小泉純一郎元総理、次期総選挙不出馬表明

事実上の政界引退表明ということで、今日はその話題で持ちきり。
僕の考察は詳しくは後日。
今は、要点のみ。


(1)65歳過ぎたら引退する、という宣言は総理就任前からしていた
 小泉元総理が政界に入るきっかけになったのは、父・小泉純也議員の急死によるもの。純也氏が65歳で議員を辞めた(死去した)年齢については思い入れがあったようで、「親父と同じ年齢まで議員を務める」と政界引退のリミットについてはかなり昔から表明している。その都度、「院政キングメーカーを狙っている」「政界ご意見番を狙っている」といった自民党的な予想が飛びかってきたものの、これまでの言行一致振りからすれば、辞めると言ったら言った通りに辞めるのだろうと思う。飯島秘書官の辞職も、「本当に辞めるつもり」という意志を汲んでのことと考えれば、何の不思議もない。
 ただし、「引退表明=今すぐ辞める」ではない。
 次期総選挙に向けた議員辞職までは現職議員である。これは、「国政選挙で付託された立場を、任期途中で放棄せず、責任を全うする」という意味と取れる。
 総選挙が今すぐなら、任期は後数週間。まだ先なら、あと数カ月。今、不出馬を改めて表明した理由を考えるなら、あの政局の鬼は「年内に総選挙がある」と読んでいて、その上で、自分が担がれて新党を作るグループが出て、結果として自民党を割ることになりかねない事態を避けるため、つまり「新党結成の意志なし」というアドバルーンだろうと思う。
 実際、自民党は今更新党を作って細分化していくようなことをする余力はもはやない。民主党は逆に肥大化を続けているが、民主党が政権を取った後の迷走を考えると、自民党は新党乱立によって小政党に転落することだけは避けなければならない。総理時代、「脱派閥」を宣言したことと、陣笠議員時代の後の「一匹狼の変わり者」のイメージが強い小泉氏だが、森派会長を務め、小選挙区制導入(主導者は当時の小沢幹事長)にギリギリまで反対するなど、派閥闘争が揺るがす功罪についても熟知しているわけで。
 自民党改革派が、自分を担いで新党を立ち上げて実力のない小政党に転落分散していくよりは、そのまま自民党に残留してスリーパーとなり、党内で転機を待つほうを選ぶほうがよい、という判断じゃないかなと想像してみる。日経の清水氏的にw


(2)泥船に乗らない、勝ち逃げ、現状に対する責任を放棄して逃げた
 恐らく、明日以降のワイドショーは、こういう路線のコメント一色に染まるだろうと思われる。「毒米は小泉構造改革負の遺産(実際には毒米=黴が発生するような保存状態の悪い輸入米の輸入規制緩和は、10年近く前に小沢一郎自民党実力者だった頃に決めたもの)」という、明らかに時系列がおかしい超時空宰相的批判をされている今日この頃なので、そのラインに沿ってコメンテーターに用意されるセリフは、概ね悪口ばかりなるだろうと想像できる。
構造改革の失敗を国民に押しつけて悠々自適の生活に逃げ込む」
アメリカの金融危機の最中に議員を辞めて逃げるつもり」
「痛みを国民に押しつけるばかり」
「総裁選で推した小池議員が落選し、神通力が消えたことにショックを受けての引退決意」
小泉チルドレンの養育を放棄する自分勝手な産みの親」


「今の日本は小泉改革の影響で格差社会が広まり、激しく不景気続き」という話も出るだろうけれどもw、アメリカが金融不安に陥っているのに、そのアメリカの証券会社の事業を買収するような体力と信頼性が日本の金融企業にあるのはなぜかというと、2001〜2006年くらいまでの小泉時代に、それ以前の10年間焼き付き続けてきた不良債権の処理がほぼ終わり、金融体質としてはかなり健全化しているから、なのだそうな。
今、世界恐慌一歩手前、サブプライムオイルマネーもプーな状況下で、「ハゲタカを食い漁る」ようなことをしているのが日本の金融企業で、果たして日本はホントに不景気なのかしらん、と思わなくもないw まあ、その持っている奴は持っていて、持っていない奴は持っていない格差感というのがフンダララという話が、コメンテーター持ち回りのセリフで出てくるんだろうなと思うのだけど、本当に格差社会最底辺に国民の大多数がいるのだとしたら、商品に実態が伴わない「付加価値産業」が、これほど大きく継続的な市場を作るはずがない、とか僕は思うんだけど、どうなんでしょう。萌えとかフィギュアとかヲタとか怪談とか。
 で、他にもまあいろいろ顔を歪めてしたり顔で言う悪口や、それに沿った「怨嗟に満ちた冷ややかな街の声」とやらが列挙されるであろうなあ、というのがなんとなく容易に想像できるw そのくらい、ステロタイプな煽動が多いわけで、報道バラエティや朝のワイドショーの放送作家って、どうしてテンプレ通りのシナリオしか書かないんだろう、とちと首を傾げないこともない。朝から口を尖らせて台本読む人も大変だなあ(棒


エントリの主題と離れるけど、最近のワイドショーや報道めいたワイドショーの類に登場する「コメンテーター」というのは、有名人ではあってもそれが本来の専門ではない人間に、意見を言わせすぎ。経済専門家に子殺しについてコメントさせたり、政治家呼んでおいて芸能人の離婚についてコメントさせたり。もちろんそれは予め用意された台本を、その日の出演者に割り当てただけに過ぎないわけなんだけれども。
どちらにせよ、視聴者に「怒り」を共有させようとする番組造りって何かに似てるなーと思ってきたんだけど、「不愉快」「無条件に罵倒してよい対象を教える」といった煽動の仕方っていうのは、60年代で言えば学生運動におけるオルグ、30〜40年代で言えば「鬼畜米英」を軍部以上に煽った当時の新聞のような感じ。
ガンダムで言えば「立てよ国民!」なギレン演説な感じw


社会的人間というのは、共通の敵に対して怒りを共有させられると何でもしてしまう。が、価値観が多様化し、基準も人の数だけあるような現代に置いては、無条件に批判・罵倒できる攻撃対象をひとつだけ定めるというのは、なかなか難しい。それでも、なんとかひとつ「無条件に貶していい」というターゲットを決めることができれば、そこにピラニアの如く食らいついて、それを蔑みまくる。
二次大戦以前は、それが「外国の競争相手」であったのが、二次大戦後、もっと言うと安保闘争から後くらいになってくると、「政府権力vs国民」になり、政府権力だけでなく「力があるもの」や「重い責任を負うもの」を、片っ端からバカにするという風潮に純化していくようになた。
そうした相手は力の限りバカにしていいし、蔑んでいいし、冷笑していいし、言うことなんか聞かなくていい。どうせ、権力者、有名人であるほど、監視の目が厳しくて権力の行使なんかできやしない……という考え方の人が、「目に付くところ」に増え始めている、ということなのかもなあ、と思わなくもない。そういう人は、「一緒に怒ろうぜ!」または「あいつだけいい思いをしているんだ。怒りたくならないか?」と背中を押せば、いくらでも簡単に火が点き、後は何もしなくても暴走していく。
学生運動世代に「なぜ安保に反対して、なぜ安保闘争に参加していたのか?」と訊ねると、実は案外ちゃんと答えられない人が多い。今になっても、だ。「周りが行ってたから」「あれはお祭りだった」「詳しいことなんか考えなくても騒げればよかった」まあ、だいたいこういう答えが返ってくるw


この考え方というのは過去の愚かな一時代、一世代のことでもなくて、「とりあえず騒げればいい」「莫迦にできればいい」「後のことは後になってから考えればいい」「自分は既に最低の状態にあり、失うものはないから何も怖くない」という考え方で、先行きを考えない人が増え始めているらしい。進学問題が他人事の受験生、大人の言うことをバカにして聞かない小学生、何もかもやけっぱちな大学生、などなど。
誰かに「怒らされる」「踊らされる」のはやだな、と思う気持ちは、どうやれば育つんだろうかなというようなことを、思う。



小泉元総理不出馬表明から、なんだかえらいこと脱線した。