表記統一

蟻地獄、ようやく表記統一作業に突入。
この辺りまで来ると、かなり機械的な(しかし大部分は視認と人力な)作業に入ってくる。
毎度のコトながら、著者が複数いる本の編集でいちばん大変なのは、文章の推敲作業などを別にすれば、やはり表記統一かもしれんなあ。
最近でこそ、校正ソフトに掛けて懸念箇所をざーっと洗い出しすることができるようになったものの、同音異義語の整理とか「用法的にどちらも間違いではない」というのが複数あるようなケースでは迷う迷う。
個々の著者の作風、文体、要するに「書き癖」の差から、常用する漢字・当て字も違ってくるので、それらも考慮しつつ「一冊の本」として読者が一気読みしたときに、表記の違いが読む流れを止める違和感になってしまわないように気を付けなければならないのだった。
これは約物の使い分けなどにも関わってくるのだが、「最悪でも同じエピソードの中では揃っている」、「できる限り一冊の本として揃っている」というのが僕の中の最低基準。ルビは「初出時に付けて、あとは省略」とか。
また、この表記統一作業の際に「まとめ読み&流し読み」をしていくのだが、ここで個々の著者の癖がはっきりと浮かび上がってくる。
原稿を選ぶために一話ずつに集中していると気付きにくいのだけど、実際に掲載順(構成案)を詰めて、完成型=読者が読むのと同じ順番に揃え直したところで、原稿を「1冊」として頭から一気に読んでいくと、そうした著者事の癖というのが非常に目立つ。
「超」怖い話や恐怖箱系では、「著者別に分ける」というようなことはせず、テーマや事象などに沿ってスムーズに次の話にシフトできて、最後まで恙なく読めるように、ということを心がけて編集しているのだけど、そういう作りを目指すと当然ながら「違う著者が書いた違う話」の手触りの差というようなものが際立ってくる。
個性はないよりゃあったほうがいいのだろうけどw、個性というかアクが強すぎる文章というのは結構厄介だ。
1話だけ単体で読む分には個性で引き立つ話なのに、それを連続して読むと3話で文章に飽きるとか、他の著者の作と入れ替わり立ち替わりで読むと、浮いてしまう文章とか。
個性、もしくは独自の文体というのは、要するに「直しきれなかった癖」であるわけで、その癖の違いが個々の文章に「個性」を与えているのは確かだ。それがプラスに働けば、「文章を読むだけで誰の作かわかる」というアイコンのような効果も期待できる。
が、同じ「文章を読むだけで誰の作かわかる」というのが、マイナスに働く場合も起こりうる。
独特な文体であっても、読者に「癖が強くてなんだか読みにくい」と言われてしまったらそこでアウト。文章は伝えたい内容、この場合は実話怪談の元になっている体験者の体験談を遍く余さずできるだけ元の体験に肉薄し、体験を再現するように書かれていることが望まれる。
その意味で、まず最初にしておくべきことは基本に忠実な癖のない文章を心がけることじゃないかなあ、と思う。
どうせたくさん書いているうちに癖は付いてくる。気に入った作家の文体、口ぶりをついつい真似てしまうとか、影響を受けてしまうといったことも珍しくない。そうやって真似たり影響を受けたりといった取捨選択を重ねていくうち、どうしても直らずに残るのが自分の文章の「癖」であり、それを第三者が「個性」と認定する。その意味で、文章の個性というのは、自分で意図的に演出して付けるものじゃないんじゃないのかなと思う。
が、たくさん書いて、たくさん書いた文章を「まとめて一気に読む」、他の著者の作品と入り乱れながら一気読みをしていくと、書いているときには気付かなかった文章の癖というのが、猛烈にはっきりと浮かび上がり、自分でも「また同じこと書いてる!」ということに気付いたりするようになる。
「〜とか」「と思う」「という」「〜すると」「ながら、」「けど」などなど、文末に付く接続詞の類で毎回同じことを書いていたり、「〜すると、〜などと、〜と思うと」のように、一文の中に同じ表現が繰り返し現れたり、「右の奥の女の左手の」のように修飾詞と助詞が複雑に重なっていたり、或いは句読点なしの長文だったり、一文が2〜3行以上に渡っていたり。*1
他に、実話怪談の締めで頻出するのが、「その後のことはわからない」「グラスをぐいと傾けた」という定型の締め文や、「意識を失った」という場面転換。一話だけだとふむふむと読めるのだが、これが3話も4話も続くと、読者の側は「またそれか!」となってしまう。体験談を書き起こすのが実話怪談なので、体験者が体験していないことを書くわけにはいかないのだが、「どこで話を止める(切り上げる)か?」という恐怖の余韻の設定は難しい。毎回、同じ切り上げ方をしてしまうと、全く内容の違う体験談であっても、全て同じ読後感になってしまう。
これも、一話一話を個別に書いているときには気付きにくく、また一話に全力投球して何度も書き直していると、ますます気付かない。
こればかりは、書き終えたものを「まとめて一気読み」をしないと、ほんと気付かない。
まとめて一気読みをするには、結局「とにかくまずはたくさん書いてみる」というのをやってみないとダメなわけで、とにかくたくさん(違う怪談を)書くには、たくさんの体験談と出会わなければならない。実力が育ってくるまで同じ話を何度も推敲して、他の体験談は将来のために温存して……というやり方ももちろん否定しないけど、大切に取っておいたとっておきの体験談であっても、他の人に先に書かれたり、似たような体験談を先に書かれたら、その体験談が唯一無二であっても「怪談」としてはそこで陳腐化*2してしまう(´・ω・`)
まあともあれ、「原稿を山ほど一気読み*3」というのは自分の原稿であれ他人の原稿であれ、読むの大変だけど得るものは大きい。


修業だよなー、これ。

*1:恐怖箱/「超」怖い話ルールとしては、1行40字として、一文は1.5行程度、長くても2行、3行目に突入する長文は、どこかで一度分割する、という感じ。

*2:読者にとっては「またそれか」と思えてしまう(´・ω・`)

*3:編監修者は、校了までに最低でも10回くらいは読む。でもたくさん読み過ぎて自分でもよくわかんなくなってくるので、ときどきインターバルを置いたり、初見初読の小人さんに「パッと見」で気付いたところを指摘してもらったり、また人海戦術で対応したりすることになる。著者が(表記統一や推敲などで)変わり果てた自分の原稿に驚く、というようなケースも稀にある。恐怖箱/「超」怖い話だと、そこまで大手術をすることは滅多にないけど、著者当人も書いているうちになんだかよくわからなくなっちゃったらしい、という文章は新人でもベテランの作でもしばしばお目に掛かる。みんな疲れてるのだと思う。