カードと分

管理している幾つかのドメインについて、ぼちぼち更新期限が近いという通知が来てた。
昨年春に、長年付き合ったプロバイダがまさかの事業終了となって、大慌てでプロバイダを変更したが、その折りに長く使ったドメインをひとつ処分した。その煽りで今も整理しきっておらずリンク切れのまま放置されているコンテンツが山盛りあるしorz
そんなこんなで、また更新の時期が近付いてきましたよ、という通知が来てた。
まあ、カード支払でよかろう、特にすることもないなとタカを括っていたのだが、ふと思い立ってよく見てみたら、普段メインの支払に使ってるカードの有効期限が今年の2月までだった。
わー。
ぼちぼち新しいカードが届いてなきゃいけないはずだが、まだ来ない。
他にカードはと捜してみたら、案外沢山カード持ってたw
最近は携帯買ったりなんかの会員に入ったりすると、ほとんど無審査に近い感じでバンバンとクレジットカードが発行される。僕が若い頃は審査厳しくてなかなか持てなかったんだけどなあ、時代かなあ。


借金するのがイヤなのと、興味を失った*1ものにお金を何ヶ月も何年も払い続けるのがイヤなんで、キャッシングやリボルビングはほぼ完全に使ってない。通販でモノを買うのが本業なのでw、クレジットショッピングはしないこともないが、半年後、一年後の自分の暮らしぶりがわからない商売なので、「買い物は一括払い!」と決めている。*2だいたい、衝動買いは5000円まで、1万円越えたらよく考えてから、3万円を越えたらもっとよく考えてから。愛が覚めてからwも普段使いで長く使えるものには惜しまない。
まあ、住宅ローン以外に借金らしい借金もないので、カードの審査が緩いんかなあ、と思わなくもないけど、たぶん最近の審査の緩さはそれとは関係ない気もする。


ちょっと脱線して、バブルとそれがはじける話。
アメリカ人は「借金してでもものを買う」という国民性なのだそうだが、バブル時代の日本だって同じようなものだったから、アメリカだけの国民性とは言い難い。
今手元にあるお金だけでやりくりしようとすると、大きな買い物とかたくさんの買い物はできないから、「将来払うよ」という約束をして、その信用で借金=【将来もらえるはずのお金】を前借りして、先に現物を手に入れてしまうのが、クレジットローンショッピング。
アメリカのサブプライムローンとか日本や中国の土地バブルとかの根幹は基本的にはこれと同じで、「未来のお金を先に使い込んでしまう」というもの。
もちろん、将来もらえるはずのお金を先に使っちゃうのに、収入が横這いなんだとしたら、将来はその分、収入が減って貧乏になる。
でもそれだと、生活水準を向上(=その分、生活のランニングコストが高くなる)させた分のコストが足りなくなるから生活水準を下げる、というのが健全な判断。
ところが、一度贅沢や潤いのあるライフスタイルに慣れてしまうと、貧乏な生活に戻るとか、不便で不足しがちで低質で劣悪、というものに甘んじるというのがガマンならなくなるのが人間というものだ。
そうすると、なんとかして生活を維持したいから、必要な費用を「さらに先」から借り出して使う。
住宅ローンはだいたい35年がほぼ限界で、50年ローンとか100年ローンとか300年ローンっていうのはあんまり聞かない。あるかもしれないけど、個人向け主力商品ではごく少数か、ほぼあり得ない。
何故かと言えば簡単な話で、人間には寿命があり、支払能力についての信用を得る20代後半から30代くらいに将来にわたる支払の信用を得たとしても、それは「収入があるのは現役の間だけ」と限定されるので、65歳で定年だとして35年くらいが、前借りできる期間の限界となる。
それじゃ足りないってことになると、支払ができる期間は35年しかないのに、あちこちから薄く広く気が付いたら分厚く、つまみまくるようになる。
返済能力が月20万しかないのに、返済額が月50万くらいになっちゃったりするとどうなるかというと、破産、破綻、と。
これが、一人だけに起こるのではなく、社会全体が借金で未来の金を前借りし、企業や国が今はまだない「未来のお金」に手を付けまくった結果、実は返せないということが判明して、「そんな金は最初からなかった」という感じでバタバタ倒れ始めたのが昨今の大恐慌サブプライムローンバブル崩壊の原理、ということになる。


まだない金や、まだない名声に基づいて、今の自分には金や価値があったりする、という考えに陥って、未来からの借金で今に投資し、今の自分を大きく高価に見せることで、さらに未来から大きな金額を借りてこよう、というのが景気の拡大或いは実体を伴わない消費の拡大であったのだな、というのが結論なんだけど、それが進行しているときには、「おかしい。身の丈に合ってない」ということに気付かなかったりするんだよなあ(´・ω・`)
人に良くして貰えるとか、銀行がやたら愛想がいいとか、まだ何も成果を上げていないのにちやほやされるとかいうことが、ごく稀にある。これは、「将来性」とか未来に儲かる/地位が上昇するだろうことを当て込んだ前借り、または前貸しなのだと思う。


昨日のキーワードにあった「分」は、「ふん」ではなくて「ぶん」。
身分の「分」。または、「ぶ」とも読む。
「分を弁える」(ぶをわきまえる)、というのは、自分の身分・能力・権限を知り、自分が賄える能力を超えた過剰な期待や優遇に調子に乗って自分の能力を過信してはいけない、身の丈に合ったことをしなさい、というようなニュアンスの言葉。自分の上限は限界を知ってみないとわからないものだけど、一度でも上限におでこをぶつけてみると、今度は「ああ、これくらいがほどほどなのかな」と思うようになる。


「冒険をしないことをなじるのは、冒険をしたことがない人間である」
というような言葉が横行した時代があった。バブルの頃、それこそ未来は無限に右肩上がりだと信じていた、強気なランティエの方々とか。
そういう生き方もありなんだろうけど、冒険の厳しさは冒険をしてみないとわからんものであるわけで、冒険を一度はやってみた後で初めて自分の「分」というものがわかるということなんだろか、とか、今回の大恐慌における金の流れとかを見るにつけ思う。
派遣村であぷあぷしている人々たちだけでなく、六本木あたりで辺りでぶいぶい言わせてた人たちなんかも、自分達の能力の限界や分はもっと上で、期待されたのに見合うだけの余裕がもっとあると信じていたのかもしれないけど、現実はそうじゃなかった、みたいな。


僕らは分を知る。現実を知る。限界を知る。
「分を知る」というのは諦めてしまうこととイコールではないとは思うんだけど、今、こういう時代をコンパクトに生き延びるためには必要な方便じゃないかなとも思う。
誰もが右肩上がりの時代は、太く短く大勝ちする英雄が羨ましく眩しく思えたりもするのだけど、そうではない時代にシフトした今は、とりあえず生き延びることを最優先にしつつ、楽しみや喜びの質を方向修正していきゃ、それなりに楽しいことはいっぱいある。
分を知るとはそういうことであるわけで。
この考え方の反論として、「諦めない人が成功を掴むのだ」というのは絶対に出てくると思うのだけど、富や名声の集約に成功する人というのはごく少数で、一握りの勝者の前に大多数の人々は死屍累々の屍になる。負け組は黙ってろ、で昔は済んだw が、勝ち組ではない人間が多数派になってくる時代、一握りの勝者は次の日には打たれる杭、引きずり下ろされる生贄に変わっている。おっかない話だ。


前と同じ、っていうのが通用するかどうかは、自分を取り巻いている環境次第なんだけど、自分を取り巻く環境の変化の中で、それでもそれまでのやり方を維持するのか、環境の変化に合わせて規模拡大だけでなく規模縮小に甘んじることも受け入れるのか、そういう色々に対応できる人のことを、「君子豹変す」というらしい。
君子豹変は前にも文庫本の前書きだったか後書きだったかのネタにしたことがあったがw、よく言われる君子豹変は「君子と言われるほど高潔な人が、いきなり獰猛な豹のような恐るべき悪逆な側面を見せる」というような、悪意を含んだ意味で使われることが多い。そうでない場合も「いきなり変わる」という、やはりどちらかというとネガティブか、サプライズを含むニュアンスでの用法が多い気がする。
確か本来は「豹が周囲に合わせて体毛の柄を変えるように、変化に対して柔軟かつ変幻自在に対応できるのが君子というものだ」というような意味らしい。つまり「非と気付いたら改めることに抵抗がなく素速い」みたいな。そして、「それによって日々成長する」みたいな。


高度成長期もバブル時代もサブプライムローンが弾ける寸前までも、成長とは規模の拡大や地位の向上を意味してきた。
でも、成長のための変化は、いつも規模の拡大とイコールじゃないんじゃないかなと、この低成長の時代に身を置いているとそう思えてくる自分は小市民w

*1:モノを買って手に入れると病が治まって執着心は消えますw

*2:バブルの頃なんかには「借金は男の甲斐性」とか、「借金の額が男の信用を決める」というような言葉が飛びかっていたが、天文学的な甲斐性と信用のある人たちは今も元気だろうか。