いしゅと(古澤彰一)君逝去と東京人工群島の思い出

古澤彰一(いしゅと)君が亡くなった、との知らせ。
死についての子細はわかりませんが、3/10に葬儀とのこと。
僕は校了当日でもあるため参列は叶わず、弔電を送らせていただくこととした。
現時点で彼と親しい人、思いつく限り連絡が取れる範囲で辿ってみたが、彼と一緒に仕事をしていただろうグラムスの人とか今はもうどこにいるのかもわからない人が多く。昔教えてもらった電話番号は、とっくに他人のものになっていてどれも繋がらなかった。
なので、私事だけどこの場にてご報告したい。


いしゅと君というのは古馴染みの一人で、1990年代初頭頃にNetwork-GL/東京人工群島という、Q2回線を用いたネットゲームの立ち上げスタッフの一人だった。

Network-GLは今で言うオンラインRPGやMMORPGと遊演体蓬莱学園の冒険のような郵便を利用したメールゲームの間を繋ぐミッシングリングのようなものだ。
当時のメールゲームは、読者それぞれが今で言う独自のアバターを作り、それらのアバターの活躍をゲームマスターが読み物として書き下ろし、その書き下ろされた読み物の断片(リプレイとも呼ばれた)を、個々の読者が郵送で受け取り……それらの断片を読者同士が持ち寄って物語の全体像を読み解きつつ、アバターが取る次の行動を考えて送る、というようなものが主流だった。
この方式は参加者の増大により通信費(この場合の通信費は郵送料やコピー代などの費用も含む)が増大し、ゲームマスターの負担も重くなってしまうため、内容の質の維持のために限界になる部分も多かった。
Network-GLはその通信費の制限を、パソコン通信で行うことによって緩和しようというものだった。
アバターの行動はパソコン通信ゲームマスターに電子メールで送られ、ゲームマスターアバターの行動を折り込んだ「小説」をパソコン通信のホスト上に発表する。参加者はQ2回線*1を利用してホストにアクセスすることで従量制で参加費を支払う、というものだ。
日本においてインターネットが大々的に世に出ることになるのは1995年頃のことで、蓬莱学園が1990年頃。Network-GLは1991〜94年頃まで稼働していた。
現在の僕は実話怪談の世界に携わる者であり、その仕事の始まりは1991年発売の「超」怖い話勁文社版無印)に端を発する。今年はその怪談屋としての20周年に当たるのだが、同じ年に平行して仕掛けていたのがこのNetwork-GL/東京人工群島だった。
東京人工群島はNetwork-GLの第一弾であり、参加型オンライン小説の走りのひとつとも言えるもので、現在のラノベにも通じるものだ。2017年の東京湾を舞台とした群像劇を、多数のアバター/読者と複数の著者群の複合で描き、ネットでそれを配信するというもの。


その後、「超」怖い話が20年に及ぶ仕事になるとは当時の僕は夢ほどにも思っておらず、またもしどこかで歩む道が違っていたら、僕は東京人工群島繋がりでラノベ作家になる未来に進んでいたかもしれない。
当時の東京人工群島に関わっていた若き日の才能の多くは、今も業界の第一線で活躍している。今の名前で言うなら、島津出水君*2森山大輔*3十六夜清心*4、須藤安寿さん、上原尚子さん*5、オレンジゼリー君*6、その他、業界の表舞台ではなくて裏方として活躍されている人々も少なからずいる。
何しろもう20年も前のことで、まだ青春の延長線上にある時代のことだったと思う。


Network-GLは1991年末頃に実質的な産声を上げることになるのだが、その立ち上げ準備をしていた1991年の夏頃、僕は一週間のほとんどの時間を茗荷谷にあるグローバルデータ通信の事務所で過ごした。
とにかく何もないオフィスで、机とパソコン通信のホストマシンが一台。作業機として自分のノート*7を持ち込み、日がな一日ホスト環境を作ったり、企画書を書いたり、設定やシステム、ルールを書いたり、オンライン小説の第一話を書いたりしていた。


いしゅと君は、そのNetwork-GLの立ち上げに関わった最古参の重要なスタッフである。1991年は僕が最初の結婚をした年でもあるのだが、新妻と過ごす時間よりいしゅと君と一緒に茗荷谷の事務所にいる時間のほうが長かったかもしれない。二人だけで何夜も籠もった。
彼は当時、僕のアパートに出入りして遊ぶ人々のうちの一人だった。
函館人で暑がりで、エアコンの設定温度は常に23度。
「寒いよ! 凍死するよ!」
「何言ってんスか! 北海道じゃこれじゃまだ暑いくらいっスよ!」
寒がりの静岡人の僕とは好対照で、しばしばリモコンの奪い合いをしたっけなあ。


結局、Network-GLはグラムスから事業を払い下げられる形でQ2回線以外の機材ごと僕が引き継ぐ形になり、GLGという名前に変わり、東京人工群島というシリーズそのものは1993年頃に完結した。
いろいろ展開を考えたりもしていたが、バブルが弾け「なんでもできる、ような気がしていた」時代の終わりとともに、原石のまままた深く海に沈んでいった。
なんでもできる――そんな希望に満ちあふれていた時代を一番濃密に一緒に過ごしたのがいしゅと君であり、彼のことを思い返すと、若かった、楽しかった、そんなことしか思い出せない。*8


僕は今年で44歳。
また随分と歳を食ったもんなのだが、大昔に書かれて結局パソコン通信でのみ発表されて、それ以後はずっと塩漬けになっていた原稿の多くは、このNetwork-GL時代に書かれたものだし、文庫本4冊分相当の原稿を半年足らずで書くという過酷な経験をさせてもらったおかげで、まだ荒削りで不安定だった文章の、基礎の基礎ができたとも言える。若くなきゃできなかっただろう。
もし「超」怖い話が続いていなかったら、もしかしたら今もラノベを描いていたかもしれなかった。売れていたかどうかはわからないし、鳴かず飛ばずでとっくに消えていたかもしれなかった。
その頃に書いた、Network-GL/東京人工群島の総合プロローグに当たる、一番最初の物語が【ガラパゴスエスト】。

21世紀の頭頃に一度Webに転載しているのだが、昨年から始めた竹の子書房で、「過去の塩漬け原稿や絶版本の電子書籍での再刊・復刻」のために、ガラクエを投入することになった。
イラストレーターも刷新。原稿は、まあできるだけ当時の熱を残す形で。もう黒歴史過ぎて手を入れるのも辛いし、本当は出すのも恥ずかしすぎるんだけど、早すぎた「研究都市モノSFの一バリエーション」として、バブルの熱気が残る古典的な夢物語として、そして敢えて青春の記録として、発刊準備を進めていた。
「加藤さん何やってんスか! 今更東京人工群島スか!」
きっといしゅと君にはバカにされんだろうなあw
でもいいや、完成したらいつかいしゅと君に見せびらかしてやろう――。


そんなふうに考えてたら、「いしゅと君、亡くなったんだって」の知らせ。
ひどいよ。
そりゃないよ。
彼、僕より二歳も若いんだよ。
まだ2017年まで6年も残ってんだよ。


ここ何年か連絡取ってなかった。
生きてりゃそのうちまたどこかで会えるんだろう、と思っていた。
またどこかで会えるという考え方は間違ってないと思うけど、「生きてりゃ」という前提が間違ってた。読みが甘かった。
無沙汰を侘びたかったし、近況を聞きたかったし、最近どうよと酒を飲みたかったよ。


ラクエはちゃんと出す。必ず出すから。
「何やってんスかw ちきちきはどうしたんスかw」
まあ、それはぼちぼちなw


今生のお勤め、お疲れ様でした。
安らかにお休み下さい。
今年の夏のエアコンは強にしとくよ。

*1:当時、グローバルデータ通信(後のグラムス)という会社から、「余っているQ2回線の使い途について提案してほしい」という話があって、この企画が動き出した。Q2回線の利用料金は最低額を設定されていた

*2:当時のPNは坂本良太。現在はパラダイム社などでゲームのノベライゼーションを生業にしています。

*3:当時のPNは森山犬。すたじお実験室の所属イラストレーターでした。現在は押しも押されもしない人気漫画家。

*4:当時のPNは青木邦夫ドラマガガメル連邦を一緒にやっていた同志であり、高校時代からの友人です。

*5:当時は富士見書房ファンタジア文庫にも書いていました。最近はまたあかね書房の怪ダレなどで一緒に仕事をしています。

*6:当時のPNは泥士朗。すたじお実験室の主幹でした。今もゲーム業界に籍を置いているようです。

*7:PC-286

*8:ろくでもないこともいっぱいあったと思うし、思いだしたくない話なんかもあったはずなんだけど、もう忘れた。