通夜めいたこと、など
麟太郎の死について、さぼり記とTwitterに書いた。
そうした理由は、麟太郎が闘病生活に終止符を打ったことを、麟太郎の意志を代弁するためであり、我が家の「営業部長」であった麟太郎に膝に乗られた経験のある多くの来客や、闘病日記についてご心配、ご声援を頂戴した皆様へのご報告、というつもりで書いた。
ただ同時に、麟太郎の死を受け入れていくために、それを書いておかねばならんのではないか、とも思って書いた。
実際、まだそこにいるような気がしているし、気配も濃厚だ。
ただそれは、「そこにいてほしい」という気持ちと、死を受け入れたくないというエゴの共同の産物でもあるのかもしれない。
猫は視界に入りたがるのもいれば、視界の外をうろうろしながら気を引きたがるのもいる。日常の麟太郎はどちらかといえば後者だったと思うが、来客時は前者だった。また、僕と家人の二人が揃っている場所に、割って入りたがった。孤独が好きなようでいて、一人っきりになるのは嫌いで、いつも家にいる僕のいる部屋に陣取り、僕の飯時は付いてきて、客が来ると呼ばなくてもやってきた。
だから、仕事部屋にいるときに麟太郎が見えないと「きっと居間のテレビの横にいるのだ」、居間に麟太郎がいないと「きっと仕事部屋の椅子の上にいるのだ」と、そんな風に期待をしてしまう。そういう気配を思ってしまう。
でももう、麟太郎はいないのだ。
いなくなったのだ。
それを受け入れるためには、儀式が必要なのだ。
世の中のあらゆる宗教的儀式、葬儀やそれに準じる行為は、おそらくは残された人間が、自分の意識の中にまだ生きている者を思う気持ちと、どう折り合っていくか、ということのために必要とされているのだと思う。やたらと勧誘される機会が多いわりには、僕個人は宗教や信仰はあまり必要としない人間なのだが、儀式、手続きが必要なケースがあることそのものまでを否定するつもりはない。
死とは、存在の断絶だ。
自分が断絶してしまったら、自分の親しい誰かが断絶してしまって、昨日までと同じように接することが出来なくなってしまったら。
だから、死は恐ろしいものと受け止められており、その死にまつわることを我々は恐怖とし、それを予感させるものを怪談と呼ぶ。
死を巡る、または死者を巡る物事の多くは、実は「そうであってほしい」という期待や、偶然によって構成されているのかもしれない。怪談の懐疑論者はそのように説明づけようとするし、実際のところ報告された事例の多くは、それらの説明通りなのかもしれない、とも思う。
しかし、そのうちどうしても「偶然」では説明できないものが混じっていることがある。物理的にも論理的にもおかしい、違和感のある物事。そういったものを怪談として拾い集めることを生業にしてきた自分が、改めて死を受け入れ、死と決別し、死を乗り越えるためには、やはり慣れた方法が良かろうと思った。
自分を客観視する、または自分の思考を時間差を持って読み返すことで、自分の行動を改めて外から検証する。そうすることで、動揺も苦悩も、主観的視点からの混乱にとらわれ続けることなく、昇華できる。
超-1などで、体験者の方に体験談を自ら怪談=文章にすることをおすすめしているのも、また僕自身の取材スタイルとしてメールやチャットなど文章による往来の形を取ることが多いのも、体験者の方ご自身にも「体験を一度書いてみる」ことを推奨しているから、というのは実際ある。
書くと、人間は自分が囚われていたことを赦すことができたり、自分自身を赦すことができたり、わからなかったことが見えてきたりする。
書くという行為は、混乱の解消であり、また同時に癒しでもあるのだと思う。
ペットロス症候群の多くは、ペットの死を受け入れることができない事に起因して起こる。
僕は麟太郎の死を受け入れ、麟太郎はもういないのだ、ということを自分に分からせなければならない。
だから、死の様子について書き、同時に麟太郎を見送る儀式をせねばならなかった。
1/16の朝、麟太郎は逝った。
家人を起こし、二人で遺骸を拭いた。最期を迎えた後、失禁もしていて尿を漏らしていたので、これも拭いた。便は出なかった。
戻した流動食にまみれた床も拭き、酷いことになってる僕のシャツとジーンズを着替え、それからしばらく麟太郎の遺骸を見ていた。麟太郎を抱くと身体はぐんにゃりしていて、耳に触っても嫌がって耳を振ったりもしない。尻尾もぱたりと垂れたまま。
まだ温かかった。なでさすっているうちに、だんだんと冷たくなっていったが、それでもまだ柔らかかった。
すっかり夜は明けてしまい、少し寝た。
午前中に二つほど通販で頼んでいた荷物が届いて、二度起こされた。
おかげで眠りは浅い。
麟太郎、どうしようか。
火葬で見送ろう、ということにした。
ただ、今日の今日で、というのは早すぎる。
まだ麟太郎がここに居る、ここに在るということ、そして麟太郎をかわいがってくれた家族同然の友人達にも、お別れの機会はあって然るべきだ。
火葬用の窯を積んだ車で、自宅まで「焼きに」来てくれるというのがあるそうで、24時間365日来てくれる、という。
連絡を入れて1/17の午後に火葬の予約を入れた。
僕が眠っている間に、本屋店長が来てくれたらしい。
少しだけ麟太郎の顔を見て、夜にまた来る、と言って帰って行ったとのこと。
昼間、花を買いに行った。
南口の花屋が閉まっていて、北口のどこかに花屋があった気がする……と、曖昧な記憶を辿りながら花屋を探す。
東急の先の角に花屋を発見、かすみ草とあと何かピンクの小さな花が付いた花束を買う。記憶の中で「確かこの先に花屋があったはず……」と思っていた場所にあったのは、花と鉢植えがいっぱい並んだ喫茶店だった。ありがちな記憶の混乱。
後で悠稀君に「花屋を探して彷徨ってさあ」という話をしたら、「北口のATMの並びにある、インコがいるとこって花屋だよね?」と言われた。東急の先の花屋よりももっとずっと頻繁に通っている場所にある花屋のほうを、完全に失念していた。これはこれで動転していたのだと思う。
麟太郎は客が好きな猫だった。
特に女性客より男性客が好き。初訪問の客であっても、百年の知己のような顔をして、いきなり膝に座る。撫でさせてくれる。客を襲わないw そういうフランクな猫であったから、猫嫌いや猫アレルギーの方を除いては、非常に評判のいいというか客受けする猫であった。
中でも、週に1回以上やってくる本屋店長や、長旅のときなどにお世話をお願いしたりした近所の悠稀君などは、ただの客ではない。麟太郎にとっては準家族と言っていい人々で、この二人はやはり最期に顔を見てってほしい、と思った。
それに、普段通りで見送りたいとも思った。
酒を飲んで馬鹿話をして、それで麟太郎を撫でたり眺めたり同意を求めたりするのが、麟太郎との接し方だった。
だから、馴染みのある顔ぶれで、「いつもの酒飲み」で見送りたいとも思った。本屋店長がきてしばらくしてから、悠稀君を呼び出したら、「じゃあ、ちょっと顔を出すよ」と言って来てくれた。
本屋店長も悠稀君も、馬鹿話につきあってくれた。いい酒があるんだぜ、飲もう飲もう。今期のアニメはどうよ。アパートの更新どうすんの?そんなどうでもいいような話を止めどなくした。
ああ、これって「お通夜」だ、と思った。
通夜と葬式と法事の類というのは、死人を送るためにする……というのは実は口実で、死人を弔わないとならないから、という理由でいろいろ都合を付けて生きてる人間が集まる。忙しくて普段は予定の合わないような人でも、通夜、葬式、法事にはやってくる。親戚や旧友など、数年越しの人間と顔を合わせたりもする。
通夜の席が、ちょっとした同窓会になったり、従兄弟達の近況を教えあう会になったりするのは、つまりは死者による生者への「機会」の贈り物であったりするのではないか。
近年では殯――通夜は「葬儀の前夜祭」的位置づけから、もっとテンプレ化されたものというか、プレ葬式というような感じのものになっている。集会場やセレモニーホールに人を集め、僧侶の読経があり、会席者が焼香をし、宴席で食べて帰る。夜通しはしない。
死者を悼む話題も出るが、やあ久しぶり、というような会話も弾む。案外みんな笑顔だったりもする。
納棺し、火葬される葬儀当日より、ずっと雰囲気は明るい。
別に「通夜をする」と宣言したわけではないんだけど、僕らは酒を飲んでぐだぐだと馬鹿話をし、箱の中で丸くなっている麟太郎が、まだいつもと同じ麟太郎のような気分になりながら、努めて「いつも通り」を振る舞おうとした。
それにつきあってくれた本屋店長と悠稀君をありがたいと思った。
零時を回って、二人は帰っていった。
僕らはまだ眠れなくて、それからまたしばらくぐだぐだしていた。
3時を回って4時が近づいてくる。
麟太郎の最期がどんな様子であったかを思い出し、語る。
流動食の手順はいつもと同じだったはずで――でもダメ押しを僕がしてしまったのだろうかと思った。
病状から言って、ここまで保ったのがむしろ奇跡で、東大病院の余命宣告一カ月、保って二カ月は難しいというのを超えてここまできた。前日のホームドクターの診察では、正直、明日でも今日でもおかしくない、今でもおかしくない状態だ、とも言われていた。それをいいわけに自分を赦していないか、とも思った。
でもそうではなく、一緒に正月を過ごしたいというわがままに麟太郎が頑張ってくれて、せめて「超」怖い話が終わるまで患わせないように、と麟太郎は気を遣ってくれて、お世話になったホームドクターへの最期の挨拶も済んで、心残りはもう何もなくなったから逝ったのだ――。
そう諭されて、そうであってほしいとそれに縋って、それもまたエゴではないのか、と思い悩んだ。
それが麟太郎の意志であったかどうかはわからないけど、三つ以上重なるのは偶然ではないの法則から言えば、四つ重なった「都合のよいタイミング」を、麟太郎の配慮だと、甘えさせて貰うのがいいんだろうか、と、今は思うようにしている。