呼吸音のこと、最期のときのことなど

麟太郎の呼吸音について、少し記憶を巻き戻す。
麟太郎の呼吸音の変質は、咽頭部にできた扁平上皮癌の影響によるもので、肥大した癌=腫瘍が弁の役を果たし、呼吸のたびに振動して独特な音を出していた。
本郷の東大病院*1に検査入院したおりに内視鏡で見つかった最初の癌は、鼻腔の上側(脳幹底部側)にできていたのだが、これは一度は切除された。
が、ほどなく再発した癌は、今度は咽頭部、口腔右側にできて、食道・気道への経路を塞ぎ始めた。
この癌が、麟太郎の呼吸音をじわじわと変えていった。

病気が発覚する前、ごく最初の頃はくしゃみをしていた。「ぶしゅっ」「くしゃっ」という感じ。このくしゃみが出たのが6月末頃で、泊まりに来ていた田舎の友人が「この子は風邪を引いているか、鼻炎があるのではないか?」と言っていた。その時点ではときどきくしゃみをしてはいたので、鼻炎だろう、と思っていた。まだ食欲はあった。
8月末くらいまで、食欲はあったが体重が減り始めていた。ピーク時4.8kgあった体重は8月末には4.1kgに落ちていた。9月、ほとんど食べなくなった。
このときの呼吸音は、「ぶしゃっ」「ぶしゃっぶしゃっぶしゃっ」で、9月の中旬頃だったか10月の上旬頃だったか、確か竹書房の編集さんお二人がウチにいらしたときに、「ほえあああああっ!」という、それまでに聞いたことのない音を出した。
これは、駅のホームでおっさんが痰を吐こうとして息む音に似ている。非常におっさんくさい。
この「ほえあああっ」以降、麟太郎の呼吸音は変質していく。
それでもまだ秋くらいまでは「にゃあ」と鳴いたりもしていた。
元々、麟太郎はほとんど鳴かない猫で、千と千尋の神隠しに出てきたカオナシみたいに、「……っ、……っ」と、ハスキーに呟いたりするヤツであった。普通に鳴くようになったのはこの家にずいぶん慣れてからだったが、それでも不要なときにはほとんど鳴き声をあげない。威嚇音のような「しゃーっ」という声も、ごくごく初期、まだ慣れてない時期に警戒されたときだけで、以降はほとんど聞いていない。
11月くらいは、呼吸音はさほど気にはならなかった。少し「しゅーしゅー」言ってた。
12月に入ってからは、いびきがうるさくなりはじめた。
いびき、というのは本来は正しくないのだろうが、例えたときに最も似ているのは、おっさんのいびき。
「ふごががががが……ふごががががが……」という、酔っぱらって駅のベンチで眠り込んだ忘年会帰りのオッサンのような、そういう音。これが、寝ていても起きていても聞こえる。かなりでかい。
12月の終わりくらいから年が明けるくらいには、この「ふごががが」は、さらに変質して「ぐぎぎ」「ぐきゅ」に変わった。歯ぎしりをしている音、ではなくて、力一杯深呼吸をして、さらに息を吸い込もうとする音。過呼吸過呼吸を重ねるような音、というか。
12月末の時点ではすでにほとんど咽頭は塞がれていたようで、口を開けると外からも腫瘍が見え、そして喉には腫瘍がぱんぱんに詰まっていてそれ以上先は何も見えない、という状態だった。
この喉の腫瘍は喉を一杯まで塞いだ後も成長をやめず、そのまま鼻腔側を圧迫した。昨年末の時点では「まだ鼻で息が出来ているようだ」ということだったが、年が明けてからは鼻で息をするのも辛い状態になっていた。
正月、Πのゲラを読んでいた頃は、読み上げソフトの音声が聞き取れないくらい大きな呼吸音になっていた。「ぐぎぎ」はこの頃。
最後の日は「しー……しー……」という呼吸音だった。深呼吸をして、息を完全に吐き出したあと呼吸を止めて、息を吸い込まずにさらにはき続けると、そんな音が出る。
おそらく、最後の数日間の麟太郎は「眠ったら死ぬ」という状態にあったのではないかと思う。いつもうとうとしていて、ときどき姿勢を変える。座って上を向いていると気道が開いて少し呼吸が楽になるらしい。人間で言えば、気をつけ、の姿勢。だが、そんな姿勢を眠らずにずっと維持することなど出来ない。ときどき床に横たわってみたり、また凄く正しい「気をつけ」の姿勢のまま意識を失ってその場から転げ落ちたりしていた。


1/15に年末にもらった制吐剤と消炎剤が終わってしまったので、1/16のお昼くらい定期検診を兼ねて、ホームドクターのところに薬をもらいに行った。
ここまでの麟太郎の様子はといえば、例の「尻にくっつけたまま部屋のあちこちにスタンプを押して回った事件*2」があったり、その後どうも茶色っぽい「足跡」があちこちに付いたり、お立ち台からの転落回数が一晩で20回以上になったり、といった状態だった。
この「足跡」はΠのゲラや床にも付いていて、いったいなんだろうと首を捻っていたのだが、診察の際に右前肢、右後肢のかかとに、それぞれかさぶたが出来ていた。転落したときにぶつけたか、こすって付いたかすり傷の類ではないか、とのことだった。
すでに血は止まっていたが、いよいよ気をつけねばなあ、と思った。
このふらつきは前回の診察のときにも指摘されていたが、「呼吸不全に起因する酸欠により、脳に血が行かなくなりつつある」ということが症状に表れていたのだろうと思われる。
呼吸が相当辛いことは、麟太郎の呼吸音からも分かった。
この期に及んで、少しでも呼吸を楽にさせてやれる方法はないか、と相談した。
すでに給餌用カテーテルを埋めている麟太郎だが、呼吸用にもカテーテルまたは管を通すことができないかどうかを聞いてみた。
外科的手術を施すことで、気道を切開、喉にも「穴」を作って、癌をバイパスした呼吸用の穴を喉に直接作ってしまう、という手術がある、ということだったが、感染症の危険があること、手術に耐えられる体力がないかもしれない*3、そして全身麻酔を入れるためのカテーテルが、鼻腔を通らない可能性があること、またカテーテルを入れることによって自発呼吸用の隙間の一切がなくなってしまう恐れがあることなど、手術のリスクは大きすぎた。全身麻酔はそこからの復帰がもっとも難しく、麟太郎の体力、病状からは無理だったかもしれない。
それでも「可能かどうか、カルテを検討して連絡します」という言葉を貰って帰途に就く。
帰宅後、この日の昼の流動食。
診察前に流動食を入れると、病院に向かう途中や診察中に抗議の失禁をやらかすことがあったので、診察がある日は必ず終わってからご飯、としていたため。
この数日、流動食を少し嫌がっていたので、量を減らすかどうか少し考えていた。それでも、食べることで体力を維持すること、それは欠かすわけにはいかない。なんとか頑張って食べてもらった。


この日は夕方から竹書房で打ち合わせがあった。
また、打ち合わせと平行していた「超」怖い話Πの作業が全て終わって、完パケ校了になり、編集さんと軽く食事などご相伴して、帰ってきたのが確か9時過ぎ頃。
家人は出かけていて留守。
麟太郎の様子を覗いてみると、とりあえず辛そうな呼吸音があまり聞こえない。今年に入ってからは、呼吸音が辛いときは眠れてない、呼吸音が辛そうではないときは、比較的呼吸が楽で浅い睡眠に入っているらしいことがわかってきたので、そっとしておくことにした。休めるときはできるだけ休んだほうがいい、という判断をする。
麟太郎が仕事部屋の僕の椅子を陣取って寝ていたのと、仕事が一山越えたということとで、仕事部屋は麟太郎に譲り、リビングでごろごろした。ブレザオラ+枝付き干しぶどう+チーズ+病院から帰ってくるときに近所の八百屋で買った生クランベリーをつまみに、白ワインを1本開ける。今年一本目の仕事の完了を、一人でささやかに祝った。
その後、帰宅した家人は先に休み、僕はなおワインを呷りながらごろごろしていた。






麟太郎の夜食、二度目の流動食の支度を始めたのは、1/16の朝3時半過ぎくらい。内容はこの2カ月半ずっと同じで、ヒルズのa/d缶。一食につき、2/3缶程度をほんの少しの水でゆるめて、シリンジで流し込む。他に病院から処方された制吐剤(嘔吐防止)、消炎剤、さらに自発的な栄養補助としてサメ軟骨パウダー小さじ1/8、アガリクス(液剤)2.5mlが入る。
用意が済んで麟太郎を連れに行ったのが3時40分くらい。お姫様だっこ、赤ちゃんだっこもさせてくれる猫だったが、仰向けにすると呼吸が辛くなるので、縦に座った状態に近い姿勢で抱きかかえ、目を片手で隠して一気に階段を下りた。*4
麟太郎の様子は比較的安定していて、特に抵抗する様子もなかった。元気がまったくない、ということもなかった。この数日の様子と大差ない。
まず、カテーテルの蛇口部分を切り替え、そこに1mlほど水を入れたシリンジを繋いで、カテーテル内の空気を吸い出す。シリンダーを離してシリンダーが吸い込まれる=陰圧になっていることを確認。これが戻らない場合、カテーテルの先端が気道側に入ってしまっている恐れがあるため。
これまでの二カ月半で、150回以上続けてきた。何度も繰り返した作業だが、ここで陰圧を確認したら一度シリンジを外し、最初にアガリクス。次に薬とサメ軟骨を混ぜた流動食をシリンジで流し込む。これもいつもと同じ。与える量もいつもと同じ。
全部流し入れ、最後にカテーテル内に残った流動食を胃袋に押し込むために水*5を5mlほどシリンジで流し込むのだが、その水入りシリンジを手に取ったとき、麟太郎が咳き込み始めた。
膝の上でおとなしくしていた麟太郎が、シャツとジーンズの上にわっと吐き戻す。
これまでにも2〜3度、流動食が終わった直後に吐き戻されることがあって、今回もそれだと思った。ただ、いつもより量が多かった。
いつもなら、同じ場所にとどまって、またある程度吐いてから次の場所に移動してまた吐く。*6
膝から逃げて囲炉裏の周りを回って、反対側まで行ってもう一度吐いた。
そして、家人の定位置になっている場所まで戻ってきて、倒れた。
「麟太郎? 麟太郎?」
声を掛けた。
手足をピンと伸ばし、何かを掻いているような、そんな仕草をした。
10秒か20秒か。30秒も掛からなかった。凄く長かったような気がするけど、実際にはほとんどほんの一瞬だった。
麟太郎は動かなくなった。
落ち着いたのかと思った。
瞼は開いたままで、見ると口の中は吐いたものが一杯に詰まっていた。
腹は上下していなくて、呼吸が止まっていることがわかった。
それから、たぶん2分か5分か、声を掛けていたと思う。
時間は1/16、午前3時55分頃。限りなく4時に近い。
階下の寝室で先に寝ていた家人を起こしにいった。


「……麟太郎、死んじゃった……」
それだけ伝えるのが精一杯だった。


流動食を与えなければよかったのか、とか、異変に気づけなかったのか、とか、気管切開手術をもっと急ぐべきではなかったか、とか、悔恨も渦巻いたが、とにかくこの後の数時間、ただ黙々と床を拭き、麟太郎の遺体を拭いて、箱に収めたりした。
「腹が動かねえかなあ*7
と、何度も呟いた。











思えば、麟太郎はよくできた猫だった。

麟太郎の余命について、年を越すのは難しいと言われてきたし、それは半ば諦めてもいた。一方で、無理と言われた二カ月、無理と言われた正月を達成してしまったので、なんとなく低空飛行のまま、このまま逃げ切れるんじゃないか、という淡い期待を持ってしまったりはした。
それでも、そろそろ限界だ、ということをなんとなく察してもいた。

その上で、もし麟太郎が力尽きたのが一週間早かったら、もしくは三日と言わず二日早かったら、たぶん僕は「超」怖い話Πを落としていたか、そうでなければ上の空のまま仕事を続けていたかどちらかだろうか、と思う。
麟太郎は編集猫として、しばしば僕の仕事の進捗を監視していた。
だから、「超」怖い話Πが終わるまで待ってくれていた、と考えるのは、それは考えすぎだろうか。

流動食はいつもシリンジ3本ほどに分けて入れているのだが、最後の一食については、3本とも全部食べてはくれた。
そして、a/d缶はこの一食でちょうど一缶分が終わったところだった。半端に残さず、無駄にさせないでくれた。そんな気を遣うなと思った。

病院はだいたい二週に一度くらい診てもらっていたが、木曜は休診日だったので、金曜に行ったのだ。
最期の日の直前に、お世話になったドクターに挨拶をしに行ったのだとすれば、気を遣いすぎだ。

麟太郎が事切れたのは、1/16、土曜の早朝だった。
飲んだくれてはいたけど、仕事を終えた僕は家にいて、家人は翌朝の仕事は休みで、家族はみんな家にいた。直接の死に目に会ったのは僕だけだったが、僕も勤め人の家人も、泣き暮れて過ごすことについて仕事に支障が出ないタイミングだった、とも言える。
おかげで土曜、日曜とゆっくりと悼むことができた。
なんという心配り。


僕は偶然、たまたま、と言っていいのは重なったことが二つまでで、三つ以上は偶然ではなく何らかの必然であろう、と考える。四つも重なったのだから、これは偶然たまたまではなくて、麟太郎がそうしたのだ、と思う。そう思いたい。
まったくもって良くできた猫だった。

*1:東京大学大学院農学生命科学研究科附属動物医療センター

*2:シャワーで洗った

*3:術中死の危険性がある

*4:目を隠して視界を遮るのでは、周りが見えると暴れ出すことがあるため。座った姿勢に近いと麟太郎の前足がこちらの顔に届き、爪攻撃や猫パンチを食らう危険があったので

*5:ぬるま湯

*6:麟太郎はなぜか必ず3回に分けて吐いた。健康な頃、毛玉を吐くときもそうで、吐いた後を掃除するときは必ず三カ所掃除した。

*7:呼吸で腹が上下しないかなあ