」など、運営システムなどの話であって、超-1の「実話怪談を書ける著者を発掘する」という目的そのものは、遺伝記システムのオマケとか露払いというようなことではない。遺伝記用のシステムとして試行錯誤していたものを、機能削除して実現したのが超-1であり、超-1と遺伝記は「それを使って何をするか?*27」が根本的に違う。さぼり記と超-1や遺伝記のエントリーblogは、どちらもRSSを吐くblogであるが、それをどちらも同一のもの、と考える人はいないのと同じで、「使っている仕組み」は同じ/似ているが、「それを使ってやろうとしていること」は全く違う。
そのへんのことは、まあ全然わかんなくてもいい話で(ry

  • 種や公開済みのどれかと繋がる、怖い小説を書く
  • どれがよかったかみんなでわーわー読んで、わーわー決める
  • みんなが怖いと言ったのを、他の読者には本で読んで貰う


わかってて欲しいのはたったこれだけ。
これをするための、別に知らなくてもいいけど気になる人のための約束事やノウハウがいろいろあるってだけの話なのだった。*28


しかし、ガメル連邦から数えて20年越し1991年のNetwork-GLから数えると17年越し。「超」怖い話の開始に匹敵するか、それより古い企画を、ここにきてまたゼロからやれることになるというのは、嬉しくもありまた勝負所でもあるなあ、と思う。
Network-GLで実現できなかったことを、今回はどこまでいけるか。そしてこれは継続性のある企画としてやっていけるかどうか。
超-1は継続性が生まれその必要が認められたことで、システムの改良と進化の余地を得、また多くの得難い人材を世に送ることの手助けもできた。
遺伝記に「prototype」の文字があるのは、単純に未完成なβ版ということ以上に、これを試作品としつつも「うまくいかなかったときの言い逃れ」ではなくて、「もっと良くしてこの先も続ける」という、継続という次のチャンスを、これに関わる全ての人たちと分かち合いたいな、という青臭い気持ちから。


今度のカタパルトは、非常に具合がいい。
サターン級のデカブツが力いっぱい噴射しても、そう簡単には壊れない。
んで、応募者には僕を踏み台にしてほしいのだ。ガイアの如くw
そして、空高くそれが最初はただの弾道飛行であっても、たくさんのシロツグ=ラーダット達をぶちあげたいと思ってるのだった。





……暑苦しく語りました。
ぼちぼち老鴉瓜が佳境です。

*1:月刊ドラゴンマガジン

*2:パスポートのようなもので、プラスティックカードにナンバリングがされていた

*3:TRPGプレイヤーには聞き慣れたw、ソード・ワールドRPG世界の基本通貨だが、元々は雑誌の商品交換券であることを優先してできたもので、ソード・ワールドRPGの発表に先んじてこの投稿企画があった。

*4:設定上、ガメル連邦内で通用する紙幣=ガメルであった。ソード・ワールドRPGより先、という話の裏付けwとして、1万ガメル/5000ガメル札にはニトロ公国の王様の肖像、1000ガメル札にはニトロ公国のお姫様の肖像が入っていた。イラストは青木邦夫/十六夜清心

*5:証券用の紙に特色刷、デザインも紙幣っぽく工夫されているという、無駄な労力の注ぎ込みっぷりw

*6:人数はちょっとうろ覚え。20年前ですから(´・ω・`) きっと当時ガメリアンを名乗ってた人がコメントで補完してくれるだろうと思うので放置(^^;)

*7:成功のボーダーラインをできるだけ低く見積もる癖は昔から。

*8:国民証が欲しい、という人数が想定数より多くなりすぎてしまったので、ナンバリング+紙製カードにしようかという案もあったのだけど、当時の富士見書房の偉い人が、「いや、読者は立派な国民証を貰えることを心待ちにしていると思う。それに応えるべきだ!」と決断したことで、プラスティック製のやたら立派なナンバリングカードになった。

*9:ギルドや国というサークル単位を作ることでで、読者を孤立化させない、孤立化=話題を振る相手がいないことを理由とした誌面離れを防ぐ

*10:今で言うオフ会だが、当時は「オン=ネット上」が存在しないので、こういう集いは単に「集会」「宴会」「イベント」「お茶会」であった

*11:伝言ダイヤル/パーティダイヤルは、面白いコミュニティがいろいろあって、今の2ちゃんねるの過疎スレwや後のniftyのフォーラムのようなものもあった。が、こういう技術の末路として多分に漏れず、今で言う出会い系などに使われ出したため廃れていった。

*12:ネットゲーム、メールRPGとも。今、ネットゲームと言えばMMRPG、オンラインネットRPGを指す語だが、当時のネットゲームと言えば郵便でアクションをやりとりする、ストラテジー要素の強いものだった。ネットゲーム88を皮切りに、蓬莱学園の冒険!、クレギオンなどが続いた。

*13:蓬莱学園クレギオン、那由多の頃は、KGB-NETなどがその代表的な根城のひとつだった。開催会社である遊演体自身も遊演体NETというのを運営していた。また、この頃のネットゲームの出身者/プレイヤーが、今もこっち方面の業界の作家・編集者として活躍されていたりするが、その話をすると昔を思い出したくないという顔をする人もいるので詳細は割愛w

*14:参加者の多かった

*15:ゲーム処理を担当し、ゲームの進行を記すストーリーを執筆する係

*16:数字に注目なのだが、改めて見てみりゃ「超」怖い話の創刊とほぼ同時期にNetwork-GLも始めている。夢明さんと出会うよりも、参加型小説群の企画のほうが早いw 上原さんはNetwork-GLにもご参加いただいていて、僕がこの手の企画を再開しようとするときw必ずお声を掛ける戦友の一人、とも思っている。実話怪談との付き合いも、こうした参加型小説群も、どちらも僕にとって息の長いライフワーク的なものになってしまうとは、まさかこの頃は思いもしなかった。

*17:通常の電話回線でも従量制が普通で、課金方法もQ2しかなかった。

*18:辛い思い出でもある

*19:収益性の立証

*20:言い方は悪いかもしれないけど、玄人の縄張りに素人を入れると言われたこともあるw

*21:シナリオ1「東京人工群島」は、バブルの香りがほんのり残る近未来の東京湾にある人工島群=学園都市が舞台で、「人類は再び宇宙へ向かう」というのが大テーマになっていた。バブルが弾けて意気消沈していた時代でもあり、また国際宇宙ステーションの開発が湾岸戦争の影響で大幅にずれ込むなど宇宙開発の消沈期でもあったので、余計にその方向にシフトしていた

*22:SF専門誌の激減など、かつての栄光の時代と比べると、大変ささやかになってしまったことは否めない(´・ω・`) 世のSF者が日陰たる所以である

*23:ただし、本格SFの衰退(´・ω・`)と引き替えに、ラノベは大変な躍進をし、この十数年で安定した市場を形成するようになった。前述のとある雑誌などは、そのラノベを黎明期から支え続けてきた功績があると思う。

*24:実はこの点については余り心配していなかった。近年、インターネットの発展と歩調を合わせて「生協の白石さん」「ちゆ14歳」のような「ブログ本」や、「電車男」のような「サイト/スレをまとめた本」がミリオンセラーになるなどの前例が定着していた。文章巧者のアマチュアは、かつての作家志望の素人さんよりも遥かに分厚い層があることなどがインターネットの普及によって明らかになり、プロとアマの間にさほど境界線がないこと、「はずみやきっかけ」でコツを覚えたアマチュアがプロ化できる下地があることは、90年代の終わり頃に知られはじめていた。

*25:勝ち負けで言うと勝ち

*26:思えば、「弩」怖い話 螺旋怪談は、この点についての拒否反応を知るための実験でもあった。その後、螺旋怪談方式が続かなかったのは、小説・読み物としてどこに線を引くかの考え方が整理されたため。

*27:開催目的=この場合は、どういう著者を探したいか

*28:そして、このための機会を提供していただいた版元様に対して、ペイできる作家を一人以上発掘&フィードバックできれば、その発掘【される】機会が継続できれば、それでWin-Win-Winの幸せなシステムができるんじゃないかなあ、というのは夢。