選挙前日

さて、明日はいよいよ投票日。
公示後は極力控えてきた*1のであんまりどこそこに入れろ、入れるな、というような、公職選挙法に触れそうなことは避けてきたわけだが、明日から違う日本が始まることになるかもしんないので、とりあえず書くことは書いておく。


まず、第一に。
「自分は政治に詳しくないから」
という人。
誰もが政治に詳しいわけじゃないから、政治の専門家に委ねるために、つまりは専門家に代わりに議論をやってもらうために代議士がいるわけで。
詳しくないからこそ、詳しい人に任せる、というのが選挙です。


次に。
「今の政治はまったくダメだ。だから敢えて白票を入れる」
「自分は棄権という意思表示をする」
という人。
これについて言えば、白紙委任というのは「誰が勝ったとしても、勝者に無条件で従う、自分の意志は示さず、勝者に隷従する」という意思表示であるわけで、それは「信任・委任」とは違う。
民主主義の国にあっては、その第一党は常に選挙で選ばれる。
例えば、戦後長きに渡って自民党が第一党にあったのはおかしい! というような批判が今年は随分飛びかったけれども、自民党を第一党に据えることを自民党自身が決めていたならともかく、最長四年ごとの総選挙で毎回有権者に信を問い、そして有権者の多数が長年に亘って支持してきたからこそ、自民党は「有権者の多数意見の代行者」として政権にあった。
つまり、自民党政治がもたらす利益も、そして自民党政治がもたらす不利益も、自民党を最大多数に押し上げてきた有権者自身が負うべき責任であるわけで、それを「世紀の大悪党集団」であるかのように言うのは、それを選んだ自分達自身の責任を放棄するのも同然。


選挙というのは、「次の(最長で)4年間を誰に委ねるか?」を決めるものだ。
そして、それが決まったからには、その政権の決定に従って世の中は動く。
だからこそ、政権公約マニフェストと言われるものを検分して、「次の4年間で何をするつもりなのか?」をよく吟味する必要がある。
気分、なんとなく、そんな気がして、お灸を据えて。そういう気分で行った投票の結果は、すべて自分達に跳ね返ってくる。
それもまた、民主主義における責任の取り方ではある。


くれぐれも、溜飲を下げるためだけに、投票行動を行ってはいけない。
我々は辛いとき、自分よりうまくやってる(と思しき)人間の失敗や、失墜や、転落や、凋落や、破滅や、失脚や……そういったことを望むものだ。
あいつはうまくやりやがって。自分よりいい立ち位置にいやがって。
自分は大変なのだから、あいつらみんな死んじゃえばいいんだ。自分と同じところまで、いやさ、自分よりさらに下に墜ちていけばいいんだ。
……いい気味だ。
そういう鬱憤を晴らすためだけに、行動を行う人もいるかもしれない。
が、その結果としてこれから起こる利益/不利益の全てについては、投票をした当人が責任を引き受けなければならない。


「そんなつもりじゃなかった」
「そんなことをするとも思わなかった」
「誰もそんなこと言ってなかった」
話が違う!


後から言っても遅い。
だから、よく考えて、投票すべきだ。




民主主義における投票行動については、ひとつコツがある。
それは、「自分の理想に一番近い、最も良い候補を選ぶのではない」ということだ。
逆説的かもしれないけれども、民主主義における選挙では「最も良いものを選ぶ」のではなく、「自分の理想から一番遠い、最も悪い候補を選ばない」ことが肝要だ。

我々は、耳障りの良い、良くしてくれそうな公約に耳を傾けがちだし、宝くじを買ったら必ず当選する気がするし、分譲マンションのチラシを見て「最多価格帯4LDK、最安値頭金0円、月々3万円から〜」と書いてあれば、4LDK(最多価格帯の最大物件)が3万円(最安値)で買えるような錯覚に陥る*2
自分に都合のいいことを謳った政権公約は、必ずそれが守られ、必ず自分に利益だけが来るような気がしてしまうものだ。
しかし、民主主義においては、権利は義務という奉仕とバーターであるわけで、必ず代償は掛かる。
自分に都合のいい利益だけを見ていると、それにかかるコストに気付かなくなる。


また、我々は……有権者というのはその全員が強欲で利己的である。
何か貰えるのであれば、全員で分かち合えるのが一番だが、全員で分かち合えないとなれば、「自分の分だけは確保したい」「自分の取り分は、他の誰よりも多くしたい」と考える。
ビアホールでなみなみ注がれたジョッキの、泡より下の線ができるだけ上にあるものを思わず吟味するし、切り分けられたピザを選ぶときはできるだけ多くサラミが乗っているものを無意識のうちに選ぶ。
そして、自分より多く得るものがいたり、自分の取り分が少しでも物足りない、不満足だと思えば、必要十分であったとしても「不満だ」と思い始める。
上を見ればきりがないのに、常に最大、常に頂点に自分がいなければ納得しないものだ。

そういう「もっともっと」と理想を望む人間が集まって最大与党を作る。もちろん、その最大多数を構成する人数は多くなるから、一人当たりの取り分は当然ながら減る。
そうなれば、自然と不満が出る。
「なぜもっとくれないのか」となる。
利益が得られることを期待していたのに、と。


多くを期待すると必ず失望する。
だから、逆に「それだけはしてくれるな」というテーマをはっきりと定めて、それだけはやらない候補を選ぶのがよい。
つまりこれは、

  • 「実現されることを期待したものが実現されない、という失望」と、
  • 「実現されたくないものが、実現されずに済む、という安堵」と、

どちらのほうがマシか?
という選択であると言える。


政権公約マニフェストというものは、空手形である。
そこに書かれている約束は、自分のところまでは回ってこない。
その上で、「誰が一番良いのか」ではなく「誰が一番マシなのか」を考え、後で「あのとき誰もそうは言わなかった」なんて後悔や、責任転嫁をせずに済むよう、今夜一晩よく考えるのがよかろうと思う。






次の政権与党が決まったら、内政、外交、安全保障、政局、その他もろもろについて、これまでの路線からどう転換され、それはどのような影響を被ることになるのかについての見通しを考えていくことにする。


日本は法治国家であり、民主主義国である。人治主義の国ではないし、あらゆる手続きは法に基づく。
そして、お金は有限で、日本以外の外国の思惑は、読み取ることはできてもこちらの都合に相手が無条件につきあってくれる、という性質のものではない。
明日の行動が今後を決めるけれども、明日、例えば政権与党ではない政党に入れた人も、今後の政権与党が決めていく法律には従わなくてはならないし、政権与党に入れた人が政権与党に不満を感じることがあったとしても、次の選択の機会が巡ってくるまでは政権与党の決定に従わなくてはならない。皆が、民主的な選挙で決めることだからだ。
それが民主主義のルールである。*3




明日は、雨になるようだ。

*1:アレでもw

*2:実際には、最安値は最多価格帯ではない1kだったりで、最多価格帯が最安値だとはどこにも書かれていない。

*3:ソクラテスの「悪法もまた法なり」は、その前後にいろいろあったり思惑があったりするわけなのだが、それが秩序なら従わねばならない、というニュアンスとして。