齋藤の家系図

欲すればなんとやらで、全然別の仕事の資料を探していたら齋藤の家系図の写しと戒名の並ぶ過去帳の写しらしきものを発見。
送り主は齋藤喜六さん(たぶん)。


どちらもコピーで、一方は齋藤誠之が書いたもの。こちらは齋藤庸さんの死後、戒名と没年を別の誰かが書き足した痕跡があるのだが、筆跡から言ってこれは喜六さんのような気がする。
コピーには僕の字で「八重」「昭武室」などの書き込みがあるので、何年か前の僕もこの点については同じ結論に至ってはいた様子。


誠之の読みは「まさゆき」ではなくて「のぶしげ」だった。
齋藤八重は誠之の妹で、青木昆陽を継ぐ齋藤泰吉は誠之の弟だった。誠之が長男。


また、齋藤が旗本だったことは以前から聞かされていたが、今回の写しを見ると、直参旗本として相当古い*1様子。
徳川昭武は水戸徳川の系譜だが、最後の将軍の実弟*2で、なぜその後添えとはいえ室に、公卿ではなく旧幕臣からなんだろう、と言うのが気にはなっていたのだが*3、少なくとも齋藤家の実在する中興の祖*4が、どういう切っ掛けで旗本になったのか、などについても短いながら記載を発見。

天正十年*5徳川家康公伊賀越えに郷導し奉りしにより尾張の国鳴海に於いて功抜群の故を以て召し出され旗本に可加仰せにより、これより代々直参旗本たり

……直参旗本!!
しかも家康直近!?!?


この中興の祖というのが「斎藤義政」*6、或いは「斎藤半左衛門」、「斎藤五右衛門」で、尾張鳴海の鳴海伊賀衆の一人だったようだ。

●伊賀越え随行
http://www.ne.jp/asahi/ninja/kasa/igagoe/ig-zuikou.html#鳴海伊賀衆

この義政(半左衛門/五右衛門)以前についてはかなり景気の良いw記載内容になってくるので、どこまで信用していいものかどうか怪しいのだが、斎藤家がこの家康の生涯最大の苦難だったとされる伊賀越えの生き残りであることは史実として間違いないらしい。
同行者に本多平八郎忠勝とか服部半蔵正成とか井伊直政とか、なにこの豪華キャスト……のモブみたいな感じw
上述の資料では伊賀越え随行者のうち鳴海伊賀衆は200人くらいいたらしいので、正に「その他大勢」だったんじゃないのかなという気がするのだが、「鳴海にて功抜群」ってのが、どういった功だったのかについては、この先別の資料を紐解いて楽しむことにしておこう。
家康の伊賀越えは歴史上にも重要な事件なので戦国時代好きな人なら「言うまでもない基本事項」となっているだろうし、伊賀越えに関わった人数が滅法多い*7ので、資料もそれなりに多かろう。調べる余地もありそうな。

鳴海伊賀衆は後に伊賀組に再編された。伊賀忍者とか影の軍団とかではなくて、「伊賀同心」のほうと思われる。
が、わからんのは義政の石高。直参旗本になった後は三千石取りとなっている。当時、伊賀衆の組頭となった服部半蔵正成が八千石。後々の基準で言うと三千石取りの直参旗本っていったら寄合以上なので、「同心」クラス(500石以下)ではない。そういや、千葉に知行地があったって話を婆ちゃんから聞いたっけな。*8
義政以降、四人ほど将軍拝謁をしている、三千石取り(寄合級)ということを考えると、うーん。もうちょっと資料読み込まないとわからん。


ちなみに「斎藤半左衛門」で検索してみると、安政五年頃*9の大奥呉服之間付きの「みた」の兄が斎藤半左衛門(小普請組)
とあるが、安政五年=西暦1858年。
また、元文二年に加賀藩主奥村保命を殺害した家臣を討ち取った「斎藤半左衛門」という人もいるのだが、こちらは元文二年=西暦1737年。
どちらも同姓同名の別の時代の人。



水戸徳川については斉昭から後の繋がりが書かれたものが添付されていた。
斎藤八重は「斎藤誠之の妹」として昭武の元に入ったのではなくて、徳川慶喜の主計頭新村猛雄の養女に出されていたところから、慶喜の計らいで昭武の元に嫁ぐことになったのではないか、と推測される。
当時昭武は2231歳*10。亡くした前妻の中院瑛子は1524歳*11。長女昭子を出産した一カ月後に没している。っていうか15歳。数えにしたって早すぎ早すぎ*12。八重が嫁いだときの年齢は17歳*13。昭武は活躍し始めるのが早かったというのはさておき、とにかくなんとも若い*14


この新村猛雄というのは維新前は慶喜の小姓頭で維新後も事実上の家令、ハウススチュアード或いは執事長的な立場で慶喜に尽くした人で、慶喜の側室新村信は新村猛雄の養女に当たる。恐らくはその流れで、新村の元に養女に出された斎藤八重が、慶喜のススメで昭武へ……という感じだったんじゃないのかな、という想像ができる。


ちなみにこの新村猛雄という人は他にも出という養子を得ているのだが、新村出、そしてその息子の新村猛と言えば……広辞苑の初代編纂者。
なんか、いろいろなところに繋がっていくが、きりがないので割愛。


冒頭の家系図には青木昆陽家に養子を出すに至った話なども書かれているのだが、誠之の字が汚い*15ので読めない個所がorz
でも、この斎藤庸さんの後が誰に続いてるのかはまだわからんので、やはり調べる必要はある。


なぜなら、これをまとめた斎藤誠之は「先祖伝来を後継者に伝えるために書いた」と書いてるわけで、後継者としてはやはりまとめにゃいかんだろうという気がしてくる。




でも今読まないといけないのは怪談です。

*1:過去帳の添付があった

*2:腹違い

*3:このへんの経緯は字がヘタレていてまだ解読できてません

*4:実質的初代w 菩提寺過去帳などに戒名の記載あり

*5:1582年

*6:斎藤茂政

*7:鳴海伊賀衆だけで200人いるのだが、甲賀衆も150人、これに穴山衆、織田家、徳川家臣団その他諸々交えるとかなりの人数になる

*8:斎藤の正確な知行地はまだ見つからないのだが、青木の知行地が佐倉にあったらしいので、青木の知行地と斎藤の知行地の話が混同されていたのかもしれない。

*9:篤姫の時代

*10:昭武1853年生まれ。明治17年(1883年)は31歳でした。計算間違い。

*11:たぶん

*12:計算間違いorz

*13:八重の生年がちょっと不明なのだが、昭武に嫁いだ当時の八重の写真を見ると10代後半から20代前半くらい。

*14:31歳で隠居したわけだから早いのは確かだが、言うほど若くありませんでした。2012年1月修正orz

*15:どちらかというと楷書に近い文字で書かれているので現代人の僕にもなんとか読めるのだが、ところどころわかんねえ字がある