爆笑した

怪談は、オチがわかるとつまらない。
で、怪談を読み慣れた人というのは、話の前振り、状況、人によってはタイトルを読んだ瞬間に、「どういうコトが起きて、結果的にどうなるか」まで想像できてしまったりする。またそれが的中したりもする。
怪談には、例えば金縛りであったり、禁忌破りであったりと、類話として相似性のある体験談もあるわけで、このへんいろいろ読み慣れていると「次はこうなるのでは?」という、過去の読書体験や当人の固有体験から可能性を類推するようになる。怪談脳が発達してしまっているジャンキーさんは、ちょっとやそっとの奇事変異には耐性が付いてしまっているので、実話怪談屋としてはなかなか聞いたことのないような話を聞き拾ってくるのに苦労するw


そして、怪談というのはオチが割れてしまうと、ほとんどの場合、もう一度読んで貰うのは難しい。傑作小説はオチまで分かっていても再読に耐えるけれども、怪談の場合はオチに至るまで、そしてオチというか怪異の原因や怪現象の結果などが説明されてしまっていると、もう二度目は読んでいただけない。やはり「何が起きたか」「何故か」という希求を満たすことを求めている読者の方が多いせいかと思わないでもない。


そんなわけで、僕は進行中の仕事の「内容」については極力先行公開しない主義。そして発売後もしない主義。
結果、どーしても実話怪談を仕事として扱っていると秘密主義にならざるを得ない。職業的習慣ということで致し方ない。
でも、怪談、その素材となる体験談というのは、「人に話したくなるような話」ほど良いのではないかと思う。
そもそも怪談というのは他人の不幸の一端を紹介する性質の読み物であるわけだから、良いとか傑作とか名作とか、そういう尺度で評価するのは本来は褒められたことではないのかもしれない。なので、「良い怪談」という言い方はこれまでも極力避けてきたのだけど、やはり「凄い怪談」というか「たまらん話」というか、そういう評価基準のようなものが僕にもあることはある。
良い怪談とか名作とは言いたくないので、敢えて「凄い怪談」という言い方で。
これまでに出会ってきた、例えば僕自身が委ねられて書くことを許された怪談や、僕が書いたわけではないけど、「見つけた人が世に残して大正解だった!」と思わず思ってしまうような凄い怪談のうち、僕が「これは凄い」と思ったものは、いずれも「他人に話さずにはいられなくなる」というものであった気がする。


自分の見つけた話でも、他の作家さんが見つけた話でも分け隔てなく、本当に凄い怪談というのは、誰かに教える、本を読めとかではなく、今この場で自分が話して聞かせる、聞かせずにはいられない! というようなものが多い。
それは、呪い祟り系、心霊落語系、グロ系、そういうカテゴリ分けとは何ら関係がない。
とにかく「これは凄い。誰かに教えたい!」と、そのへんを歩いている人を捕まえて「話を聞いてください。実はこんな話があって」とやりたくなる話。そして、「何か怖い話ない?」と不意打ちで訊ねられたときに、真っ先に頭に浮かぶ話。
で、「いや、実はこんな話があって!」とすぐに切り出せる話。
こういうのこそが、真の凄い怪談ではあるまいか、と思う。


で、そういう「すぐに思い出せて、すぐに話せる怪談」という凄い怪談の、真に凄いところはここからで、その話を聞いた人が話の要点をすぐに理解できた挙げ句に、酔っぱらって聞いていてもその翌日には次の宴席なんかで、話の要点を損なうことなく次の聞き手に聴かせることができたりする。
怪談というのは、「聞いて、語って、次に聞かせる」ことで伝播していく。
さらに言えば、介在者が飛び抜けて語りに秀でている人ばかりではない。口べただったり話し下手だったりする人は珍しくない。職業的に人前で話をする人ではなかったりしたら尚更だ。
そういう人ですら、家庭に戻ったら晩飯の卓で奥さんに、その話を聞いた奥さんがその翌日に近所の公園のベンチで次の人に語らずにはいられないような。
そういうのが力のある、凄い怪談なのだと思う。


普段、こと実話怪談に関しては、文章として際立って美しく個性のある作品に仕上げることよりも、これを読んだ読者が自分の友達や家族や兄弟や知り合いに、「こんな話があるんだよ!」と語りやすいテキストになっているかどうかを心がけているつもり。自分が見つけてきた怪談が、誰かの口の端に上がり続けるってのは、やっぱり怪談屋としては嬉しいんですよ。凄く。自分の書いた話そのものが繰り返し読まれ、「知ってる?」「知ってる!」と確認されあうのだって嬉しいけど、「こういう話があるんだぜ! おまえ知ってるか?」と得意げな顔で、まだ知らない人に語る人を増やしたいというか。


そういう「凄い怪談」には一生のうちに何度も出会えるモノでもないんだろうし、正直今も怖い話は怖い。一方で、「これは怖い! 1人で抱えているのは厭すぎる!」とか、「コレは凄い! 凄すぎるから誰かと分かち合いたい!」という話との出会いを渇望しているところはちょっとある。
誰かと分かち合うというのを、人前に滅多に出ない商売をしているので「文章に書いて読んで頂く」という形で昇華しているわけなのだけど、その意味でも、読んだ人が文章の出来に唸ることよりも、「聞いてくれよ! こういう話を聞いた(読んだ)んだよ! あのな、実は」と次の人に語れるような要素をきっちり揃えた実用品として、実話怪談を提示できれば、それだけで怪談というものの備えた本質を見極め満たしたことになるのではあるまいか、とか思う。



今、例によって例のごとく複数の実話怪談本を並行作業しているのだが、その中に書き下ろされた幾つかの怪談のうち、久々に夜中に1人で爆笑して今すぐ誰かに語って聞かせたくなるような、もしくは今すぐ原稿を誰かにメールで送りつけたくなるようなw、凄い怪談原稿と出会えた。
文章はもちろん上手いに越したことはないんだけど、この元のネタ=体験談のインパクト。起きている出来事そのもの。この凄さ。
こういうのを人前に並べて、「凄いよ! ホントに凄いよ! 誰かに教えてやってよ!」と鼻息荒くお奨めする、そういう編集冥利に尽きる怪談に出会えると、確かに幸せになる。


一刻も早く教えたい。
僕が見つけてきた話じゃないけど、そんなことはどうだっていい。
ああ、この話を語りたい。
ちくしょーw