気配を飼う

犬や鳥というのは、なんというか存在感を示すということに積極的な生き物であったように思う。
それと比べて、猫というのはなんと存在感の薄い生き物か。
たぶんこれは、狩りをする肉食獣由来の性質と無関係ではないのだろう。殺気を消して獲物のに近付くのに、存在感がありすぎては都合が悪い。
長く、家の外に猫がいる生活、野良猫と仲良くする生活をしていたが、家の中に猫がいる生活を送るようになったのは今の家に住むようになってから。およそ6年半。
姿が見えなくても、「近くにいるなあ」というのはわかる。気配が感じられる。それは鈴の音だったり、ビニール袋をがさがさやる音だったり。息を殺してジッとしていてもそれとわかる、「そこにいる」という気配。霊感がある人なんかは、同じように感じたりしているのかもしれない。
麟太郎が最初にうちに来たときにはとにかく慣れなくて、ケージから出した瞬間にどこかwに逃げていった。家の中にいるのはわかっていて、前の飼い主*1が躾けてくれたトイレ砂に用足しをしている様子もあり、「これしか食べないのよ」と教えて貰った猫缶も減っていて、「確かにいるんだけどどこにいるかわからない」という具合だった。
そのうち慣れてきて、今では僕の仕事机の上、膝の上、客の膝の上、客の上着やカバンの上、台所の床、晩飯の支度を終えて今正に座ろうと思っていた座布団の上……などに、何の遠慮もなく座るようにもなった。
外から帰ってくると、階段の踊り場にある窓から様子を伺い、ドアを開けると物陰からこちらとジッと覗いてお出迎え、というような具合で、とにかく目に付くところにいようとする、そうでなくても「いる」という気配をぱんぱんに発する生き物として、我が家に君臨してきた。




麟太郎は、昨日から初めての入院中。
気配を感じられない一夜。
あの牛柄のもふもふした生き物がいないと、こんなに寂しいものかと驚いた。

なので、何かできるだけ気楽なこと、無理矢理楽しいことを考えるようにしている。

*1:里親ボランティア