怪癒

そういえば、恐怖箱 怪癒は解説が入るつもりで進めていたのが、最後の最後で本文の頁数が2頁分足らなくなって、解説を削ってしまったorz
まあ、解説などなくても怪癒の内容は寸分たりとも色あせないので、却ってそれはそれで良かったんじゃないかな、と思っておこう。


雨宮淳司氏の文章は非常に濃厚で、時に硬質で、漢語を多用する文体は時に難解で、子供を寄せ付けないwというか大人をも苦労させるというか。僕が関わってきた本の中では恐らくダントツでルビが多く、またルビを振ってあっても日常語としてはほとんど見かけないような言葉、表現だったりするので、読者は大変だろうなー、と妙なところで心配してしまうのだったw


僕は子ども向けのゲーム攻略本あたりやゲーム雑誌から身を起こしてこの仕事に入った人間なので、「過度に難解な言葉を選ばない、読者に負担を掛けすぎない」というのを口酸っぱく仕込まれてきた。去年今年と児童書を手がけさせて頂いた折にも、なるべく熟語に頼らない、意味が通じるような言葉・表現に言い換える、しかし子供だましにはならないようにする……というジレンマに揺れながらも、「平易でわかりやすい表現が正義」という方向に針が振れていた。
雨宮氏の文章は逆にそういった遠慮は一切なく、「それが、この話の元になった時代の常識、日常なのだ」というのを、大人の時間、大人の空気、大人の時代として描いている。むしろ、そう描くためにあの文章が必要なんだろうなとも思えてくる。


これが小説なら「作風」とでも言いたくなるところだけど、小説かと見間違うほどの精緻な筆致で描かれていてもそれは、実体験談に基づく実話怪談であるわけで、雨宮氏が抱えている体験談を表すのには、雨宮氏の今の文章がいちばんしっくり来る、ということではないかと思う。
怪談書きは、自ら望んで書くというよりは「話の側に選ばれて書かされる」*1んじゃないかなというのは、今更僕が仰々しく言うほどのことでもなくて、怪談を仕事にした経験がある人なら、薄々感付いているのではないかなとも思う。


その意味で、正に雨宮氏がそういう文章を書く人だから、こういう体験談の側が雨宮氏を指名したっていうことじゃないかと。
僕が心霊落語っぽい話と厭怪談ばかりなのは、僕がそういう文章だから指名されたってことで、夢明さんがグロ狂気怪談主体なのもまた、そういう文章だからそういう話が来た、ということなのかもなあ、とか。
その意味で、やっぱこちらの都合で話を選ぶっていうことは、できそうでいてできないという気もするw


怪異というのは死と同じくらい平等で、荘厳な人のところにも、マジメな人のところにも、老人にも、幼児にも、ヤンキーやDQNっぽい人のところにだって現れる。しばしば触れてきたけど郭や閨房で真っ最中のときにも現れるわけで、晩年の老人が語る鉄火場の思い出の中の出来事ばかりが怪談に〈成る〉わけでもない。現在進行形の、今の若い人の中にだってそういう怪談は在るわけで、それぞれの出来事が起きた時代、それを体験した世代・年代、リアクションwのリアルを描くことを優先するなら、それに合わせた分だけ様々な文章が求められるんじゃないだろうか。
だから、雨宮氏の文章があったが故に、そういう話に呼ばれたってのは言い過ぎかなあ。


一方で、雨宮氏の文章も完成しきってるわけでもなくて、直腸内異物のとき、昨年の怪医、今年の怪癒で、じわじわと進化を続けているように思う。これは進化なのか変化なのかはわからないけど、「文章が話に必要とされる」一方で、「話(体験談)は毎回違うため、毎回違う体験談に合わせて、文章のほうも変化し影響を受けて変わっていく」んじゃないかなという気もする。怪談に限らず文章は書けば書いただけ、そうと望まなくても上達するものだが、実話怪談屋は実は【体験談側から見たら、都合のいい依童に過ぎない】のだとしたら、体験談側の都合wに合わせて、こちらの文章もどんどんフレキシブルに弄られてるんじゃないのか――というのは若干考えすぎですかそうですか。


怪癒の解説にはこんなことを書こうと思っていたんだけど、上述の都合で入らなかった。でも、頁数きっかり合ってたとしても、こんなにたくさん入らなかっただろう。書きすぎ書きすぎ。

*1:確か夢明さんも何かに書いてたと思うけど、どこで見たのかはちと思い出せない(^^;)