自分で考えないで「けしからん」と猛るのは楽、という話

ここ数日、複数の知己友人知人と酔っぱらったりぐでぐでしたりしつつダベった話の中で出たものに、「自分で考えないのは楽」というキーワードがあった。
これは、良いようにも解説でき、また警句としても解説できるキーワードだったので覚え書き。


例えば、価値というのは客観的に見て公共に共通の価値を持つものと、その人だけ、またはその人に共感する少数の人にしか価値を見いだせないものとがある。客観的に見て公共に共通の価値を持つものと言えば、例えば「お金」とか。そんなものに価値などない! という向きもあるかもしれないが、店の店頭でお金を出せば、誰がお金を出しても同じ商品を同じ金額で買える。お金に価値があるというよりは、お金は「共通化された価値を目で見て数字で比べられるようにしたもの」という言い方のほうが正しいかもしれないけど、まあ「共通の価値を持つもの」と言い換えても問題はなさそう。


一方で、自分にしか価値が判らない、自分と少数には価値がわかるけど、それは公共・共通・普遍的な価値ではないものというのがある。例えば、んー、大昔、まだ手書きだった時代の原稿があるとする。それは、コクヨの原稿用紙で、鉛筆書きで、小汚くて、染みが付いていて、「原稿用紙」という商品としてはもはや価値がないし、書かれている内容にしたところで、大文豪の黎明期の未発表作品などではなくて、編集稼業を兼業している怪談屋の初期の駄文に過ぎないんだとする。
はっきり言って、全然価値などないわけなのだが、中にはそれに価値を見いだすコレクター(物好き)もいるかもしれない。この場合の価値というのは、価値創出したコレクターの間でだけ存在するもので、世間的、普遍的には「使用済みの小汚い紙切れ」以上の価値はない。


自分がコレクターではない場合、その小汚い紙切れについて価値は見いださないから、「別に捨ててもいいかー」くらいにしか思わない。
が、「捨てるなら金払うから!」というコレクターがいたとして、そのコレクターの価値判断に自分の考えを委ねてしまうなら「じゃあ、価値があるものなのかな、金に換えられるのかな」と思ったりする。
そうなると、自分の手元にあるその他の使い古しの使用済み原稿用紙や判別できないほど悪字の手書きノートなんかも、「これは価値があるもの?」と、コレクターに判断を仰いだりするようになる。
自分で決めた価値ではなく、他人が決めた価値に阿る。そうし始めると、自分で考えるよりは他人の考えや他人の価値判断に乗っかった方が断然楽、ということになってくる。コレクターが何らかの権威であったりすると、「権威が言うんだからそうだろう」と価値判断を全て権威に任せてしまい、自分ではますます価値を考えたりはしなくなる。
もし、後でそれが「実は大した価値がないものだった」ということが判明した場合も、「価値があると言いだしたのは自分ではなく、その権威あるコレクターだから、悪いのは自分じゃない」と責任転嫁ができる。
自分で考えないで、他人の判断にまるまる乗っかるというのは、非常に楽で、逃げ道もあって楽。


これは時事放談床屋政談的な話の流れで出てきた話題で、「新聞やテレビがそう言ってた」とすることで、誰かの考えた結論にしたり顔で乗っかってしまうのは非常に楽だよね、という話に繋がる。前提があって、そこから導きだされうる幾つかの可能性を想定して、その上で起こり得る結果・成果を結論して、その結論からさらに起こり得る利益損得を考える……という形で、本来は自分で考えなければならないのだけれど、今は皆忙しい人が多いので、「事件があった、あいつが悪い、けしからん」という感じで流されてくる情報のうち、「事件があった」の背後や原因をまったく考えず、そもそも事件が事実であったかどうかも確かめず、「アイツが悪い、けしからん」さらには「けしからん」の部分だけを共有するようになってしまう。
これは完全なる思考停止で、自分で考えてない。
「けしからん」という感情を共有させることが主目的になっている報道について、「けしからんのは、あいつが悪いから」「あいつが悪いのはけしからんから」という往還する思考に陥ってしまい、結局のところ自分では考えず「だって、テレビで誰かがそう言ってたから」に逃げて、自分では考えない。そのほうが楽だし、間違っていたら「あいつがそう言った」と言えば逃げられるからだ。
先だって、最近の小中高生はもしかして「連想する能力」が落ちてきているのではないか? というような話が出たことがあったのだけど、このへんの連想する能力の衰えた人というのは若い世代だけに見られる世代の特徴*1なのか、ツッコミどころをテロップで流してくれる親切なバラエティ番組が氾濫した結果なのか、その双方なのかはちょっとわかりかねる。


「けしからん」と言いたいがために、「けしからんと言いにくくなる不都合なことは考えない」であったり、けしからんと言う主張に対する反論を、掘り下げずにレッテル貼りして思考停止した上で「けしからんに決まっており、疑う余地もない」と考えることをやめてしまう、というのもしばしば見かけるようになった。*2
この手の「お前は○○○に違いない、だから相手にしない」という形での思考停止=自分で考えないというのは、学生運動時代だったら「ノンポリ」、戦中だったら「非国民」、蟹工船なら「アカ」、つい最近だったら「ネトウヨ/工作員/信者」、そんなキーワードで一括りにして、それ以上思考することを辞める(または辞めさせる)という感じで、昨日今日に始まった目新しいものでもない。


ではなぜ「けしからん」と言いたい人ほど思考が停止してしまうのか。
これはやはり、わかりやすい罵倒中傷、或いは暴力を振るってもまったく咎められることがない絶対的な排斥対象を欲してるからなのかな、と思ったりする。
かつて*3犯罪者は法の裁きが降った時点で絶対的な悪と認定されるわけだから、思う存分排斥してよいものだった。洋の東西を問わず罰に磔刑死刑の類があるのも、結論を出して思う存分暴力的に排斥するためであったかもしれない。
が、最近は犯罪者の人権を守るという名目で、法の裁きが降った後はそれらを暴力的に排斥することはできないことになっている。
また、戦争などが起きた場合、政治的戦略的な必要性はともかく、戦争の遂行を声高に叫ぶのは概ね思考停止した群盲であったり、それらの思考停止した群盲が一斉に振り返って、自分達の猛りに方向を与えてくれる別の誰かに指示を求めたりするわけで、そういうときに後ろのほうで群盲を煽っているのは、だいたい報道(や、報道に登場するコメンテーターや権威や識者や情報通という名のアジテーター)だったりするんだよなあ、とかなんとか。
そうやって猛り狂った群盲が秩序を踏み潰していった後、今度はその「けしからん」に180度逆方向への方向性を与えて、また猛り狂わせて走らせる、という。
この図式は、日比谷事件から日米戦争突入*4終戦から60年代安保闘争*5という「思考停止したけしからんの流れ」を見るに付け、全然変わってねえ、とがっかりしなくもなくもない。


そんなわけで、自分が気持ちよく発散している「けしからん!」という感情を他の誰かと共有しているときは、その「けしからん」を裏打ちするものを慎重に確かめる必要があるかもしれないなー、と思った。
理由もなく、または自分では裏打ちできないけれども、「みんながそう言ってる」「エライ人がそう言った」というような依存に基づいて、けしからんという感情だけを、誰かにいいように煽られている可能性を疑う必要はあるのかもしれない。


自分で考えないで誰かの考えにのっかって、感情だけ共有するのは楽。
思考停止は楽。
自分で考える、自分で考えたことを自分以外の人に説明するっていうのは、しんどくてめんどくさいってことなんだろう。だから、我々は楽なほうへ楽なほうへ流れていってしまうんだなあ。

*1:ゆとり教育=授業コマ数不足から、経過を自力で考えさせず結論を暗記させる教育方式の悪弊、という意味で

*2:これは床屋政談的な話で、なのだが、案外いろいろなことに適用できる話なのかもしれない。

*3:古代において

*4:戦争に賛成しないものは非国民、という図式。

*5:安保反対と唱えないものやノンポリは、資本家の犬という図式。安保闘争に参加していたのは今、順繰りに現役を引退し始めている団塊世代でもあるのだが、彼等の多くは「安保反対」の理由、意味、日米安保条約の意味とそれが継続されない場合のリスクなどについて、深く考えていなかったらしくて、今も説明を求めると回答できない人が結構いたりする。「成田まで行ってきたという自慢」と「ただ騒ぎたかった」「どういう意味かはよくわかってなかった」というのがセットになってる人は、案外簡単に見つけられる