ネット辻演歌に不覚にもツボを突かれた
【重音テト】共生のハトエリオン【友愛賛歌】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7494955
鳩山代表の友愛的主張全般+党首討論での主張+偽装年金についての釈明などについて、当人の主張を判りやすく「創聖のアクエリオン」のメロディに乗せて歌にしてみた。というもの。もうひとつは「北斗の拳」。
ぶっちゃけ替え歌なわけだが、4分42秒の中に節回しよくそれらが全部収まっているというところがミソだと思う。*1
以下は別に読まなくてもいい駄話。*2
一昔前なら、つぼイのりおか嘉門達夫か山本正之か、そのあたりくらいの人々が手を出したり頭を引っ込めたりしながらやってた分野なんだけど、こういうのがどさどさ出てくるようになったので、永遠の辻演歌師*3好きとしては、によによしたくなるw
元々、世評や政治に対する不満や主張を、街中(=辻)で青年壮士が怒鳴っていたのが、世に言う演説の日本における草創であったらしい。
それ以前は、堂々と人前で主張をするなんてことは許されなかったので、せいぜいが「勤皇志士が集まって寺田屋で密談争議」とか、「辻に天誅の立て札」とか、そんな感じで主張が表だって行われることはなかった。
これが、明治期に入って万事公論つまびらかに議論すべし的な気風が広く知れ渡るところとなり、後の「言論の自由」に繋がっていく。まあ、そこに至るまでの間には、政府による新聞検閲だとか、戦後ならGHQ検閲とか、戦前、検閲ではないけど何度も政府批判をして会社を潰された宮武外骨とか、まあ、いろいろな先人がいたりするのだが、それが次第に「言論の自由をタテにした商売」に変わっていったのは、また別のお話。
で、その街頭演説というのは、街中で人の前に立って直接自分の主張を聞いて貰おうというものだが、現在は選挙の期間が近くなったりすると行われる風物詩というか、「人前に立ち、有権者に直接語りかけました」というアリバイ作りのために専ら使われているお約束に堕しているような気がしないでもない。
今は、新聞やら電波やら、もっと言えばインターネットやらで、衆知広報する手段はあるわけで、そういった手段がなかった当時と今とでは、街頭演説には同じ意味があるようには思わない。
とはいえ、草創期の当時も街頭演説はあまりちゃんと聞いて貰えなかったらしいwww
だって、大部分の民衆はまだ選挙権がなかったし、選挙権があるような有力者は街頭の主張に耳を傾けるより、候補者が直接説明に来てたし。
その後、広く選挙が行われるようになって女性の参政権なんかも実施されていくようになるわけなのだが、それを広く「これから有権者になる人々に訴える」という目的で行われた街頭演説は、やはり評判は今ひとつだった。
見せ物としては面白かったらしいけれども、マイクも拡声器もない時代に大声で怒鳴るわけで、声なんか枯れちゃったりでますます聞き取れない。そのうえ、如何せん小難しいことを難しい漢語交じりで言うので、興味のない人にはお経のようにしか思えず、すぐに飽きられてしまったり、主張を理解されなかったりすることも多かった。
そこで登場したのが辻演歌で、街頭演説=辻演説を言葉ではなく節回しを付けた歌にしたもの。我々が知っている演歌とは趣もだいぶ違い、内容は政治的主張を節回しを付けて怒鳴る、というようなものだった。
それでも、節回しを付けて歌にするというアイデアは、単なる演説よりは評判が良かったらしい。
これにそのうち三味線やバイオリンの伴奏が付くようになる*4。
曲は毎回オリジナルというわけでもなくて、最初のうちは都々逸とか、民謡とか、そういったものを拝借して、歌詞だけ主張したい事柄に載せ替える、という形だったようだ。
これがそのうちに、流行りの曲に別の歌詞、という形で定着していって、同一のメロディに乗っかる無数の派生曲=替え歌になっていった。
なので、一度メロディを覚えてしまえば、歌本=歌詞カードさえあれば誰でも歌えてしまい、歌を覚えてしまえば繰り返し歌われるようになるので、当人がいないところでも複製された主張が広く伝わるようになる。
だいたいそんな感じで活用された。
選挙が広く行われるようになると、この辻演歌は政治的要求から政治批判になったり世相風刺になったり風俗流行を伝えるものになったり事件を伝えるものになったりした。
関東大震災の様相を伝える辻演歌というのが実際にあって、都心部がどんな惨状にあるかは、歌=噂で伝わったという。またそれの復興の兆しも歌で伝えられた。辻演歌師は吟遊詩人とマスコミと反骨の志を全部兼ねていたようで、そのへんの純粋さは、その後に政治的偏向(政治批判が、政府批判に変質)と商業主義に傾いていって、今のマスコミと音楽業界になっていくわけなのだった。
話を戻すと、
「誰の指図・規制も受けずに自由に作られた歌*5」を、
「流行りのメロディに乗せて歌い*6」、
「それを辻・街頭*7で公開」し、
「誰でもそれを持ち帰って他の人に*8見せることができる」
というあたり、実はネットで発表されるこうした替え歌の類というのは、本来的意味での辻演歌の精神に立ち戻りつつあるのかも。
たぶん、維新後から40〜50年くらいの間、日清・日露戦争を挟んで日本が熱狂していった時代の情報伝達方法というのは、こういう感じだったのかもしれない。
今でも、駅前なんかでそうした政治的主張をしている人達はいる。
選挙シーズンだったら各党の立候補者や応援演説を見かけるし、それは100年前も同じような風景だったんだろう。選挙以外のシーズンなら、右翼・左翼の政治団体、ついでに「悔い改めよ! 捌きの時は近付いている!」の宗教団体なんかも、それぞれが好きなように主張をしている。
ただ、そうした政治的主張というのは街頭では生温かくスルーというか、ほとんどが聞き流されていてオーディエンスには届いていない。なぜなら、話が長いからw そして、やっぱり小難しい興味のない話だから。*9
街頭演説が様式美以外の意味で廃れた理由はそこにある。
諄くて長い話は誰も聞かない。*10
政治的主張とは若干違うんだろうけど、ストリートで音楽をやっている辻演歌のDNAを引く人達だってけっこういる。
ただ政治的主張をストリートでやるバンドっていうのはごく少ないと思う。それは話がつまんなくなったり、逆の立場の人には受けが悪いからで、できるだけ多くの人が共感できるテーマ――例えば恋愛であったり感傷であったり子供の頃の思い出であったり、抽象的な未来への希望であったりに針が振れるのは、不特定多数に受けようとする商行為を意識したら避けられないのかもしれない。
また、辻(ストリート)というのは通過する場所か娯楽の場所であって、それ以上の立場を表明する場ではなくなってるんじゃないかなー、とか思える。
求められていないことは無視されるというか。
表現者としては、反対されるより無視されるほうが苦しかろう。
表現者は「できれば支持されたい」という思いが強いから、実際に反対されてみると、「反対されるより無視されるほうが楽」と思うのかもしれないけどw、意義が見いだせない無反応というのは実質的には拒絶より辛い。
それにしても、この手の「替え歌」は、歌詞のうまさと歌のうまさの両方がバランス良くできてないとおよそ聞けたもんじゃでないのだけど、重音テト(UTAU)もここまできちんと歌わせることができるようになってきたっていうのがまた凄いと思う。
いろいろ感心したりツボに入ったりした。
*1:ダジャレや古典落語、実はモンティ・パイソンなんかもそうだけど、皮肉というのはその背景になっている情報を知らないと、何がおもしろいのかわからなかったりすることばしばしばあるわけで、こういうネタは決して万人向けではないのだろう。わかる人にだけしかわからない、というのは万人には売れないし受けないし、わからない人がわかる人を妬んだり嫌ったりというようなことも出てくるだろうし。でも、過剰に字幕入れたり説明を付けたりというバラエティ番組がどんどんつまらなくなっていったのと同じで、「多少はわかりにくいくらいほうほうがいい」「楽しむための努力が見る側にも求められる」「一度で全てを理解できない」というくらいのほうが、断然面白いような気もする。エヴァンゲリオンとか東のエデンとか攻殻機動隊とか、まさにその典型だし
*2:さぼり記の大多数は読まなくていい話ばかりだw
*3:演歌つっても五木ひろしのほうではなくて、添田唖蝉坊のほう。
*4:バイオリンが使われるようになるのは、かなり後のことらしい。また、この辻演歌からチンドン屋が派生するらしい。
*5:歌詞
*6:歌わせ
*7:ネットで言えば無償でデータ閲覧/提供がなされる場は辻と言えよう
*8:歌って/歌わせている様を
*9:たぶん、同じ理由でこのエントリだって大多数の人は読まずに流しているw
*10:ただ、短く結論だけを言ったら通じるけど、その裏にある意図や経緯は理解されないので、誤解や誤認のまま話が進んだり、スローガンだけに煽動されたりしやすくなる。