九条の会

唐突なんだけど、九条の会というのがある。
まあ、ぶっちゃけて言うと「日本国憲法第9条を死守する護憲の会」で、左翼系の方、進歩的文化人の方、科学者・教育者、市民運動家、政治家、などなどが広くこの会に名前を連ねている。


憲法9条=戦争の放棄を謳った項目だが、これは
「9条=平和憲法があれば日本は戦争に巻き込まれない」
という盲目的宗教に発展しつつあるようで、「キュージョー、キュージョー」と唱えていれば、日本を敵視する国は誰も彼も朗らかに融和的になり、日本は決して戦争に巻き込まれない、とする信仰である。
こういった信仰は、「自分は頭がいい」という自意識の強い方々ほど強く深い様子。
こうした傾向について、昭和の頃から司馬遼太郎だったかが、「唱えているだけで大丈夫、んなこたーない(意訳)」と危惧する批判をしてた気がするんだけど、出典忘れた。
実際のところ、憲法に書いて唱えるだけでたちどころに軍事的緊張や武力行使が消失する魔法の呪文に本当に効果があるなら、日本が抱えるあらゆる外交問題は消失すると思うんだが、そんなことは起きてない。
日本が武力行使を受けないのは、外交努力と防衛努力と「いつでも反撃可能な米軍基地」を国内に多く抱えているからであるわけで、9条という条文があることを、日本と敵対する多くの国は知らないか、「あってもいざというときに守るはずがない」と考えているかのどちらか。どちらも現実的な話。「いざというときに9条を日本は死守する」としたら、仕掛ける側は釣り堀でトロール船操業するより楽であるわけで。
でも、9条の会を始めとする9条信徒の多くは、そうした9条信仰を「実効力のあるありがたい教え」と信じて止まないんだろなと思う。


ここまでは枕w
で、ここからが本題。


最近、あれこれと細かい事件や騒動やそういったものが持ち上がる。
例えば行政訴訟の類とか、市民による意見表明であるとか、デモであるとかそういった類の。
面白いことに、そういった「市民による意見表明」や「行政訴訟の原告」に関わる人名を当たってみると、必ず「9条の会」に行き当たる。
ちょっと話題の大阪府の芋掘り保育園。行政代執行で園児の育てたイモが、っていうアレだが、これの園長も9条の会の発起人の一人だった様子。
また、薬害なんとかの類の行政訴訟原告で民主党から立候補するような人々も、9条の会と何らかの関わりを持つ人が多い。


これって何かに似てるなあと思ったのだが、学生運動華やかなりし時代の闘士wの皆さんを辿ると、なんとかセクトとかそういうところに繋がっていき、結局芋づるであれこれ名前が出てくるような、そういう感じというか。
かつての共産主義というか学生運動というのは、結局のところ共産主義が必要だったんじゃなくて「騒乱を起こし秩序をかき乱すための口実」が欲しかったに過ぎないんだろうな、と常々思っているのだけど、昨今の「9条の会」に見るような反戦を口実とした繋がりというのも、実は既存秩序を破壊したい衝動を正当化するためのお題目なんじゃないのかなあ、とかなんとか。
反戦を言う人が、どうも秩序の破壊&無政府主義を求めるようなことを端々に覗かせるのは、どうもなんだか胡散臭い。*1


反戦主義を謳う人ほど好戦的ってなんかおかしいし。
平和主義者ほど罵倒好きってなんかおかしいし。*2
話せば分かる、と話し合いをしようとした犬養首相が直後に殺されちゃったように、互いの主張が話し合いで解決しないから戦争/闘争が起こるのに、それを阻止するのに話し合いでっていうのもおかしいし。
そして、そういう人たちほど話し合いでは常に相手に譲歩を要求するのに自分は一切譲歩しないっていうのもおかしいし。
市民運動」とか「NPO」とかっていうのに関わってる人がいたら、とりあえず名前を調べていって、それで9条の会と袖振り合う(もしくは首までどっぷり)だったら、その人の話は話半分で聞くようにしたほうがいいのかもしれんなあ。

*1:そういえば、原水禁原水協は、アメリカの核は非難するけど、中国とロシアと北朝鮮の核には文句言わないとかも、この流れかw

*2:自衛官/即応予備自衛官の知り合いの話なんかを聞いていて常々思うのは、現実に対応しなきゃならない人たちは「可能なら戦争なんか起きないほうがいいに決まってる」という意識が強いということ。僕は質実剛健実用主義からくる軽いミリヲタだけどw、常に備えつつ、鍛えつつも、鞘の中では決して錆びていない抜かずの宝刀でいることが重要で、抜かない相手を蔑んで罵倒しまくる自称反戦平和主義者に、ちょっと辟易しなくもない。というと、「戦争好きのネット右翼」と言われそうw