打ち合わせをこなしたり

リテイク出しをしたり。
やっぱ編集者として一番辛いのは、リテイクを出さざるを得ないとき。
ディレクションミス*1だったなあと思ったり、作家さんががっかりするだろうかと思うと、「皆が悲しい思いをする厭な仕事」としてついつい心の棚に上げがち。
もちろんそれではいけないので、心を鬼にしてリテイク出しをしたり*2。タイムアップになると自分で直しちゃったり。*3
でも本当は当人が悩んで直さないといけないものなので、やっぱり時間切れにまでさせてしまった自分のディレクションミスをなじって凹んだり。*4
世の中にリテイクなんてなければいいのにと思わないでもないけど、そうもいかないのでまた今日も重箱の隅を突く。*5

*1:方針を模索しながらの仕事の場合、実は指示出しが重要であったり、アクセル踏み込む仕事と同じくらい方向修正やブレーキを踏み込んだりする役目もまた重要であったりするのだけど、首根っこを捕まえる仕事というのは、恨みを買っても仕方ない部分もある。世の編集さんに幸あれ。

*2:思えば、修業時代には先輩によく直されたり、「やりなおし!」「自分で考えろ!」とかやられたっけなあ。何が悪いのかわからなくて闇雲に直すほど出口が見えなくなり、完成品を見ると(先輩によって)あっけないほどキレイに直された文章が載っていて、なおかつ原稿料分は支払われてきたり。自分の文章じゃないのが載ってるのに原稿料受け取るのが屈辱だったり、挙げ句「思いあがんな。責任果たせ」と叱られたりり。あの頃しごいてくれた先輩や編集さん達、今はお元気でしょうか。

*3:文法的な誤りや誤字・表記統一は半自動的に直してるけど、作家の持ち味=正攻法から許容できる範囲内に崩すことでもあるので、どこまで直しても大丈夫か、どこまでなら作者の持ち味を殺さないか、しかしどこを過ぎたら容赦なく直すべきなのか、この見極めって毎回悩む。一緒にお仕事する作家さんが多様な場合、ひとつのルールに全てを合わせさせるわけにもいかない。が、複数の作家で一冊を作るときは、読み手の不便を考えればある程度の一体感や読みやすさは考慮しなければならないし。こだわりと読みやすさの両立って奴は、24年やっても決定版の答えが見つからない。その時その時で、作家と本とそのコンセプトとに合ったものにカスタマイズしていかなければならないわけで、終わりとかゴールとか極意ってのは見えてこないorz でも、「同じ言い回しが一見開き、一文の中に何度も出てくる」ようなクセというのは、まとめて読み返すと割と直ぐに目に付くようになる割に、書いている当人は案外気づかなかったりするものらしい。プロ中のプロのようなベテランさんでも、デビュー一年目の新人さんでも、この「書き癖」というのは必ずあるようで、これをどう殺さずに直すかというのが、それぞれの担当さんの悩みどころであるのではないだろうかとか思う。小説家の場合、そういった基本部分は「自己管理、自己修正ができる人」以外は、戦力外として切り捨てられたりするほど過酷でもあるらしいのだが、他人に指摘されないと気づかないことっていうのについて、他人を頼れないというのはなかなかに過酷で大変だなー、とか思った。自分が専業作家でなくて本当によかったw

*4:実際、自分でやってしまうのが手っ取り早いと思うことはしばしばだけど、それなら編集者が著者になればいいのであって。まあ、だからこそ、フラストレーションの行き場を持て余した末に、編集者から作家になっちゃう人も少なからずいるんではあるまいかと思わないでもない。

*5:企画だけポンと投げて、特に何もせずに思い通りの作品が仕上がり、作者も申し分なく編集者も不満なく校閲さんも何も言わず発売日にも間に合い、そして当然のように売れて重版も掛かる。そういう仕事がいつもできれば、これほど楽なことはない。が、そんなのは夢。