子供の死因

故あって、子供の死因など調べる。
世界的には、子供の死因の大部分は病死らしい。
肺炎、下痢、風邪、マラリアその他。
他に不慮の死。


日本では不慮の死が最も多く、その割合の大多数を占めるのが交通事故。
15歳未満だと交通事故を筆頭に、誤嚥(誤飲)、転落(マンション上層階からの転落の他に、階段転落も含む)、家庭内事故(ドアに挟まる、自転車のリムに指を挟むなども含む)などが上位に上がってくる。
15〜19歳の死因の筆頭はやはり交通事故で、3〜4位辺りに今度は「自殺」が入ってくるのだそう。
自我と社会の軋轢に対する対応方法を覚える前に、先に心が折れてしまうと、自ら死んでしまう。若年層の自発的ドロップが多いのも日本の特色らしい。心が未熟だから自殺するのではなくて、早熟・老熟が【早すぎる】が故に死んでしまうのかもしれないが、そこんところはわからない。

交通事故死は一種の災害による死と言える。
それが被害者の過失であれ加害者の過失であれ、殺す気で掛かってきたのでない限り、これは一応被加害者双方にとって災害と言えるが、この交通災害の犠牲者の多数を占めるのは、若年層と老人。

階段転落を主因として死んだ人と言えば、谷啓中島らも塩沢兼人*1、この辺りが思い浮かぶのだが、実は日本人の屋内事故死の上位には階段転落が上げられるらしい。
今では手すり必須になったり、60度以上の急角度階段は減ったりしてきてはいるものの、古い家屋などでは急角度+手すりなしは珍しくないし、転落→脳挫傷コースは大人子供に拘わらず、致命傷に至る。


日本人の死亡数を調べたグラフなどを眺めてみると、伊勢湾台風の年と阪神大震災の年は、それぞれその前後の年よりも、伊勢湾台風で+3000人前後、阪神大震災の年で6000人前後ほど、グラフからはみ出た歪な上昇がある。
つまり、それだけの人数がたった一日で命を奪われた、ということだ。
東日本大震災で死亡が確認されている人は16000人ほど。阪神大震災の三倍弱程度。今以て行方不明の人が3400人ほどいる。最悪2万人に届く可能性がある。
2011年の数字が書き加えられたグラフを見ることができるのは、また数年先になるのだろうけど、1度の災害で2万人が死んだというか、1度の災害に起因する2万回の災害が2万回の犠牲者を出したとみるべきなのか。


子供の死因の話に戻ると、子供にはまだまだ続く未来があり、若いうちから死を意識させる必要はなく、恐怖や危険は大人が取り除いてやるべきだ――という社会合意がある。
テレビや報道が死、或いは死体を映し出すことは最近はめっきりなくなった。(僕が子供の頃には放送事故的なものも含めて結構あった気がする)
葬儀はセレモニーホールで行われるようになり、家から出すケースも減った。
病人は病院で息を引き取り、家で死ぬことも減った。
事故死する人を目前で目撃することは、あまり一般的な経験ではない。
死を描く映画ドラマアニメ漫画小説ゲームなどは氾濫している。
が、死は痛みを伴い、自己都合では回避できず、いざというときは大人は助けてくれない、正義の味方は来ない。そういうことは、盛り上がらないから描かれない。
「誰かがなんとかしてくれる。自分は子供で、弱者だ。故に大人で、強者が助けてくれて当然だ」
この意識は、社会が大人に対して「そうしてやるべきだ。子供を労るべきだ」として共通認識として持っているものだろうけれども、その結果、「大人が見てないところで、自分で自分を救う」ということについて、鈍くなっている子供も、もしかしたら出てきているのではないか。

交通事故死の多くは不可抗力で、被害者が亡くなっている時点で疑うべくもなく加害者に非がある。
が、「自分は被害者で悪くない。悪いのは加害者である」――だから車が避けてくれるはずだ、という危険対象に対する甘えというのが、実は強く出ているのが若年交通事故の主因のひとつなのではないか、と思えなくもない。



世の中は思い通りにならない。
自分にとって都合の良い結果が必ず起こる保証はない。
これを、子供に理解させ、
「だから自分の身は自分で守るしかないのだ」
という結論を導き出させるのが、子供のための怪談であると思うのだ。
自分にはっぱをかけたところで、子供の親からクレームが来るくらい怖いのを書くぞ、いえ、書いてます。

*1:声優