奥付考→人殺しを正当化する心理→自己防衛のための匿名のススメ

一般的な商業誌には、奥付というものが必ずある。
著者、発行者、印刷所など、その本の企画製作に関わった人間の連絡先などを書き連ねたものだが、現在ではだいたい以下のデータが入っている。

  • 著者名(通常は筆名)
  • 編集人名(通常は、出版社の社長か編集部局長か編集長。稀に担当編集者)
  • 発行者名(通常は出版社の社長)
  • 発行所名(出版社名)
  • 発行者の連絡先(出版社の住所・代表電話番号)
  • 印刷所名(印刷会社名)
  • 発行年月日(その本の発売日ではなく発行日)
  • 発行所振替先
  • ISBN

ざっとこんなところ。
編集人名など会社や本によっては入ったり入らなかったりというものもある。


少し昔の本にはこれに加えて四角で囲った枠の中に「検印廃止」と書かれたものがあったりした。今はその断り書きを入れている本そのものをほとんど見かけなくなったが、その検印が廃止される以前には奥付には「著者検印」というものがあった。
一冊一冊、奥付には内容確認の検品シールみたいなものが貼ってあって、さらにそのひとつひとつに著者が検印と呼ばれる割り印を捺していた。これまた、昭和前期くらいの古本に、そうした割り印が捺されたものを見つけることができるが、これも今は廃れた習慣だ。
発行部数が数百程度だった時代はともかく、戦後になって出版物の一点当たりの発行部数が増大し、どんなに売れないw本でも最低で数千、万となったことによって、そのひとつひとつを発売前に著者が全て検品して検印を自ら捺すということが、物理的に非現実的になった。
だから、「たぶん大丈夫だと信頼しているので、見本を一冊だけ事前に見せて貰えれば、他のものについては検品が済んでいる、ということにしてもよい」ということになって、著者は発売前の自著について全て検品をしなくてもよくなった。
内容に関するチェックは発行所が、印刷結果については印刷所がケツ持ちすることを著者は赦し、著者検印は廃れた。


で、昔の本には著者検印だけでなく、奥付に著者当人の住所も載っていた。電話が必ずしもない時代でも、家がない人間というの多数派ではなかったし、少なくとも本を記す仕事で家がないというのは(ゼロではないが)多数派ではなかった。
著者当人の住居が奥付に記載されていたのは、出版社が著者の尻尾を掴んでおくためであったり、また本の内容について著者自身に責任を持たせるためであったりした。著者自身が読者からの問い合わせを直接受けたりするためでもあったらしい。


その後、奥付から著者の住所・連絡先が消えた。
間に出版社が介在し、内容についての問い合わせは出版社がワンクッション入るようになった。
著者の直接の連絡先をその本を発行した出版社が管理するようになったのは、著者の囲い込みという意図もあった。
多くの場合作家は出版社専属、出版社所属社員というわけではなかったので、人気の出て来た作家の連絡先が奥付に掲載されていたら、他の出版社のオファーを作家個人が受けやすくなる。作家当人としては喜ばしいことだが、版元としては人気作家はできうるなら独占しておきたい金の卵でもあるわけで、「○○○先生への(この作品への)お問い合わせは編集部(出版社)まで」と銘打ち、著者の連絡先を乗せなくなった。
漫画などではこの傾向はさらに強まり、特定出版社に執筆する作家はその出版社以外では書かない、という紳士協定のようなものが発達していくのだが、新人作家はともかく近年ではそこそこ実績のある作家になると、本来ライバル同士の出版社双方に書くようにもなった。


奥付の話に戻る。
奥付は元々は著者自身が内容を保証するためのものであった。
出版社がそうした渉外受付を代行するようになってからは、出版社の連絡先だけが奥付に載るようになり、著者はその責から逃れた。
しかし、それが有効であり続けたのは、「個人が自宅に電話を持っているとは必ずしも限らない、連絡を取る手段は個人の自宅に直接会いに行くか、郵便手紙を出すしかない」というルールが生きていた頃までの話で、著者個人がWebページ、メールアカウントを持つようになると事情が変わってきた。


「超」怖い話は2000年発行の【「超」怖い話 彼岸都市】で二度目の休眠に入った。2002年には最初の版元だった勁文社が倒産してしまい、担当編集者も散逸。
「超」怖い話に関する情報は、著者グループの一人である僕が版元が用意したものではない、個人的な備えとして用意していた「超」怖い話公式ホームページからの発信のみになった。
現在でこそ独自ドメインhttp://www.chokowa.com/」からの発信となっているが、その頃は江古田ドメインの間借りで、「http://www.ekoda.jp/chokowa/」だった。
竹書房の初代「超」怖い話担当編集で今も恐怖箱などを手がけておられるO女史は、この「超」怖い話ホームページを頼りにメールを送ってくださり、勁文社を介さずに著者チームにコンタクトを取ることが出来た。それが今に続いている。
WebページのURLは奥付には掲載されていなかったはずだが、名前を調べれば見つけられたし、そこからメールアドレスを見つけることも容易い。奥付が伏せてきた著者直通情報は、ネット時代になってまた復権することになった、と言える。


その後、著者が出版社を通さず、つまり編集者のチェックや了解を得ずに自由に意見発露できる手段としてブログが活用されるようになった。2ちゃんねるなどがその任を担っていた時期もあったが、個人識別(本人特定)の難しさから、昨今ではTwitterが重用されるようになった。
Twitterは当人が住んでいる場所までは教えてくれなくても、本人の言葉を望んだ人間にだけ直通で与えるし、またその著者当人に直通で意見を伝えることもできる。
ここへきて、「メディアを介した情報発信」は「広場のコミュニケーション」に近い状態に回帰しつつあるわけだ。
広場のコミュニケーションについては、いずれ筆を改めるとして。


著者はかつて実名だったり、実住所を晒した上で本を書いていた。
そこには、支援者獲得、他の出版社からのオファー受付といったメリットと、批判者からの襲撃、訴訟、官憲による拘禁といったリスクもあった。
明治〜昭和初期にかけて、「名を明かして主張を述べる」というのは必ずしも名誉を得るための手段というばかりではなかった。それは今も同じだが、発言内容を著者自身が証し、出版社は必ずしも守ってくれる味方とは限らなかった。
だから自衛手段を考え、居を転々と移す潜伏型作家もいれば、当たり障りのないことしか書かない作家もあったろう。
今より部数が少ない時代だからこそ、そうしたリスクも小さかったのかもしれないが、部数が増え人気作家になる……その作家の主張について目にする人の人数が増えれば、支援者だけでなく批判者の人数も増える。割合は常に同じで、母数が増えれば当然そこに占められる実数も増えていく。

ネット時代、狂人が増加したような言われ方をしているが、そういうことはたぶんない。昔からコミュニティには必ず後ろ指を指される狂人が一人くらいはいた。本当に狂人だったり、或いは障害者であったり、被差別的対象であったりしたかもしれない。理解されにくい、共感を得にくい思考と独自理論を持つそうした人々は、「理解しがたい」が故にコミュニティから孤立していく。
故に、かつての狂人は常に孤独であったし、地域社会からは分かりやすく阻害・迫害され、明確に区別されていた。


しかし、1980年代末くらいから後になると、また様相が違ってくる。
日本における一般社会へのインターネットの普及そのものは1995年頃と断定していいと思うのだが*1、インターネットの急速な普及によって「リアル(現実の日常生活)を伴わない、ネット上のみの現実」というものに接する機会が増大した。


5月に発売の深澤夜 著「恐怖箱 怪路」(http://amzn.to/bLByYQ)に、パソコン通信の時代に起きた実話怪談が収録されている。内容についての詳細はそちらをご覧いただくとして、パソ通における「ネットコミュニティ」というのは、実際に顔をつきあわせるリアル・コミュニティの延長線上、補強的ツールであった側面が強い。
もちろん、ネットでしか会話を交わす機会がない、一度もあったことがないユーザーというはいたものの、頻繁なオフ会であったり、学校や遊び仲間、近隣の住人など、リアルでも顔を合わせる機会の多いユーザー同士の「会話の距離を縮める」効能が大きかった。


1995年登場のインターネットの登場によってパソ通は淘汰されていく*2のだが、インターネットではユーザーの匿名性が上がった、と言われる。実はこれはインターネットを待つまでもなく、PC-VANNifty-serveの時点で、近い状態は成立しつつあったような気はする。
パソ通は管理人が把握しているコミュニティの中でしか成立しないと言っても過言ではなかったが、インターネットでは異なるプロバイダからアクセスする、住所も実名も顔も知らない者同士が、リアルでのしがらみ(利益衝突)を抜きにして会話を交わせるようになった。
これはしがらみ抜きの本音トークができるようになった、商売ッ気を抜きにした本気の遊びが広まった、といったメリットがあった。反面、その相手は常に「どこの誰かわからない」というものでもあった。
そのことを気味悪く思って、「実名でないと相手にしない」「実名ではない匿名発言は卑怯」「自分は名前も住所も堂々と明かして、覚悟の上の発言をしているのだから、自分のほうが優位」と考える実名主義が生まれ、一方で実名を証し個人情報を明かしてネットに望むのは甚だ危険である、という匿名主義者が生まれた。


匿名主義と実名主義http://bit.ly/aKXjq4)については以前にも何度もさぼり記では触れているので、ここでは詳細は割愛する。
実名主義は「自分の正義正論が自分を守ってくれる」と信じている性善説主義者だと言える。
そして匿名主義は「自分以外の発言者が常に善良で安全とは限らない」という性悪説主義者と言える。
性善説は世の中の全て、100%が善でなければ成立しない。
性悪説は世の中の大部分、99%が善でも1%の悪がいれば「それに備える」という考え方として成立しうる。
99%は殺しにこない人であっても、1%の本気で殺しに来る人がいたなら、99%までの安心は完璧な安心ではない、と言える。


大変残念なことに我々の世界には善意と悪意がある。または、善意と「別の善意」と言い換えてもいい。むしろそのほうがより、現実に近い。
国と国が言葉や国境で分かれているのは、どちらかが「悪い」からではない。双方の正義、善意が違うだけだ。
個人同士が喧嘩や行き違いになるのは、どちらかが「悪い」からとは限らない。それぞれに正論、善意があるが、それが互いに理解されないか、受け入れられないだけの話だ。


自分がしていることが明確な悪意、悪行だと自覚できている者は少ない。ほとんどいない。自覚した上でそれができる人間は、ごく少数の「覚悟のあるホンモノの悪人」で、そういう人間はむしろ信用さえできる。
多くの場合、「たぶんこれでいいと思う。もし違っていたらどうしよう。自分が多数派に属しているなら自分は概ね正しいと言える。だから多数派を真似よう。そうでなければ、自分がしている、しようとしている行為について、多数派に許可を貰おう」と考える。
ちなみに、多数派というのは数字で示せる絶対的多数とか過半数ではない。自分の考えを否定しない(肯定する、のさらに一段階下)誰かが一人でもいれば、自分vs自分と対立する者という拮抗を、自分優位に認識することができる。
背中を押す者は一人でいい。それだけで人は自分を「多数派」と認識することができ、自分の考えは正しい、と踏ん切ることができる。
それでも多くの場合は、判断に対する確信を持ちきれず、「これでよかったのよね、加持君……」と誰かに確認や許諾を得ようとする。


が、問題は多数派認識を持った後に、「自分は正しく、相手のことも考えた上で、自分と相手のために最善の方法を選んでいる」という前提について、迷いや疑いを持つことなく本気で自分の判断を正しいと信じきってしまうケース。
この、「自分の正しさを確信する」というのが一番始末に負えない。
自分が悪であることを自覚した上でそれをする人間のほうが、遙かに信頼できるのは、彼らが「損得」で動いている点にある。得をするからこそ悪事であっても敢えてするのであって、それが自分の損になると理解できるならしない。ただ、損得の足し算引き算をしてみて、それでも得になると思うなら、彼ら――悪人と呼ばれる人々は躊躇なくそれをする。


自分は正しいと確信してしまった人というのは、自分の正しさを疑う一切のものに耳を塞ぐ。自分の説を揺らがせるような、自分に不都合なものは無視する。もしくは自分の説の正しさを補強するために、不都合なものは実力で排除してしまう。
1960年代、学生運動において暴力革命を肯定していた人達はそういうことを正義だと確信していた。確信していたからこそ、あさま山荘事件を実行できた。
確信できなかった大多数の「多数派に背中を押されたい」だけの人は、そこで目が醒めて、それぞれの日常に回帰していき、学生運動は終焉を迎えた。*3
そして、「正義のためならそれを疑うものは排除していい=総括」ということになって、どんどん殺していった。
それと共感して
あれだけ殺したのに、日本赤軍はなぜ国外逃亡してさらに殺し続けることができたのかと言えば、やはり「自分は正しい」という確信を維持し続けたこと、自分達以外の持つ正論や主張の一切に耳を塞いだ結果だっただろう、と思ってみたりもする。


その点では十字軍もアルカイダ金賢姫も沖縄上陸戦での米軍もまったく同質であろうと思うのだが、自分の正義を確信した人間はあらゆる手段を肯定的に許してしまう。


なぜ普通は人間は他人や自分を殺さないのかと言えば、たぶんそれは単に確信が持てないからではないのか、と思う。道徳的にとか、常識で考えて、とかではなく。


「相手を殺したら自分も相手(の仲間)に殺されるかもしれない、自分がしたことは同じように相手にされるかもしれないから殺さない。
相手も同じように考えているだろうから、自分が殺さなければ相手からも殺されない」


これは標準的な反戦平和主義のモノの考え方の基本にあるもので、道徳観としては決して間違ったものではないと言えよう。反戦平和主義者、九条教の信徒の多くは、日本国憲法九条が「紛争解決の手段としての武力行使はこれを永久に放棄する」としていることを根拠に、「こちらがやらなければ相手からもやられないはずだ」と考える。
これは、「自分と相手の価値観が同じで、自分の考え方には相手が無条件に同意してくれるはずだ」という自分側の正論を前提にしている。自分がそうだから相手もそうだろう、というのは異なる価値観異なる正論が存在する可能性を無視しており、また相手と自分の考えが異なる場合、「自分の側が正しい。だから、相手を自分の考えに従わせよう」と繋がっていく。
しかし、相手も同じように「自分の考えが正しい。だから相手を従わせよう」と考え、さらにそれを「力尽くで」と決意している、かもしれない。


普通は人を殺していいかどうかに確信が持てないから殺さない。
自分の正義に確信が持てない場合は特にそうだ。
我々は多くの場合、自分の判断に確信が持てない。絶対に自分が正しいと思っていたのに、相手の都合を聞いてみたら確信が揺らいできたり。自分の知らない前提、それまでの経緯を知ることで、自分の考えや判断を修正したりする。それは大概の場合、一度の修正では終わらず、誰かと接触し、情報交換するたびに考えはくるくると替わり、常に確信が持てない。
持てないからこそ、それでも判断を下さなければいけないときは、自分以外の誰かの赦しを得て、背中を押して貰いたがる。できれば自分が多数派に属していることを確信したがる。逆に、多数派に属する安心を得るために、自分の考えを多数派寄りに修正してしまう人すらいる。


しかしながら、「自分は正しいはずだ」という自分性善説を捨てられない、自分が間違っている可能性を認めると自分が破綻してしまう、という人は、誰か一人でもいいから自分を肯定してくれれば、それを根拠に「自分内多数派」を形成できる。
その確信だけで、「人を殺してでも自分の正しさを証明する」ことに踏み切れる。または、「自分の正しさをさらに確実なものにするために、反対者を排除する」ことに手段を選ばなくなる。
人によっては、その排除対象が他人ではなく自分自身である場合もある。


自分の正しさに確信を持つための、背中の一押しをしてくれる誰か――たった一人の多数派。
それが、友人知人家族など、とは限らない。
ネットである場合もある。見ず知らずの誰かにおもしろ半分で押された背中に、「自分は正しいのだから、間違っている人間は殺していい」という確信を得てしまう。それは複数でなくていい。一人でいい。
「自分だけが正しい」という孤立の中にいる人にとって、賛同者と自分が感じられる人間が一人だけでもいればいい。


では、逆に賛同を与えなければどうか。
孤立しながらも自分の中に正論を積み上げて、それをよりどころにしてきた人間が、自分のよりどころから見放されたらどうなるか。
実際に見放されたかどうかは重要ではない。
この場合も、当人が「見放された」と思うことが重要なわけで、見放されたかそうでないかを決定するのは第三者でも、賛同者でも、多数派でもない。その当人にとってのみ都合の良い理解に保証を与えてくれなかった、という判断は、「自分の正義」に固執するたった一人の人間の脳内のみで下される。


彼らは知らず知らずのうちに、脳内に擬似的な自分と自分に助言や批判を与える第三者を作り上げている。
それらの脳内第三者には実体も実際の人格もない。そこに実在の人物の名前や人格が当てはめられていたとしても、実在の人物がそう言っているわけではなく、あくまで脳内第三者の脳内人格がそう言っている、に違いない、という思い込みだけがある。
名前や人格を借りられた第三者はいい迷惑でもある。


ネット上で実名も実住所も出さず、匿名で発言している人は幸いである。実体不明の「2ちゃんねらー達」「VIPPERたち」と十把一絡げの人格設定をされようと、個別に特定されることはない。固定ハンドル(コテハン)にトリップが付いている人も概ね幸いである。そのコテは、識別用の記号でしかない。
実名を出し、実住所を明かしている人はなかなか危ない。
尾行をされる心当たりがある人であっても尾行には気付きにくく、またその心当たりが露もない人間が、尾行に気付くことはほぼ不可能である*4
ましてや、「自分は正しく、世の中は善意に溢れているのだから、自分が狙われるわけがない」と思っている無警戒な人は危ない。
また、「自分は小物であり、無名である。狙われる理由などないから安全である」というのも間違いだ。相手の正論の中に、そんな理屈は入っていない。
「自分は正しいのだから、社会が守ってくれる。警察はそのために飼われている市民の番犬だ」というのも正しくない。警官の人数はそんなに多くなく、彼らはそれほどヒマではない*5


自分のことをどう思っているか、どう考えてくれるかわからない人に対しては、自分の存在を知られないようにするのが一番安全だと思う。その意味で、匿名は正しい。というか、誰も信じないでできる、もっともローコストな自己防衛手段だと思う。
モノカキやそれを目指す人々が、奥付に自分の住所を書かないのも概ね正しい。正しいが、ブログやTwitterで「自分の存在と日常」を発信しているのであれば、確実に間違いなく安全とは言えない。
敵ができにくい内容を選んで発言しているつもりでも、相手がそう受け取るかなんてわからない。

「今日はいい天気でした」→豪雨被害の俺を蔑んでるのか!
「今日のお酒は美味しかった」→俺が下戸だと思ってバカにしてるのか!
「今日の料理は失敗でした」→料理自慢か!

理不尽すぎるように思えても、実際こういう受け取り方をする人はいないとはいえない(というかいる)のであって、そこまで行くと、究極的には「黙っている。じっと静かに息を殺している。何かを言うときには、匿名で物陰から」となる。


匿名発言を許す現代のネット事情は、ネット全体に悪意(というか、超個人的な善意、一方的な正論。他人のコミットを許さないミニマムな正論)があることを前提としたローコストな自己防衛手段なので、これは今後も維持されるべきだろう。


そして、そんな状況下にあって、作家になりたい、作家として注目されたい、特定の名前*6を他人に知覚されたい、できれば賛同されたい、と考えている人は、自分に賛同してくれる人が、ある日突然、全人格を否定されるどころか存在を否定されるほどの批判者、復讐者になる可能性も同時に持っている、ということを予め覚悟しておく必要はあるかもしれない。
「自分は小物だから」「自分は取るに足らない存在」「自分に影響力はない」自分がそう思っていて、それが自分自身の中で真実であっても、自分の主張を聞いた、読んだ、自分の関知できない誰かが、その誰かの中にある正論にそぐわない、その誰かを脅かす、と感じて、恐ろしいまでの執念を燃やして襲いかかる可能性は常にある。
知っている誰かにそれをされている可能性だってあるけれども、知らない誰かにまでその可能性が広がる。
それが、「不特定多数に向けて書く」ということであると思う。本のカタチになっていなくても、電子書籍でもブログでもmixiでもTwitterでも同じ。
覚悟はあるか?
あってもなくても、コトは起こるんだが。*7







久しぶりに「ミザリー」を見たくなったなー。*8

*1:それ以前、1990年代初頭からローカル・エリア・ネットワークの概念については語られ始めていたし、1980年代にはパソコン通信もあったが、相互接続型のプロトコルがセケンに知られるようになったのは、阪神大震災での消息連絡手段として……というのが皮切りであったように記憶している。震災と関係なく進化を始めていたが、日本では最初は震災に備えるツールとして注目が集まった。

*2:Twitterは、むしろパソ通にも似ているなあと思うときがある。ニュースグループにも似ているけど

*3:昔を懐かしく思っている人々が目が醒めないまま年を食った人達に青春時代の懐かしさを感じて力を与えたのが、今の民主政権。「市民運動」出身と言い換えたところで、今の民主執行部は革マル日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派の末裔ですし

*4:清瀬警官殺人事件の重要参考人になってたらしい経験 http://bit.ly/bwFrIM から痛感

*5:そして未発生の事件を予防することは彼らの査定の上昇には繋がらないので動かない。

*6:それが実名であれ筆名であれ

*7:本日のエントリは棚の上からお送りしました

*8:面識はありませんがGON!の開闢時代を拓いた先輩作家のご冥福をお祈りします。