怪ダレ重版出来!

昨年刊行の「怪異伝説ダレカラキイタ?(1)タタリの学校」の図書館版(ハードカバー版)に重版掛かった、との連絡が今し方。
わーいわーい。というか、ハードカバーで重版掛かるとこんなに嬉しいものなんですなw 文庫では随分重版いただいてるのになあ(^^;)






怪ダレに限った話ではないのだけど、自分のやってる仕事についてちょっと考えた。
雑誌畑から来たせいもあるし、元々編集仕事が多く、そして好きだからというのもあるかもしれないんだけど、僕は「やりたいようにやる仕事」というのにはあまり縁がないというか、まだその域に達していないように思える。
例えばそれが実話怪談としても、ホラー小説としても、児童書怪談としても、ホラーゲームのシナリオとしても、それらは好き勝手にやりたいことをやってるわけではなく、必ずオーダーというのがある。
実話怪談本では、作り話ではなくて取材に基づいた聞き書き話をというオーダーがまずあるわけで、それを満たさないと用意されたハコの表書きと中身が違うものになってしまう。
児童書怪談なら、読者ターゲットが小学生なのだから、大人向けの単語や表現より厳しい制限があったりする場合がある。
ゲームのシナリオは、もちろんプロデューサー/ディレクターからの様々なオーダーというか細かい注文があって、それに則ったものを書くということになるわけで、ここでも自分だけが全責任を負うのと引き替えに好きなように書いてよい、という仕事にはならない。
発注者のオーダーを踏まえた上で、そのオーダーをクリアして、その上で自分のやりたいこともこっそりねじ込めるかな、どーかな、くらいの。


「何をしていただいてもかまいません、好きなようにやってかまいません、どんなものができてきても一言も文句を言わずリテイクも出さず、できてきたものを一字一句損なうことなく商品化させていただきます」
と言われるくらいになれたら、それはそれで凄い出世なんだろうけどw、なんというかまだまだそんな地位にはなれそうにないし、この先もそうなれるかどうかぁゃιぃ
そう言わせるのが芸術家で、そしてそれが誰か他人が途中で手を入れたりしなくても常に100%のものを一人だけで作れて、100%売れるという存在でなければ、そういうことを言わせて好きにやれるっていう身分にはなれないんだろうなー、と思う。故に、そういう立場で好きなものを好きなようにできている人については、尊敬畏敬の念しか浮かばないというか。


一方で、「こういうオーダーがありまして」「でも、こういう制限がありまして」という職人仕事というか、条件付き制限付きの仕事というのには、白い紙に好きに絵を描ける仕事とは違った種類の面白さというのもある。
制限の枠内で如何に抜け穴を探すかとか、リミッターの限界を探ってみるとか、想定外のやり方を想定内に納めるとか。
本作りは一人だけでする仕事ではなく、編集部の企画意図や営業部の販売意図、需要・供給側の駆け引きや意義みたいなもの、そういういろいろなものが複雑に絡み合ったりしている。
こういう仕事では、自分のやりたいことしたいことだけを突っ張ることはできないから、「じゃあこれはこう直しまして」「ここんところをこうしてみたら」「では、替わりにこれを」「間に合うようにここはこう修正しまして」「間に合わないので漢字は開いて平仮名にします」みたいな感じで、柔軟性を持って対応しながら、どこかに隙wはないかと探してみたり。
そういう一種政治的wな駆け引きや制限の中で、どれだけ「虚を突くか」ということを突き詰めるのが、醍醐味というか面白さなんだろなと思う。たぶん、僕らの分野だけに限った話じゃなくて、あらゆる仕事に多かれ少なかれそういう側面ってあるんじゃないだろうか。


現在4巻目が大詰めに入りつつある怪ダレシリーズは、児童書怪談であるわけで、大人向けの実話怪談本と比べると、何かと制限が多い。ゲーム仕事も制限多かったけど、その比じゃないw
剥き出しな乱暴なことを書いてもよいというわけではないし、難しい漢字は使えないから漢字熟語・漢語的表現は多用できない。かといって、優しく易しい言葉を平仮名で羅列しても怖くはならない。
大人向けの本ではおよそ想定していないような約束事もあったりする。わからないことだらけで始まって、やはり今でも「ああ、これは大丈夫なのか」「えっ、こっちがダメなの?」と、面食らうことはあるけれども、この手探り感が面白い。というか楽しい。
誰にも手を付けさせない自分だけの原稿ではなく、校正・校閲さんや編集さんやその上の偉い編集さんやw、その他の著者や、あっちこっちから手が入ったり物言いが付いたりするのを、「じゃあ、こうしてみよう」とあれこれ手直ししていく、とそういう作り方。
これをウザいとか、面倒とか、自分の原稿が穢されたとかwそうヘソを曲げずに楽しいとか思っていられるのは、恐らくは僕がまだまだ未熟であるということの証しなんだろかと思わなくもない。自分一人の力だけで原稿を完成できないのは未熟だというなら、確かにそうだ。
が、誰かのアドバイスで「ああそうか」と落鱗する余地があるということは、それは自分がまだまだ熟していないということであり、またそのアドバイスや工夫によって、一人だけでやっていたときよりマシになったりするのだとしたら、それは己が未熟を自覚することと、同時に一歩分くらいは前に進んだことを自覚でもあるんじゃないかなと思ったりもする。
そんなわけで、24年やっててもまだまだ全然未熟。新しい仕事に手を付けるたびにそう思うのだけど、ひとつ仕事が終わるたびに「ああ、1冊分成長したぞ」という気持ちにもなれる。
未熟を自覚しつつ、謙虚に柔軟に強かに。常に前よりマシな仕事を残したいと願いつつ。


怪ダレ(1)の重版をバネかつ心のご褒美に、怪ダレ(4)も仕上げたい所存。頑張ろう。極2も。