「超」怖い話 怪罰

「超」怖い話 怪罰 (恐怖文庫)

「超」怖い話 怪罰 (恐怖文庫)

というわけで、10月の新刊、「超」怖い話 怪罰(久田樹生著)がリリースされました。


久田超怖は春と秋の定位置。
どちらも昔は「怪談の需要はない。故に怪談が売れない。だからそもそも怪談を出さない」と言われた時期だった。春は「本が売れない」で、秋は「夏に怪談本出すぎでもうお腹いっぱいで飽きられているから売れない」で、どちらも怪談が苦戦するというか、そもそも怪談そのものに商機そのものがない季節だったのだが、今はそんなの関係なしに一年中怪談が読まれるようになった。
それだけ、怖い本が認知された――ということではなくて、「溜飲を下げるための娯楽としての必要性が持続している」ということではないのかなあ、という気がする。
不景気なときにゴシップが売れるのは、誰かの不幸を嗤って溜飲を下げたいからだ。ゲスだなんだと言われながらも、扇動的な芸能報道、新聞、週刊誌やタブロイド誌がなくならないのにはちゃんと需要=市場があるからだと言える。
それと同じ、というとアレだけど、「誰かの不幸に寄り添う、誰かの不幸を共有する、しかし自分は不幸の弊害は受けない」という意味でホラー小説や怪物、怪異に蹂躙される物語というのは、不景気なときほど持て囃される。
95〜05年頃までのJホラーブームがそうだし、99年頃のノストラダムスブームがそうだし、第二次オイルショックの頃のあなたが知らない世界がそうだし、第一次オイルショックの頃の恐怖新聞がそうだし、戦後直後のカストリ雑誌エログロナンセンスの流行がそうだし、関東大震災後の文豪怪談がそうだし。
怪談・ホラーが売れるのは、地位を得た、社会的に認知された、評価された、そういうポジティブな理由ではなくて、どちらかというともっとネガティブな理由なんじゃないだろうか。ネガティブな理由でそうなっていることを誇らしく認めたくはないから、ポジティブな理由を探しているだけなのではないか。
怪談を仕事で20年やってて、定期的に苛まされる疑念はそこらへん。


リーマンショックが2008年。兆候は2007年くらいには既にあったけど、超-1が2006年からで現在の恐怖箱ラインナップが構築されていったのが2007〜2008年くらい。
「怪談は不況に強い」というのは昔から言われていることなのだけど、不況に強いんじゃなくて「不景気なときほど需要が高まる」というコンテンツなんじゃないかとは思う。
それが証拠に、景気がよくなると怪談の売れ行きは鈍った。あれほど日本人が気前が良かったバブル期は、恐怖/ホラータイトルはあんまり商売になってなかったし。
人間、景気が良くて気前がいいときは不景気な話は聞きたくないし、俺が肩代わりしてなんとかしてやるよ、くらいの太っ腹になる。
不景気になると他人のもっと不景気・不幸な話を聞きたがるし、たかりたがりwになるし、誰かが失敗すればそれが自分の利益になるんじゃないかと期待したりするようにもなる。


平和で幸福だと無用の長物、不景気で不幸だと引っ張りだこ。
そういう意味で、ホラー/怪談は消防署や自衛隊と似てるなあと思うときはある。
ないと困る人がいるが、できれば活躍はしないほうが世の中にとっては幸せ。世の中が不幸になるときほど、需要が高まり喜ばれる。
人命救助を旨とする人々は、怪談と比べられるのは心外だろうと思うけど、「生命と財産の救済」に対する「心の救済」のための必要悪的存在という点では通じるんじゃないだろうか。


いつか怪談で溜飲を下げる必要がまったくない時代がくればいいのにと思う反面、そんな時代が来ることは絶対にあり得ず、それが故に自分が生かされているという事実もあると思うと、やっぱいろいろ悩ましくなる。
怪談の成功や繁盛を、心の底からは喜べないのは多分、怪談=不幸話の介在者として糊口を得ている現実について同時にやましさも感じてるからなんかなあ、とか。
怪談屋にとって、尽きない悩みです。