本日の囁き

 今日の囁き。

  • 19:59 「事実」は往々にしてひとつだが、どの方向から誰が見るかによって、異なる解釈を与えられた「真実」は、星の数ほどもあるのだなあ、というもにょろもにょろ。
  • 20:07 だから、「真実」とか「隠された」とか「新事実」とかいうキーワードを見かけたら、「ああ、この人の脳内の」というフィルターを掛けて受け取るのが吉。*1
  • 20:10 @zugo9nohohon ですよね。そして「自分だけが知っている話」とか「信頼できる筋からの話w」という、ソースを公開できない話のほとんどは「願望」と見分けが付かなかったりしますし、そういう話を明かしがちな人に与えられる情報は「真実だが事実ではない」がほとんどではないかと RT*2
  • 20:17 そうしてみると、「信頼できる情報」というのをブロードキャストしてしまう人には、実は最初から信頼できない、または機密でもなんでもない意図的な情報/流布拡散させたい情報しか与えられていないんじゃないのか*3、と考えることもできます。*4
  • 20:19 「そう解釈されることで一番得をするのは誰か?」というひねくれた視点で、「真実」とされた情報に触れてみたりしすぎると、演出家の存在や陰謀の存在が酷く気になるようになってしまいますがw*5
  • 20:25 「誰得」を促す第五列や、第五列を偽装するモールとか、国際政治から幼稚園の派閥争いwに至るまで、事実と真実の混淆を見極めるのは難しいものなのだなあ、と昨今のニュースを見るに付け思う次第。
  • 20:30@zugo9nohohon それ故に主語や対象が付け足されていない「真実」や、「事実と異なることを当事者は知っているが、巷では真実として流布されるもの」について「それは俺のことか?」と反応したら負けなんだろうなあ、と思いまするw RT*6
  • 21:01 日本国憲法三権分立は書かれてない、と菅直人が言ってましたw*7 RT @konachu572: 三権分立は?憲法の三原則は? 前文覚えてたら通せないでしょこんなの→国会法改正案 - ニコ百 dic.nicovideo.jp/id/4342726 #nicopedia
 ……では、おやすみなさい。

*1:タブロイド誌の記事なんかもそうだけど、メディアリテラシーって何歳くらいから始めるべきなんだろうかと思って見たり。「自分だけは真実を知っている」「自分だけは騙されていない」という確信がある人ほどあっさり騙されたりするものなのだそうで、宗教勧誘なんかでは「頑固で宗教に批判的で自意識がしっかりしている人」ほど、逆に転びやすいのだと聞いたことがある。勧誘の人にw そういや、オウム真理教の信徒に高学歴者が多かったのは、「高学歴者ほどバカ」ということではなくて、「エリート意識=自分が真実に一番近い」と信じ込みやすい人が多いからではなかったか、てな説があったが、それと通じる気もする

*2:JSF氏と松田光世氏のやりとり(http://togetter.com/li/18057)を見ていて思ったのだが、「ソースを示せないが、俺は機密情報を得られる立場にある!(キリッ」という人の多くが、プロパガンダに利用されているだけだった、というケースは往々にして珍しくない。そういえば鳩山邦夫の「自分の友達の友達がアルカイダ」という発言なんかもそれと同じ。

*3:流布させたい情報があるときには、「これは内緒だぞ」と言って話す。内容が本当に機密である場合は、漏れ出てはいけない機密と、漏れ出させることで第五列をあぶりだすための機密、というのがあるんだそうな。情報機関のエージェント、と自称する人に「あなたにだけ機密を教えます」と言われたとき、その機密をぺらぺら喋っちゃう人は以後は「プロパガンダの駒」として扱われ、機密を漏らさない人にはより深度の深い情報を与え、どの時点でそれを漏らし始めるかによっては、恣意的な情報を与えてみたりとか。1970年代くらいまでの東西の情報工作戦でしばしば使われた古典的な手口ではあるのだが、17世紀くらいからの宮廷情報戦や江戸城の奥でも行われてきた、ある意味「時代が変わっても有効な手口」ということらしい。なので、聞いた話はリレーしないでしまい込んでおく、というのがある意味いちばん賢い。ソースを伏せて「俺だけが知っている」と言ってしまった時点で、その大元の人間には誰が漏らしているかわかるわけで。

*4:ふと、GL関係の「華麗なる恋愛情報戦の完全勝利」を思い出したw 記憶にある限り、あそこまで完璧な偶発に頼らない完璧な情報戦はその後も目撃してないw

*5:「深淵を覗く者は深淵から除かれている(ニーチェ)」というのは大変好きな言葉だが、これと微妙にリンクし相反するのが「自分はそう考えるから、相手もそう考えるはずだ」という考え方。人間は自分を基準にして相手の程度や行動を予想しようとする。九条教徒は「自分が銃を捨てれば相手も捨てるはず」と信じるが、相手が同じ価値観や同じ思考をしない場合、自分の期待する結果が得られるとは限らない。「自分と同じ行動を相手も取るはず」というのは、相手を自分と同程度に引き上げ、または引き下げて評価する一種の甘えとも言える。相手が自分自身ではないからこそ、相手は自分の予想しない行動を取るわけで、相手の行動の一挙手一投足を全て想定できるなら、世界中に敵なんか一人も作らずに済むんじゃないかと思う。

*6:石原都知事の最近の発言で、「与党関係者に外国籍出身者がいて云々」というものがあったが、名指ししてないのに「それは自分のことか!」と福島瑞穂が反応しちゃって、あいたたたた、と思った。

*7:本当。http://megalodon.jp/2009-0717-2100-57/mainichi.jp/enta/geinou/news/20090717dde018200027000c.html (魚拓)