スマホと電子書籍
インターネットの活用法として、元々PCを使っていた人と最初は携帯から入った人では携帯/スマホでのメールの活用スタイルが根本的に違う。
携帯(PHS)でのショートメールをチャットのように使う人の場合、頻繁にメール着信や返信を行うことになるので、頻繁な起動でディスプレイが電池を食うスマホは不向きなのかもしれない。
また、今回のアップデートでは電池保ちは確かによくなっているが、スクリーンオンになっているときの電池消費は改善されていない。というか、ブライトネスの最小をさらに下げない限り改善は難しかろう。
となると、常時ディスプレイを点灯させることが前提になるアプリ・サービスは、現状のままではスマホとの親和性があまり良くない、ということになる。
例えば、
- 動画、映画(動画。ストリーミングの場合は通信)
- ワンセグ(動画+電波受信)
- ネットブラウズ(静止画面表示+通信/電波受信)
など。
そして何より、電子書籍とスマホは親和性がよくない。かもしれない。
電子書籍は「読書機会のニッチを狙う」というものになると思う。
これには根拠がある。
元々本というのは机の前で姿勢を正して読むものだった。保存性のよい本は値段も高く、頑丈で重く嵩張るのでおいそれと持ち歩けない。
文庫本の登場は本を小さく安くし、保存性と値段と重さを下げるのと引き替えに可搬性を上げた。
その結果、本来読書には使われなかった時間(移動時間、自宅以外での細切れの休憩時間)などが文庫読書に当てられるようになり、安価な娯楽としての文庫読書が普及した。
アメリカでは映画は安く本は高い娯楽であるというが日本では逆で、映画は高く本は安い娯楽である。ゲーム、アニメ(漫画は本に含む)もあるが、アニメはこれまで自宅のテレビの前に拘束されるものだったし*1、ゲームもコンシューマ機主体の頃はアニメ同様に「それを楽しむ場所」を固定された高額な娯楽だった。
本(文庫や雑誌)はそれに比べれば娯楽単価が安く、可搬性に優れていたので、細切れの可処分時間を専有できていた。
が、ここに「携帯ゲーム機」と「携帯電話」が入ってきた。
携帯ゲーム機、要するにゲームボーイ辺り以降、PSP、3DSに至る「持ち歩いて遊ぶゲーム専用機」で、これはゲームの単価は相変わらず安くはないものの、テレビの前から解放することで細分化された個人の可処分時間を使えるようになった。
さらに携帯電話が通話機からコンテンツサービス機に変容した。
かつての「携帯サイト」「ケータイ小説」はコンテンツを読ませる、最小可処分時間消費のためのコンテンツ提供サービスに。
そこから発達してモバゲーやGREEのようなSNSゲームサービスに。
外出して、通勤して、仕事して、昼休み。仕事して、どこかで晩飯を食べて、帰宅して、自宅へ。だいたい10〜14時間くらいのサイクルで皆が動いているとして、その間にある細かい可処分時間を、常に持ち歩いている端末(携帯)で使い、なおかつ「携帯の電池に負担が掛かりすぎない範囲」で足りる、というところがミソなのだと思う。
電子書籍は既存の文庫に置き換えられることを期待されている。
これは可搬性、保存性の利点を狙ったもので、「常に持ち歩く携帯、スマホに文庫本も入ってる」ことで、これまでのように読み物が読まれてほしい、ということだ。
が、先にも述べたようにまず、「より細かい時間単位を消化する」ことを念頭に置いたSNSゲームという強敵がいる。1冊読むのに一定の(ラノベでも30分、かちっとした本なら2〜3時間、難しい本なら数日)を要する【本】【読書】というスタイルは、飽きっぽい読者を長時間拘束するのが難しい*2。
が、10秒か1分遊んですぐに止められる、別の同じような細かい作業ゲーを平行して幾つかやっている、というような人を引き留めるだけの魅力を、作家性にだけ期待するのは難しい。
そしてスマホのハードウェアとしての性能限界。
現在の高機能スマホは、
に向かっている。*3
繰り返しになるが、ディスプレイが常時点灯しているとあっという間に電池を食う。
ArrowsZの電池容量は1400mAくらいで、1000mAくらいだったIS03の約1.5倍あるが、デュアルコア+でかいディスプレイのせいで電池保ちはIS03よりは格段に悪い。
電子書籍は画面に表示された文字をバイオアイボールセンサで追う。
アイボールセンサ=人間の目玉である。
個人により読解速度は多少違うにせよ、200字の原稿を読んで理解するのに掛かる時間は概ね1分くらいであるらしい。*4
台詞や叫びwや改行が多いラノベであれば、見開き1分くらいで読めるかもしれないが、クラークや司馬遼太郎を見開き1分で読解するのは、初見では至難である。
となると、電子書籍は常にディスプレイ点灯させて読まなければ、読んでいる間にスクリーンオフになってしまう。スクリーンを常時点灯させれば、凄い勢いで電池が減る。
電池が減るのは嫌だから、電子書籍は開かない……。
動画映画も同様に電池を食うが、理解に必要な上映時間が最初から決まっている上に、多くの映画は尺が決まっている。ラブロマンスだろうが戦争映画だろうがアニメだろうが、上映時間は概ね90〜120分だ。だから、電池消耗量も予想が付きやすい。*5
しかし、電子書籍は読む時間が不定の上に、読んでいる間は早く読もうがゆっくり読もうが常時点灯を強いる。
この時点で結構不利なのではないか、という気がする。
移動中などの可処分時間を短時間で低価格の娯楽消費に回させたい。
これが昨今の娯楽の基本だ。
数日の旅行より半日のドライブ、半日のドライブよりも2時間の映画、2時間の映画よりも5分の投稿動画よりも、1分だけアクションするSNSゲー。それを細切れの時間を使って頻繁に。
まとまった時間、まとまった費用が必要になる娯楽の需要は今後ますます減り、細切れ時間と小銭しか使えない人、シチュエーションが増える。
そこに入り込んだ「ネットを使った小銭遊び」であるSNSゲーは、「小銭で長時間拘束、しかし嵩張る」という文庫本を駆逐しつつある。
これに対抗するための電子書籍は、端末に負担を掛けすぎるが故に、一番消費して欲しいシチュエーションに持ち出されにくい。
ここが鍵になってくる。
端末を作ってる側に求めたいのは、究極的には電池保ちを改善せよ、なんだけど、これは言われなくても努力しているであろう。
個人的には電子書籍を読むだけの端末ならキンドル最強な気がしてきた。スイッチオフしてもモノクロの頁が表示され続けるカラーインクは、電池切れの心配をほとんどせずとも、数日間以上の電子読書が可能だ。米Amazonのキンドルを軸としたアメリカの電子書籍文化圏は、この「電池保ちの心配」からの開放で成り立っている部分は少なからずあると思う。
全部入り大好きwな日本人としては、電子書籍リーダーとスマホを二台持ちするのは嫌だ。きっぱり嫌だ。
その代わり、スマホの背面か表面下1/3くらいの場所に、スクリーンオフでも表示が続く電子インク的モノクロモニタが付けばいいのに、とは思う。
IS03の素晴らしいところは、ディスプレイ下部にあるモノクロスクリーンで、スクリーンオンのときにはメニューボタンが、スクリーンオフになるとバッテリー残量、カレンダー、時計が表示される。スクリーンオフのときは、バックライトによる自発発光ではなく、反射液晶のような感じになるので点灯しっぱなしのディスプレイに比べれば電池消費は少ない。
あれみたいな「電子書籍を読む、或いはメールを読む」など活字を読む専用のミニ反射液晶ディスプレイが搭載されていればいいのに。もし今そういうのが出たら、ArrowsZから買い換えてもいい!<買ったばかりです><
コンテンツを作っている側からできることは、コンテンツの可読時間の細分化だと思う。
かつてケータイ小説では、1画面に表示できる文章量が端末の性能上制限されていることから、1文の長さそのものが短い文章が発達した。
人間は視界の文章がはみ出していると、一度直前に読んだものでも頭に入って来にくいものらしく、読み終えた文章でも視界の中に入っていると「全体」として把握するのだそう。単語を読むのではなく文節、文章を読み、段落全体を「ひとかたまり」で把握読解している。
故に、一文が長すぎて視界の外に消えていってしまうものは理解されにくくなる。修飾詞がどの語に掛かっているのか、文末で行われた動作が誰による誰に向けたものだったかが、わからなくなってしまう。
これを解消するためにケータイ小説では、主語の省略、体言止めの多用、改行の多用、一文を極力短くする工夫が重ねられることになった。
それを紙の本に引き出して並べて見るとなんとも奇異な印象を受けるのだが、あの狭い携帯の画面で見るにはそれがベスト&ベターだったわけだ。
スマホでも同様の事が言える。
すぐにスクリーンオフになるというのは長時間点灯させれば解消できるのだろうが、それは電池をどんどん消耗させる。
大きな画面でたくさんの文字数を一画面に詰め込むことはできるが、それは可読時間を増やし点灯時間を延ばしてしまう。結果、電池を消耗させる。
画面がどれほどの大きさになろうと、端末側の電池の問題が解消しない以上は、「次々に読める」「すぐに理解できる」「把握できる」という【一文の長さ】【一話の長さ】が重要になってくるのではないか。
結局、課題はケータイ小説が直面したものに回帰する。
端末の改良はコンテンツを作る側には対処のしようがないものなので、今あるものに対応しつつ最適化したものを考えるしかない。
SNSゲーはその意味で現時点では最も成功したビジネスモデルだと言える。
電子書籍は「電池のことをまったく心配する必要がない紙の本」の常識を一度捨て去り、「電池残量と稼働限界」を念頭においた、或いは読者に不安視させないようなコンテンツの在り方を考える必要があるのかもしれない。
2010年の竹の子書房の課題は、「如何に短い時間でオーサリングするか、量を出すか」で、2011年の課題は「分量/容量の多い本を作る」だった気がする。
1冊あたりの頁数は、2010年頃は50〜100頁前後が主流だったが、2011年は200頁越えは珍しくなくなった。中には500頁越えもあった*6。
また、長くて大きければお得なのか、というとそういうものではないのではないか、という気もしている。
竹の子書房がリリースするものは確かに全て無償で、日本円による支払いは頂いていない。その代わり、読者が持っている可処分時間を頂いている、と言える。
作る側も自分の可処分時間を解かして使っているわけだが、読む側も同様に可処分時間という【通貨】を使っているわけで、大人数で時間を掛けた「可処分時間的には高額」なものであっても、読者側が「札束なみの可処分時間の」を必要とされるものは読まれにくいのではないか。
「小銭の可処分時間」で消費しきれて、その他の可処分時間消費娯楽と対抗できる程度のもの、そういうコンテンツの在り方というのを考えるというのが、2012年の課題になるような気がする。
この概念に照らし合わせると短編しかできないのかというとそういうことはない。長編を如何に「細切れの小さなクラスタであるかのように見せかけて読ませるか」というのは可能だろう。120分を1本で拘束するのではなくて、1分のものを120回続けて読ませる、という考え方。
そこで求められるのは、やはり「短編蓄積力」と「構成力」なんだろかなあ。