天皇カードを考える(3)

今回の一連のエントリが「小沢問題」ではなくて「天皇カード」という捉え方をしている理由に、ようやくたどり着きそうな感じ。


外交カードとされるものにはいろいろあるが、靖国カード従軍慰安婦カード、教科書問題カードなどなど、二次大戦絡みのものはそのことごとくが、日本が不利にならざるを得ない、そして相手国が自由に行使するという性質のものだった。
そこで、小沢は天皇カードという、日本が有利に使えるカードを作ろうとしているのではないか、と考えた。


この天皇カードは、「天皇陛下という権威に拝謁する機会」という、権力上の実利はあまりないが、権威の序列を微妙に刺激するものであると言える。
(1)で述べた通り、現在は共和制で大統領が権威/権力の頂点、という国々が多数派を締める。大統領という権力の頂点に立ってしまった権力者が、同時にその国での権威の頂点を極めている場合、それ以上の権力を得ようと思ったら(面倒な)外交で他国との連盟を作り、その頂点に君臨するか、手っ取り早く隣国を侵略して国土を簒奪するかになる。
後者は迂闊に行うと国際的な批判を浴びたり、世界最強の正義感でお節介焼きが最新兵器の実地テストにやってきたりするので、あまり積極的には行われない。
前者も小国の大統領が頑張っても大した成果は得られない。
となると、「権力の拡大」は少し棚上げして、「権威の序列を少しでもあげたい」とか、「お近づきになりたい」とか、「なかなか会えない人に会うことができた自分すげー」という感じで、自身の権威の上塗りをしたい、と考えるような輩が出てくる。


天皇陛下というのは、世界最古の権威者の家系である。
最近権威になりましたという新参と、数千年前から続いていますという古参だと、権威としてありがたいのはどっち? という問いをされたら、おそらく大多数の新参者は古参へのすり寄りを選ぶだろう。
なかなか会えない天皇陛下に会えるからこそ、価値がある。国内だと園遊会や褒章授与、内閣承認、行幸・視察などの機会があることはあるが、その機会は少ない。ましてや、「自分のためだけに機会・時間作られる」となれば、その栄誉は大きい。


これまで、天皇陛下は相手国の大小を問わず、つまり日本の内閣にとって政治的に重要であるかないかに関わらず、精力的に接見を行われてきた。ただ、1995年の大腸ポリープ、2002年の前立腺癌以降は、健康上慎重になる必要から、無理がかからないように「一ヶ月前に予約を入れる」というルールができた。
今回の小沢の横暴は、「自分がそう言った事実はない」とうそぶいてはいるものの、「自分を不機嫌にするようなことをするな」と圧力をかけたことで、自分の影響力を内外に示すことに繋がった。
小沢個人としては、「自分にはそうする権力がある」という誇示、「自分に申し入れをすれば、取りなすことができる」という実績作りにもなった。天皇陛下を、小沢個人の私的なカードに仕立て上げたわけだ。
また、この「天皇陛下との接見機会の選択」を内閣*1が左右できるということになると、「政治的には重要ではない相手」かどうかを、日本政府側が自由に設定できることになる。
例えば相手が小国ではなくても、例えばアメリカ相手であっても、「天皇陛下はお加減が優れないのでお会いになれない」と内閣が決めることで、相手のメンツを潰すことも自由にできる。
これは、権威を重視する相手に通用するカードということになるが、例えば「中国には赦すが、アメリカには赦さない」という見せ方をすることで、「日本は中国を重視し、アメリカを軽視している」という政治的メッセージを発信することもできるようになる。
例えば、北朝鮮との融和で得点を稼ごうという話が出てきたとき、天皇陛下北朝鮮の政府首脳と接見されると言うことを以て「日本側の信頼」「日本の融和の証拠」「日本の譲歩の証」といった、政治的メッセージの発信が行えるようになる。いつ、どのタイミングでこの権威的カードを使うかも、内閣が、正確には小沢一郎が自由に設定できる。
まさに天皇カード天皇の権威の政治利用の完成である。


天皇という権威」を、時の為政者の政治の権威付けに使ってはならない。
これが、二次大戦の反省であったはずだ。
ここへきて、二次大戦を推進させた概念をそのまま体現した人間が、二次大戦の最大の反省を覆すことを良しとするのを看過していいのか、と思う。

*1:実際には小沢