計算マンドクセ(´Д`)

超-1/2006は集計で本当に死ぬかと思った。人力&目視で検算をやってたため近視が極限まで進み、レーシックを決断したほど。検算には多くの人手を必要とし、集計にはえらいこと時間が掛かった。
超-1/2007以降からはエントリーblogのCGIを変更し、エントリーblogのコメントで、直接点数を選ぶようにし、なおかつCGIのログからそれらのコメント講評及びトラックバック講評の点数を吸い上げて自動集計するスクリプト……を、SE系小人さんが凄い力wで授けてくれたおかげで、集計そのものは物凄く楽になった。
が、ヒューマンエラー(特に僕)というのはやっぱ出るので、そのチェックに幾許かの時間が掛かった。
超-1/2008からは、集計値を単純に合計するだけではなく、実相を「算出」できるよう、補正を掛ける公式が必要になった。これはスクリプトではできないので、ある程度またまた人力で対応することになった。
もちろん、スクリプトで集計されたオリジン・データがあるので、そこから数字を起こしていくのはそれなりに楽ではあるのだけど、問題は公式なのだった。
超-1/2008の補正公式は超-1/2007までの単純順位では見えてこないものが見えるようになった。単純順位と別のベクトルのところに生えている「芽」を見つけるための公式というか。


遺伝記でも、この超-1/2008から導入された補正用の公式を援用しているのだけど、「とにかく実話怪談はいっぱいあったほうがいい」という超-1と遺伝記を比べると、重量級を仕上げてくる人も少なくなく、単純に超-1/2008の公式をそのまま当てはめるだけではいけない感じがした。
傑作選に入ってくるのは、それこそ審査員折り紙付きのものであるわけだが、上位に入ってくる作品と、上位に入った応募者が、必ずしも正比例するとも限らない。では、その誤差は、何によって生じているか? 応募数と上位数の比率は? などなど、数字の列を俯瞰して悩む。
いろいろ計算マンドクセ(´Д`)


超-1/遺伝記のシステムは、システムの基本はもう完熟に近付いていると思うのだけど、そこで得た数値を「読み解く」という部分は、まだまだ足りていない気がする。
価値観の相違というのは誰にでもあり、それは作者と読者、応募者と審査員、主催者との間にだってある。主催者が絶対的な権限を持って「俺のセンス」で選ぶのであれば、実のところ話は早い。僕もそうすりゃよかった、と後悔しないでもないw
が、僕のセンスが常に他の誰よりも秀でていて、それを他の全ての人が認めているというのならともかく、僕のセンスそのものがさほど秀でていなかったり、僕の好みと違うものが僕以外から高い評価を得たり、ということは十分起こり得るし、むしろそうである可能性のほうが高いと思う。
となると、やはりできるだけ「主催者のセンスや好みに左右されないで結果が出せて、その結果について同じ公式で計算すれば、誰が計算しても同じ結論が導き出せる」という感じで、主催者のさじ加減抜きで成立するものにしていかねばならない。
その意味で、こういうコンテストでは普通はあまりやらないんだろうけれども、「審査結果の数値化」「元データの透明化」は心がけたい。
補正公式はボーナス&ペナルティの補正値と並んで毎回悩むところで、実は今回も悩んでいて、なお悩んでいる。


ただ、「公正であること」と「平等であること」は常にイコールではないのかも、と思わなくもない。機会の平等は可能な限り心がけなければならないが、結果の平等はむしろ害であるように思う。
作品は全て出揃っていて、原稿は既にできてしまっている。
今の傑作選という作業は、読者に向けて遺伝記の上澄みのもっともいいところを、買って貰うために尽力するというもの。
この本が売れるということは、それだけ多くの人が本を読むということであり、傑作選に漏れた人の作品が再び日の目を見るためには、選抜組である傑作選が一冊でも多く売れ、その名前が「知られる」ということが果たされなければならない。
素材は既にできているわけで、それをどう見せるか、どれを選ぶかは責任重大である。僕のセンスというあやふやで信頼できないもので決めてしまっていいようなものではない。
遺伝記は過去の超-1同様、審査員の残した数字に基づいて動いている。そして、その数字が裏付ける「意味」を見出さなければならない。
なので、今日も原稿整理の合間に集計値を睨んでこねくり回す。


計算マンドクセ。でもやんなきゃね。