祭り

昨日、今日の二日間、長崎神社の祭礼。
毎年思うけど、「東京の下町=浅草方面」とか、「東京は三社祭以外は祭りに冷淡」とか、それは先入観のみで語られた気のせいだよな、と思う。


もう、昨日も今日も朝からお囃子が町内を全力で周回。
イベントごとに引っ張り出されるお囃子山車(軽トラ)に、一年間みっちり練習をしてきた町内の子供達のお囃子が乗る。年に20人しか募集されないというエリート中のエリート達wは、年間を通じて五郎久保稲荷神社の境内にある公民館でお囃子の稽古を続けており、祭りでもなんでもない普通の夏の日や普通の冬の日にも、鉦太鼓の音が切れ切れに聞こえてきたりもする。
そういう日頃の稽古の賜を発表する機会だからなのだろう、山車に乗って町内を周回する子供達の表情はとっても生き生きして得意げだ。
神輿を担ぐ大人達もこれまた真剣で得意げだ。
この辺りは子供の頃から祭りのシステムに組み込まれているようなw地元生まれ地元育ちのちゃきちゃきが多く、いつもの飲み友達の姿を、神輿を担ぐ人の群れの中に見つけたりすると、ニューカマーの僕なんかはちょっと羨ましくも感じる。


規模は決して大きくないのだが、老荘青全層が参加する祭り。
五郎久保稲荷については、東京長崎( http://www.tokyo-nagasaki.net/town/album/20030330.html )が詳しいが、北向きの正一位稲荷大明神というのは確かに全国的にも珍しいらしい。普通、稲荷神社*1は本殿、鳥居が南向きに設置されているものが多い。*2僕も初めて見たときは、変わってんなあと感心した記憶がある。


「江戸〜東京重ね地図」を用いて古地図を紐解いてみると、

「笠間稲荷」または「稲荷」とされている画面やや右下あたりのピンク色の「稲荷」という箇所が現在の五郎久保稲荷*3だとわかる。これは1600〜1800年代の古地図なのだが、神社の位置はまったく変わっていない。
現在の参道は本殿から北にまっすぐ延びて、それからマンションにぶち当たって西へ90度曲がっているのだが、昔はどうだったのかが甚だ疑問だった。開発で出口がマンションに塞がれ、参道が折り曲げられたのだろうかと思っていたのだが、こうして古地図のほうを見てみるとその当時はマンションwこそないけれども、通り道に接しているのは西*4側だけで、当時から神社の参道正面北端側は道に接していない。
ということは、昔から北西にカクンと曲がる参道だったのかどうか、そのへんはよくわからない。
ちなみにこの古地図で、南から西へ北西に延びる太い道は現在の光和通り、現在のスカイラークガーデンで北からきた道と合流して江古田辺りでは「千川通り」と呼ばれる道。江古田辺りには桜並木があったりするが、長崎近辺では道沿いに古い家、古い作りの敷地の家が並ぶ。古来からの街道筋であったようで、江戸時代とほとんど道の位置が変わっていない。
同じくこの古地図で南西辺りにちらっと出てくる細い川(葛ヶ谷辺り)に沿って現在の目白通りが作られるわけなのだが、この頃は道の気配もない。ただ、現在も当時の川の後が町区の境界線になっているようで、この辺りは平成の町域にあっても複雑な線引きがされているのだが、古地図と重ね合わせるとその辺りの事情も見えてきてなかなか面白い。


長崎村*5は明冶・大正年代には広大な「牧場」があり酪農が盛んで*6、冷蔵技術が未発達だった時代、都心のミルクホールなどの牛乳需要を満たすため、大いに乳牛放牧がされていたらしい。


今の東長崎周辺からはちょっと想像も付かないけれども、そういう時代、少なくとも500年くらい前からこのへんには人々の生活があって、それが脈々と受け継がれているのだなあ、というようなことについて、祭礼の笛太鼓を聞くたびに想いを馳せるのだった。

*1:狐は田畑を荒らす害獣を食べるので、豊饒の神様のお使い。

*2:知らない土地で方位がわからなくなったら神社を背(北)に正面が南、左が東、右が西。

*3:ほんの少し前まで、というか20世紀くらいまでここは「笠間稲荷」と呼ばれていたらしいのだが、そもそもの元の名前が分かっておらず、それも通称であったらしい。現在の五郎久保稲荷(五郎窪稲荷)という名前の命名式の様子として2003年の写真があったりするため随分新しい神社のような錯覚を覚えるけれども、実際には遺構史跡に指定してもいいくらいに古い。古くて平凡、というか。

*4:北西

*5:地元の人はそう呼ぶ人が多いようで、家康の江戸入府よりずっと以前から、この周辺は「武蔵国豊島郡長崎村」だったのだそうで、遡ると1559年には租税対象となる集落「長崎村」として既に在ったらしい。江戸時代には「武州豊島郡長崎村」。東長崎、南長崎といった地名は、西武鉄道の開通によって生まれたもので、比較的近年の呼称。東長崎周辺が「村」でなくなったのは、大正15年(1926年)で、この年に長崎町になった。

*6:豊島区全般が酪農が盛んで、豊島区だけで60近くも牧場があったらしい。雪印もこのへんで牛乳やバターを作っていた。御料牧場も近辺にあったようで、千川通りと光和通りの合流点、スカイラークガーデンの向いのマンションの一角にある小公園に、当時の史跡を示す碑文がある。また、雪印の看板は今も新江古田近くの交番で見ることができる。