毎日新聞事件から思うこと

毎日新聞事件では、「情報の発信者と受信者」「発信者の権限の強さとそれについての自覚/無自覚」「発信者と受信者はどちらが主なのか」などなど、いろいろ考えさせられるところが多い。事態は未だ進行中なので過去形で語るつもりは毛頭ないのだけど、つらつらと見ている中に、「報道(新聞/テレビ)vsネット」という図式のものが多くあった。
ネットの普及によって、テレビの視聴時間と新聞の購読部数が下がり続けている*1
これはネットが無料で見られるから、というのもあるだろうけれども、それ以上に情報の量・更新の早さ・閲覧機会の多さといった、スピードの点で新聞/TVが遅れを取っているということが窺える。
また、ネットの利用者は若者に多く*2、新聞を購読し、腰を据えてテレビを見るのは50代以上、という調査結果も出ているのだそう。*3つまり、新聞/TVはかつての映画産業(TVが登場する直前直後の頃の)のような斜陽産業または「過去の媒体」に陥り始めているのではないか、という指摘もあった。
テレビが登場して、劇場に足を運ばなくても家でタダでドラマや映画が見られるようになったとき、映画産業の人々はテレビを下らないもの、つまらないもの、下品なもの、高尚ではないもの、品がないもの、見ると頭が悪くなるもの、と腐した。そういう映画自身も、講談をしている人々から「映画なんてくだらないもの」と言われていた時代はあったと思うのだが、テレビの登場によって立場が入れ替わった。
それと同様に、テレビ、今の新聞も、ネットの登場によってその地位を追われつつあるのかもしれない。


先の「毎日新聞事件:謝罪の価値は」のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/azuki-glg/20080720/1216581264)で、実名主義と匿名主義のことについて久々に少し触れた(http://d.hatena.ne.jp/azuki-glg/20080307/1204850996)。
新聞社がネットニュースにも進出しているのに、どうして新聞社のニュースサイトは素人のブログの先や上を行く内容や対応が取れていないのかというのは、常々不思議に思っていたところでもあったのだが、それを読み解くカギはこの実名主義/匿名主義の話と繋がってくるのかもしれないとも思えていた。
毎日新聞は記事を署名制としていて、その記者が本当に実在するのかどうかはさておき、一応「記事の責任を記者当人に取らせる」という仕組みを取っている。これは手柄(スクープ)で目立ちやすく、失敗の傷痕がいつまでも残るというハイリスク/ハイリターンな制度。勇み足/スタンドプレーが失敗したら、出世街道からは消える仕組み。
朝日や読売は記事は記名制になっていないけれども、結局のところ「朝日新聞」「読売新聞」という大看板を背負って仕事をしているわけで、これは「情報ソースに信頼(権威)を与えて、読者がその記事内容を疑うことを未然に牽制する」ということに代わりはない。実名主義の人が自分の名前を大看板として書くのも大新聞の記者が会社の名前の入った名刺で仕事をするのも、基本部分は「権威で仕事をする」ということであるわけで。


ネットの多くはそうした権威と無関係な所にいる人々が、見聞発信をしているわけで、確かに玉石混淆であることは否めない。全てがいいとは言わない代わりに全てがダメだとも言わない。「ネットという一個性」などないし、「ネット住人」という一律に平均化された個性があるわけでもないわけで、そうしたものを「ネットは匿名で暴力的だからダメ」「実名は責任があるからちゃんとしてる」などと一律的に論じるのは鼻から牛乳である。実名で責任を取ってるはずの、社名に権威あるはずの新聞社がこの体たらくということになってくると、結局は「名前や肩書き、それまでの蓄積や権威(エキスパート、と言い換えてもいいが)」というのを盲信することなく、その都度その都度の記事内容で判断したほうがいい、ということになる。


素人(かどうかわからないけどw)の匿名ブログや掲示板住人の中には、権威でも専門家でも内部の人間でもなさそうなのに、誰でも手に入れられる情報を照らし合わせて解析する、アナリストの専門家みたいな人がゴロゴロしている。彼等の多くは、「お金を出すか、もしくは出さなくても誰でも見ることができ、誰でも追試・検証ができる情報」を照らし合わせることで、その背景を考察したりしている。
こういう情報解析というのは21世紀になってからの話ではなくて、二次大戦中や日露戦争の頃から既にあったものらしい。当時はネットなんかないからw、相手国の情報を得るためには暗号文の解読をしたり、秘密文書を盗み出したり……という諜報活動が行われたわけなのだが、そういう花形w的な部署とは別に、「相手国や周辺国が発行している新聞、ラジオなどを黙々と収集分析する部署」というのがあった。三面記事として小さくしか載らないような、官報の人事、株価の変動、新技術の発明、専門家の移動……そんな小さな痕跡を繋ぎあわせて、その裏で進みつつある事態を読み解く、というようなことを専門にしていた。
現在では、例えばホワイトハウスが公式声明&大統領声明として発表した内容は、オリジナルの発言・演説原稿&記者とのQ&Aがそのまま一次ソースとして配信されている。日本の首相会見や省庁大臣の定例会見も同様で、新聞やテレビがそれらを要約・編集、時に偏向・捏造をしても、ネットから一次ソースを当たることで、その誤謬の指摘など、誰にでも出来るようになっている。


その誰にでもできる「誤謬の指摘」を、早い段階で毎日新聞は受け入れて対応すべきだったけれど、それをしなかった(できなかった)のは、「問題が重要だと思っていなかった」というか、「匿名の素人に、プロの記事についてとやかく言われることが腹立たしかった」という感情的な、或いは驕りがあったんじゃないかと感じられる。
記名で原稿を書いている、だから責任を持っており信頼もされている。
その自負は持ち続けてくれてかまわないけれども、それと違うベクトルから現れつつある、肩書きではなくて内容本位の情報発信者群に対して、「記名で原稿を書かず、無責任なものなど信頼も支持もされるわけがない」と、毎日新聞は思いこんでいた。だから無記名匿名の発信者群である2ちゃんねるニュー速+住人が騒いだところで、どうってことはないと考えていた。
これは、記名記事を書く=権威と信頼を自覚する側が、かつての映画産業がテレビに対してそういう態度を取ったように、ネットの向こうにいる多くの匿名の情報発信者を侮って軽く扱った、ということに置き換えることができる。


毎日新聞自身は「たかがネットなど」「素人の群れが」「匿名の癖に」と思っていたのかもしれない。もしくは「2ちゃんねるのどこかに名のある黒幕がいる」とか、「社内派閥抗争として糸を引くものがいるに違いない」とか、まあそのくらいの想像をしているのではないかとも思う。
これは旧来のあらゆる組織は、自身に立ち向かう勢力があらわれると、そこには必ず「英雄・リーダー・指導者」がいるはずだ、と考えたがる。テロとの戦争でアル・カイダを相手にしたブッシュもそう考えていたけれども、アル・カイダタリバンは細胞化された組織であって、シンボル的な存在はいたとしても、そこから全ての計画や命令が集権的に発信されているわけではない。
ヒトラーの時代のナチスヒトラーを潰せばそれで済んだけれども、緩やかな目的を共有しつつ、明確な核を持たない「人の群れ」は、頭を探し出して潰せば全てがそれに従って終わり、という戦い方は通用しない。
蜂の群れは働き蜂を生み続ける女王蜂を殺せば、群は死滅する。女王蜂という「母」を中心とする組織だからだ。旧来的な組織はトップダウンによって運営されることが多いが故に、相手も同様だと考え、相手の中にいる群のリーダーを見つけ出して殺処分すれば、自分達と同じように組織が壊滅する、と考える。まず相手は自分と同じだと考えるからだ。
しかし、渡り鳥の群れはどうか。岩礁に貼りつくペンギンやカモメの群は。浅草寺の鳩は。渡り鳥は群れなして同じ時期に一斉に渡りをするが、その群の中にはリーダーはいない。群の先頭を飛ぶ鳥を射落としても、彼等が渡りを止めることはない。
匿名発信者の群れというのは、蜂の群れではなくて渡り鳥の群れであるということを、鳥を撃つ側である実名主義的発信者はわかっているのか。


このへんの例えをして、「匿名の情報発信者群はテロリストと同じ、名前も顔も出さない卑怯者」というヒステリックな声を上げる人というのは、だいたい自分自身は名前も顔も晒して記名記事を書くことで利益が上がる人々だ。当然ハイリターンだが、非難されればハイリスクでもある。
匿名の情報発信者群は、失敗や誤報に責任を負わないかわりに、成功やスクープについての利益もない。ローリターンだがローリスク。
ハイリスク・ハイリターンの実名主義的情報発信者から見て、匿名主義的情報発信者の「ローリターン」の部分は見えなくて「ローリスク」の部分だけが狡くて卑怯に見えるということかもしれない。
匿名で発信することでリスクマネジメントをしているということで、それはそれで問題ないと思うんだけど、このあたりについては実名発信の人達は「リスクマネジメントをうまくやってると卑怯、自分は矢面に立ってるのに」という認識があるように思える。


それだったら、アンタも匿名で情報発信してみなさいよ、と言ってみたくなるw
実名・肩書きで仕事をしてきた人間が、匿名で仕事をするというのは、恐らく凄いフラストレーションがあるんじゃないかなと思う。褒められれば「それを書いたのは俺!」と手を挙げたくなるし、貶されれば「天下の俺様の言うことに刃向かうのか!」と声を荒げたくなるw
匿名でも実名のときと同じ評価が得られるなら、それは本物。
匿名だと実名のときとは評価が変わるのだとすれば、相手は自分の物言いじゃなくて、名前や肩書きに傅いているだけ、ということになる。
柳田委員や毎日新聞の記名記者は、毎日新聞という看板すらも捨てたところで、内容のみでそれまでと同じ評価を獲得できるかどうか試してみりゃいいのだ。


この数年間の間に、肩書きと人脈を頼りに拾ったネタを右から左へ流していただけの政治評論家の多くが、「的外れな人」として権威も信頼も失っていった。
毎日新聞もそうなっちゃうのかな、というか既になってるな、とか思う。

*1:ABC調べによると新聞で部数を右肩上がりに増やしているのは保守右派の産経新聞だけで、リベラル/左派/良心派/進歩的と称された新聞の全てが右肩下がりであるらしい。

*2:とはいえ、40代も若者に入れていいならw

*3:毎日問題でクローリングしている途中に見かけた情報。URLは忘れたので各自探して裏打ちしてください。