津波警報〜備えよ常に

一夜明けて、チリ地震起因の津波については予想されていたほど大きな被害は出なかったようだ。まずは僥倖。
これについて、
「ハワイでたいしたことなかったのだから、日本でもたいしたことがないことはわかったはず」
気象庁大津波警報(3m以上)を出したが、あれは過剰予測だった」
などの批判も出ているようだが、僕は過剰予測だとは思わない。
終わってみればなーんだ、というすっぽ抜け感から後出しじゃんけん的な批判をしている、または「移動に障害があった、保障しろ」などの因縁めいた批判なども上がっているようだが、もし低めに見積もった予報の逆目が出ていたら、「過小報道だ!」と、文句を言うことすらできなかったかもしれない。
日本は伝統的に、というより風土から出てきた国民性で*1、何事にもやや過剰な反応を示す。
同時に、やや過剰な事態が起こることを期待している向きもあるようで、「ものすごい大津波が来たらどうしよう!」という心配の裏には、同時に「ものすごい大津波がきて、破滅的な災害が起きてしまえばいいのに!」という期待をはらんでいる。
これは、運動会やテストの前日に「明日、学校が燃えてしまえばいいのに!」と願う感覚にも近いw 厭世観と諦観的観念と現状打破のためのカタストロフィの発生を同時に願う、マゾヒスティックな側面があるのかもしれない。
それだけに、「起こる起こる」と言われ、期待していた災害がさほどでもなかったりすると、「がっかりして怒り出す」という、いささか幼児的な反応を示す人もいたりする、という。


災害は避けようと思っても避けられない。備えていてもそれがどの程度なら足りるのかというのは誰にもわからないわけで、前回100を備えていたら60で足りたから、次は70くらいで……とグレードを下げたら、いきなり150が来た……というような場合に、誰が責任取るの、という話になる。
備えるだけ備えて、それが全部無駄足になる、取り越し苦労になるというのは、それは喜ばしくておめでたいことなのだ。
備えに見合う被害が起きなかったことについて、警告を発した部署に文句を言うのは筋違いもいいとこだと思う。


「家に鍵を掛けずに出掛けたが、泥棒に入られた形跡はなかった。鍵を付けるのは過剰防衛である」
とまあ、そういうことを言い出す人がいるとして、じゃあ鍵を取り外してしまって大丈夫なのかというと、今日入られなくても明日入られるかもしれない。鍵を掛けるべきだ、という人に「掛けなくても入られなかった」と噛みつくのはどう考えたっておかしいわけで。
これは、「生命保険」とかにも言える。今日、事故に遭わなかったから、今日、病気が発覚しなかったからといって、一生そうならない保障など、どこにもない。だから、起こるかどうかわからないことについて、過剰な「備え」をしておくのが保険なわけで。


災害と、安全保障*2に限っては、取り越し苦労、無駄足というのは喜ぶべきことだと思う。


津波被害、大きな被害がなくて本当によかった。
でも、今回無事だったから、次も大丈夫とは限らない。
水門があっても、両脇から水が入ってくるかもしれないし、長周波振動の津波だったら、高さ50cmでも総容積は水門を越えるかもしれない。そして、越えたら止めどなく水が流れ込んでくるかもしれない。
もちろん、予算の上限というものはあるので、全てに必要十分以上の手当をすることは不可能だ。
が、警報・予報に関しては、「考えられる最悪に備えるべき」で正しいと思う。


気象庁は、今回の件で「過剰予報だ」と叱られて謝罪しちゃったらしいんだけど、謝ることないと思うよ。




*1:湿度が高くものが腐敗しやすいから過剰に衛生観念が強く、島国で伝染病が感染しやすいから過剰に(ry などを発端に、なんでもとことん極めてしまう、神経質な精神性が発達した。そして、何事も突き詰めすぎてやり過ぎてしまうらしく、「世界最大」とか「必要以上に超細密」とか「全部漏り」とかが多いのだそう。手作業の漆塗りなのに誤差がミクロン単位で、気密性が異様に高い文箱とか

*2:ここで言う安全保障っていうのは、要するに「戦争を仕掛けられない」ということ。または、「事故に遭わない」ということ